第一章2 『風に聞いた名』
「ほいで、これからどうするんじゃ? 記憶がなければ色々不都合じゃろう」
「そうね、どうしようかしらね。記憶もないうえに金もないとくれば、誰かに泣きつくしかないわよね」
ちらっと横目で視線をよこされる。
「あんた、無断であたしの裸見たわよね?」
「……泣きつくの意味を取り違えとらんか?」
「いいからいいから。あんた、名前は?」
「手田継愛じゃが……」
「そう。じゃあ、継愛。あんたにあたしの面倒を見させてあげる」
「なして上から目線なんじゃ?」
「光栄に思いなさい。なんてったって、神の面倒を見ることができるんだから」
あしは思考停止し数度瞬きした後、鼻を伸ばしている少女に言った。
「のう、何を勘違いしちょるかわからんが、人間が神さんの面倒を見るのは特別なことやないぜよ」
「え……、そうなの?」
目を見開き体を僅かに跳ねさせる少女。やはり色々記憶が飛んでいるらしい。
「そもそも神さんっちゅうのは……」
「その説明は後でもいいじゃないでやんすか。それよりその子の無事も確認できたんだしそろそろ汽車に戻ろうでやんす。他のお客も首を長くして待ってるやしょうし」
「それもそうやな」
あしは少女に背を向け、しゃがんで手を後ろにやり、振り返った。
「ほれ、乗り」
「え……、な、何よ?」
「ケガしてんちゅうても、派手に落ちたんじゃ。おぶっちゃるから、乗り」
「ばっ……、あ、あんたなんかに心配してもらう筋はないんだけど、その……、し、仕方ないから、今回だけはおぶわれてあげるわ!」
「よか、よか」
ぶすっとした顔で、少女は背に乗ってくる。
すんすんと鼻を鳴らす音がして、ぼそっとした独り言が聞こえてきた。
「……いい匂い」
「ん、何か言うたか?」
「別に」
「そうか?」
「そうよ。別にいい匂いがするとか言ってないから」
言うてるやか。少女にゃ見えんよう、あしは前を向いて笑いを零した。
背負い直して立ち上がったが、予想以上に負担がなかった。
「軽いのう、ちゃんと食うちょるか?」
「あたし、記憶ないんだけど」
「そうじゃったな、すまんかった」
「ねえねえ、その子だけずるいー。もなかもおんぶー」
袖を引いて不平を漏らすもなかに、あしは苦笑して首を振り。
「一度に二人は無理じゃ」
『もなか、無理を言っちゃダメよ』
「だってー」
「もなかは今度しちゃるきに。な?」
「お兄ちゃん、統京来るの?」
「ああ。もなかも統京に行くんか?」
「もなかとお姉ちゃんはね、統京に住んでるの。だから帰るんだよ」
「じゃったら、いつでもおんぶしちゃれる。あしもしばらく統京に滞在するからのう」
「ほんと!? ほんとにほんと!?」
興奮気味に尋ねてくるもなかに、あしはうなずいちゃる。
「ああ。約束じゃ」
「わーい、約束約束ー」
無邪気にはしゃぎまわるもなかを微笑ましく眺めていると、耳の近くで溜息が聞こえてきた。
「子供はいいわね、のんきで」
「おまんも見た目はめっそう変わらんと思うが」
「あたし神なんでしょ? だったら、外見なんてあてにならないんじゃないの?」
「まあ、そうじゃな」
話しつつも汽車の方へ歩き始めた。
少女はすっかり黙り込んでしもうたがやき、あしの方から話しかけた。
「本当に何も思い出せんのか?」
「全然」
「そか。せめて名前ぐらいは思い出してもらわんと、不便でしゃあないんじゃけど」
「だったら、あんたが便宜的につければいいじゃない」
「ええんか?」
「仮よ、仮。思い出すまでの」
「ふーむ。何がええかのう」
青空を見上げて考え始めるやいなや、もなかが元気漲る声で言うた。
「もなかね、もなかね。よーかんとか、まんじゅぅが好き!」
「あんたにゃ頼んでないわよ! 提案するにしてもせめてもうちょっとマシなの考えなさいよ、ってかそれただ単に好物言っただけでしょ!!」
『神さんに失礼でしょう。謝りなさい、もなか』
「えー。もなか真面目に考えたもん」
「まあ、もなかっちゅうのも和菓子の一つじゃからのう。そういう意味じゃ、羊羹と饅頭もありかもしれんのう」
「なしよ、なし。もうちょっと品のあるものにしなさいよ」
「難しい注文じゃのう。うーむ」
頭を捻りだしてすぐ、風を感じた。方角は傾き始めた日を頼りにして……、多分東からだろう。周囲の丈のある青い草が、風に身を任せて気持ちよさそうに揺れている。
ふとあしは思いついて少女に言うた。
「トウフウ、はどうじゃ?」
「トウフウって……。あの白くて四角い食べ物のことじゃないでしょうね?」
「ちゃう、ちゃう。東の風って書いて、トウフウじゃ」
ひさに黙り込んだ後、やがてあしだけが聞き取れるぐらいの細い(小さい)声で言った。
「……まあ、いいんじゃない」
「そか、よかった」
「でも仮の名前だからね。そのことを忘れるんじゃないわよ」
「わかっとる、心配せんでええ」
「まったくもう、どうして記憶喪失なんて……。やっぱり汽車から落ちたせいかしら?」
「じゃけんど神さんは現実では物理的に負傷することはないんやお?」
美甘に振ると、彼女はうなずきつつ言った。
『ですけど、もしかしたら元が人間の神様なら、多少はそういう影響を受けるかもしれません。門外漢なのであまり自信を持っては言えませんが』
「あるいは、あの汽車から落ちた瞬間に神様になったとかは考えられんか?」
『その可能性もなくはないと思います。亡くなったら仏様という思想もありますし』
「どちらにせよ、憶測の域は出ないってことね」
トウフウが溜息をついた直後。
ふいに視界が白く染まったと思ったら、ゴォロゴォロガッシャーンッと瓦解音に似た響きが空気を震わせた。
「なんじゃ、雷鳴か!?」
「……あ、あそこでやんす!」
車掌さんが指差したのはさっきまで乗っていた汽車だった。
その車体のすぐ真上に黒いもくもくしたものが浮いている。煙にしちゃデカいし、色が濃すぎる。
ピカッと白い光が瞬き、また例の轟(とどろ)き。ありゃやっぱり雷雲らしいが、なしてあんな低いところに……?
その疑問はすぐに氷解した。
「うぉいッ、いつになったらコイツぁ発車すんだよ!?」
怒鳴り声を上げたのは浅黒い肌の大柄な女だった。茶色がかった髪は縮れており、白い帯で無造作に後ろで束ねていた。
着物は派手な輪と菊の合わせ模様。一本のでっかい太刀をぶんぶん振るい、車掌さんとぶっちゅう格好をしたのっぽの男に詰め寄っている。
「申し訳ねえ。今、ちょっと負傷者が出ちまって、治療の方を……」
「ああんっ、負傷者? そんなヤツのために俺様は足止めを食らってんのか?」
「へえ、左様で……」
「さようでじゃねえんだよこのヤローッ!!」
怒号と共に稲光が宙を割く。男はすっかり怯えてしもうたのやろう、走って二十秒はかかるここまで音が聞こえてきそうなぐらいに震えまくっちょる。
「お、お客さん、他の方の迷惑になるんで……」
「今まさに俺様が迷惑被ってんだよ! このスサノオ様の時間を無駄にするたあいい度胸してんじゃねえかっ、ええッ!?」
男の言ってることはようわからんが、スサノオとやらの声は間近で叫ばれてるかのようにはっきり聞き取ることができる。
「しょ、書字者を呼ばせてもらいやすぜ?」
「へっ、お前等人間はいつだってそうだ。一部の強えヤツが弱えヤツのお守りをしてかろうじて種の存続を保ってる。そんなヤツ等と俺様達神が対等な関係たあ、笑わせるぜ」
「おいらが呼ばずとも、他の人がすでに呼んで……」
「上等じゃねえか! 侍だろうが書字者だろうが、誰でも呼んできやがれっ! この俺様がギッタンギッタンに叩きのめしてやるからよぉッ!!」
遠くから聞いていたあしは、ある単語にはっとさせられた。
「書字者……?」
『どうされたんですか、継愛さま?』
「今、あの女書字者って……。なして書字者が、侍と同列に語られてるんじゃ?」
『ご存知ありませんか? 今や書字者は、邏卒(らそつ)と並んで統京の治安を守る存在なんですよ』
「書字者っちゅうのは、書道家とぶっちゅうで文字を書く人の肩書きじゃないかや?」
『そういう側面ももちろんありますが、書字者に真に課せられた使命はまるっきり異なります。お師匠さんは何も教えてくれなかったんですか?』
「いや……」
あしは口をつぐんだ。
ふと脳裏にある一言が浮かぶ。
それはいつだったか、師匠が口にした言葉だった。
『ええか、継愛。書字者っちゅうのは、ただ書を行う生業じゃあない。字を書くことそのものじゃのうて、そうすることで何を成し遂げたいか。つまり目的意思こそが大事になってくるんちや。ゆめゆめ忘れるでないぞ』
「やれやれ、師匠の言い方はいつも遠回しすぎるんじゃ」
あしは軽く舌打ちし、かがんでトウフウを下ろした。
「……ちょ、どうしたのよ?」
「すまんのう、あしはちょっとばかしスサノオとやらの乱暴を止めてくる」
「な、何言ってんのよ? あんな雷出して大太刀振り回してんのよ!? あんたみたいな優男が勝てるわけないじゃないッ!」
「おまんの言うてることは正しいんじゃろうな。それでもあしは行かんといけんのじゃ」
「ど、どうして……?」
あしは肩から下げちょった風呂敷を解き、中に入っていた矢立から筆を取り出し、もう片手に和装本を持つ。
「決まっちょる」
手早く準備をすませ、立ち上がって狼藉を働くスサノオを見据えた。
「文字に――いや。あしにできることが、そこにあるからじゃ」
トウフウが何かを言いかけちょったが、それを聞く前にあしは駆けだしていた。
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