第8話 手記②

 引っ越した先の町で、私の人生は大きく変わることになる。引っ越さずにいれば、私は天文学者にはなれていなかっただろう。今の私があるのは、あの町と出会った人たちのおかげだ。

 町には自然が沢山あり、都会からやってきた私は、風で揺れる木々の音が聞こえるこの静けさに、妙な感動を覚えていた。雨が降りそうになると、山の匂いがすることに驚いていた。空気も澄んで町の明かりも少ないため、夜になると星もよく見えた。部屋の窓から長い時間見上げ、首を痛めたこともあった。


親戚のおじさん家族も、いい人たちばかりだった。一人娘が大学に進学したため一人暮らしをしており、私のことを新しい子供ができたかのように、可愛がってくれた。新しい学校では友達もすんなりできた。初めは見た目のこともあり、不思議そうな目を向けていたのだが、鬼ごっこに誘われ校舎を走り回り一緒に教師に怒られてからは、なんの気兼ねもなくなった。怒られてすぐ、私たちは廊下を走り笑いながら教室に戻った。

旅館の手伝いをしていると、おじさんがよくお小遣いをくれた。お菓子でも買っておいで、と言ったおじさんの表情は優しく、愛に満ちていた。私は、はやる気持ちを抑えきれず駆け足で駄菓子屋へ向かった。友達がいると、買った駄菓子を交換し、そのあと町を歩き回り遊んだ。家に帰ってきて宿題を済ませた頃、仕事を終えた母が部屋に戻ってくる。私たち親子に与えてくれた部屋は、以前まで物置として使われていた六畳の和室だった。引っ越してきた当初は湿気で傷んだ畳のにおいと、ゴキブリが出現することがたまらなく嫌だったが、住めば都だった。それに、以前住んでいた家よりかは幾分もましだった。


 仕事で疲れてため息をもらしている母に、私は駄菓子屋で買ってきたゼリーをあげた。母はゼリーを受けとると、にこっと笑った。

「ありがとうね、寛文。ありがとうね」

 でも母は決まって食べることはなく、私に返すのだ。

「でもそれは寛文のだから。寛文がおたべ」

 笑顔で言う母に、私はなにも言えなかった。なぜだろう? 今でも、言葉が見つからなかった理由はわからない。ただなんだか悲しかったことは覚えていた。私の心の中にも、母の笑顔にも悲しみが潜んでいたのだ。


 ある日の夜、私は近所の家に回覧板を渡してくるように頼まれた。私は回覧板を受け取り、家を出た。その帰り道、私は人生の恩師、藁士道と出会う。今の私を作ってくれた、父親のような人だ。色褪せた写真で見た父親よりも、私にとっては彼こそが父だった。

 士道さんは田んぼ道の真ん中に立ち、夜空を見上げていた。近くの森からはホーホーと鳥の鳴き声が聞こえ、草花が風で揺れると月の光が反射しきらきらと光った。ここにあるのは自然と、その中に立てられた電波塔と、その遥か上空にある星々だけだった。


「やっぱええなあ、綺麗やなあ、星はなあ……」

 士道さんはぼそりと呟いていた。

 私も夜空を見上げた。そのときは天文学者の藁士道とは知らず、このおじさんの言う通りだなと思っていた。ぼうっと星を眺めている気持ちも、大変わかるのだ。

 星を見ている私に気がつき、士道さんはこちらに向いた。

「君も星が好きないんかい?」

 星が好きなのか、嫌いなのか? そんなこと考えたことがなかった。星は星である。好きとは断言できなかったが、嫌いではなかった。

「たぶん」

 と私は答えた。

「ならすぐ好きになるわ。立ち止まって見るやつが、嫌いなわけあれへん」


 藁は言って、クラスメイトと同じような無邪気な笑顔を見せた。知らない人に声をかけられても無視しなさいと母から言われていたが、それは悪い人の場合でこのおじさんは違うと思った。屈託ない大人だなと思っていた。


「おじさんは星が好きなの」

「ああ、好きや。めちゃくちゃ好きや」

「一番?」

「一番は家族やけど、二番目は確実に星やな。太陽があらな地球は明るくならへんように、家族がいやなぼくはあかんからなあ。──ああ、このことぼくの家族に言ったらあかんで?」

 士道さんは唇に人差し指を当てた。この約束を今まで守ってきたが、こうして本に書いてしまい、ご家族に知られることになるだろう。だが長い年月が経った現在(いま)、士道さんも許してくれるだろう。こんな素敵な言葉を、ずっと知らないままというのも惜しい。


 士道さんは私のそばでしゃがみ込むと、目を見つめた。なぜだか動くことができず、私も士道さんの瞳を覗き込んだ。

「君の目は本物や、なにがあっても好きなことを貫きや。ぼくにはわかる、君は大きな人間になる。ほなね」

 士道さんは立ち上がると、その場を離れた。

 そんなことを言われた理由がわからなかった。今でもわからない。士道さんはなにを感じ、私に言葉をかけたのだろう。私は去り行く士道さんの背中を見つめていた。変わったおじさんだなと思った。肌の色のことも訝しむ仕草を見せず、そういった意味でも変であり、同時に感動も覚えていた。


 部屋に戻ると、母に話した。

「ああ、きっと藁さんね」

「藁さん?」

「藁士道さん、偉い天文学者さんらしいわ。昔は都会に住んでいたらしいんだけど、結婚して星がよく見える田舎に越してきたんだって。いい人らしいわ」

「へえ」

「でもいい人だったから良かったけど、もし悪い人だったらどうしたの。危ないでしょう」

 と母は語気を強め言った。けれど私は上の空だった。


──天文学者なんだ……だから嬉しそうに星を見ていたんだ。また話したいな。

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