序章2 『少女は字を書けない』
そこまで書いた時、あしの左肩を軽く叩く者(もん)がおった。
集中していた意識が現実に引き戻され、忘れちょった汽車の揺れとやかましい走行音が身体の内を軽う掻き回してくる。
一体どこの誰が邪魔してきたんじゃとちっくと苛立ちながら見やると、そこにはまだ年端も行かないちっちゃな女の子がおった。頭に太めな(大きい)リボンをつけて身に着けているのは浴衣という和洋折衷な格好。なぜか首から五角形の絵馬みたいな板を赤い糸を通してつり下げちょる。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
女の子の黒くつぶらな瞳に、若い男の苦笑いが映る。
こんな年の離れた子に腹を立ててちゃあみっともない。あしは努めて優しい声音で話しかけた。
「どうしたがだい、お嬢ちゃん」
「それ、筆?」
毛先を墨で黒く染めた筆、それを女の子は指差し興味津々といった様子で訊いてきた。
「ああ、そうちや」
「絵を描いてたの?」
「いいや、手紙ぜよ」
「えっ、……ええ!?」
女の子はあしの持ってた紙を覗き込んで、「わぁっ!」と声を上げた。
「ほんとだ、文字だ!!」
「そげに珍しいかや?」
「うん! 文字はたまに見るけど、書いてる人は初めて!!」
「そうか……」
女の子はあしの顔をまじまじと眺めてきて、目をぱちぱちさせて首を傾いだ。
「お兄ちゃん、どうして悲しそうな顔してるの?」
「なんちゃーない。……そうじゃ、お嬢ちゃん。試しに文字を書いてみんか?」
「え、もなかが?」
「もなか?」
「もなかはね、もなかっていうの。お菓子のもなかと一緒ってお姉ちゃん言ってた」
自身を指差して「もなか」と連呼する女の子。ようやく鈍いあしも発言の意図に察しがついた。
「つまり、お嬢ちゃんの名前ってことか」
「そうだよ」
「そかそか。よか名前じゃな」
「えへへ。でもね、もなか、どうやってもなかって書くかわからないの」
寂しそうな顔で俯くもなか。見ているだけであしの胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
「……そげな顔せんでええ。あしが教えちゃるきに」
「ほんとっ!?」
打って変わって、もなかはぱっと光が差したような笑みを浮かべる。漂うていた暗い空気が雨上がりの湿気のようにたちまちどこかへ引いていった。
「ああ。ほら、こっちに来(き)い」
「うん!」
ぽんぽんと叩いた隣の席に、もなかはぴょんと跳ねて座った。
「ね、ね、どうやって書くの? どうやって書くの?」
脚をばたつかさせて、前のめりにたずねてくる。本当にぐいぐいって感じで。
こうまで期待されると、自然と顔がほころんでくるのう。
「まあ、落ち着き。まずは筆の持ち方からじゃ」
「ん? ぎゅっと持てばいいんじゃないの?」
もなかはあしが持っちょった筆を木刀を握るようにつかんだ。
「ほげな持ち方じゃあ、きれいな文字はなかなか書けんぜよ」
「でも、持ちやすいよ?」
「持ちやすさと書きやすさってのは、また別なんじゃ」
「変なの。楽な持ち方で、きれいに書けるようにすればいいのに」
「よう考えてみ。楽な持ち方はいい字が書けるようになるまで時間がかかる。じゃけんど正しい持ち方なら、今すぐきれいな文字が書けるかもしれん」
「え、そうなの? じゃあ正しい持ち方する! 教えて教えて!」
「よかよか。筆の持ち方にもいくつか種類があるんじゃが、これが一番楽にきれいに書ける持ち方じゃか」
あしはもなかに、親指と人差し指、中指で筆をつまませて、下から残り二本の指で筆を支えさせた。
「双鉤(そうこう)法、またの名を二本がけという持ち方ぜよ」
「んぅ……、なんか変な感じ」
「わっはっは。最初は誰だってほがなもちや。じゃけんどすぐ慣れる」
筆を握る細い(小さな)白い手に、あしは自分の枝でできたような小さい(細い)手を重ねる。やわこくて滑らかな肌の感触が手の平ごしに伝わってくる。
「もなかは字を書くのが初めてじゃからな、今回はあしが手伝っちゃる」
「お兄ちゃんの手、あったかいね」
「イヤか?」
「ううん。なんかね、心もあったかくなってくるよ」
「そか、そか。じゃけんど心が温(ぬく)くなるんは、もなかが優しいからじゃ。他人を受け入れる心の度量がなけりゃ、人の体温なんて不気味に感じるだけじゃからのう」
よくわからないというように眉をひそめるもなかに、あしは声を明るく改めて言った。
「ほんじゃあ、あしの手の動きに合わせて書いてみるぜよ」
「うん、わかった」
無地の白い紙を閉じた和装本の一枚に『も』の一画目へ筆を入らせる。そのまま『し』の字状に筆を動かし、最後に毛先を浮かせつつ跳ねさせる。
もなかは太く(大きく)口を開けて手を振ってはしゃぐ。墨が変なところにつかないかひやりとしたが、幸いにも最悪の事態は免れた。まあ、墨粒が僅かに飛んだかもしれんが、それぐらいは大目に見てもらおう。
「引けた! 線、引けたよ!」
「そうじゃな、引けたな。なかなか上手いじゃいか」
「えへへー。ね、これ、これがも?」
「いいや、あと二本横線を加えるんじゃ」
言いつつ、左上にのどまで紙面に毛を入れ、揮毫し右まで持っていき。
そのまま僅かに筆を浮かせ止めることなく三画目の線を引く。
ちっくといびつやが、明朝体の『も』が紙面に書き上がった。
「これがもなかの『も』じゃ」
「なんか可愛いね!」
「ほんじゃ、続けて『な』と『か』も書いていくぜよ」
「うん!」
まだまだ文字を書きなれない細い(小さい)子っちゅうこともあり、力任せに筆を押し付けようとしてくる。それをどうにか制して導いていくのは暴れ牛を御するがごとき重労働。ただほりゃあ面白くもある。思い通りにいかない書は、言い換えれば予想に反した字が書き上がるっちゅうこと。自分じゃ書けない字を目の当たりにできる、その期待は多少の苦難を容易く吹き飛ばしてくれる。
『か』の長い右点を打ち、もなかの名前が書き上がる。
墨色のそれは一字一字の形から、線の強弱に空間の開け方などいくつも粗があったが、第三者に見せてもちゃんと意図通りに読んでもらえる程度には整っていた。それにこの字には、あしがもっとも求めるもんが入ってる。
「できたぞ」
「これでもなかって読むの?」
「ああ。これがも、これがな、してこれがか。続けてもなか、じゃ」
教えてやるともなかはいきなり両手を上げ、喜びの叫声を響かせた。その拍子にあしの頬に黒い線がついたのもかまん(構わ)ずに。
「わあっ、すっごい! もなか、名前書いちゃった!」
あしは頬を手拭いでこすりつつ、「ああ、書けたな」と相槌を打った。
もなかはそんなの目に入らないようで、すっかり悦に入(い)っている。
「ね、ね、この字、上手? もなか、字書くの上手い?」
「上手いうえに、まだまだ伸びしろがある。練習すればもっといい字が書けるぜよ」
「ほんと? ほんとにほんとっ!?」
「本当じゃ。それにもなかは字を書く上で一番大切なもんをもっちょる」
「一番大切なもの?」
「ああ、それはじゃな……」
言いかけた時、後ろ側からドアを開く音と共に『もなか、もなかいる?』と妙に感情と生気を欠いた声が聞こえた。
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