第7話 手記①

 私は日本人だ。もう長くアメリカに住んでいるが、その気持ちを忘れたことはない。名も武藤寛文と、日本人の名前だ。母がつけてくれた大切な名前だ。ただ私の肌は黒く、顔つきも父の遺伝が強いらしく、見た目では日本人には見えない。そのせいで小さな頃はいじめられたりもした。色々、辛い思いをしてきた。


 父は私が生まれる前からいなかった。母はあまり父のことを話したがらず、私も無理には聞かなかった。知っているのはアフリカ系アメリカ人ということと、色褪せた写真に映る微かな顔だけだ。母と父の出会いがどんな物語があったかはわからない。父はただの旅行者だったのか、仕事の関係で日本にやってきただけなのか、テレビで放送しているラブストーリーに負けないくらいのメロドラマがあったのかもしれない。あまり知りたいとは思わないし、これから私が知ることはないだろう。父のことは嫌いでもなければ、好きでもない。私に父はいなかった、それが普通だった。特別な感情はない。

 ただ母は思い出したようにたまにこう言う。


「いい人だったのよ、とても」


 そればかりは首を縦には振れなかった。母はお人好しがすぎる。

 肌の色のこともあり、父がいないということもあり、幼少の頃は苦労もあった。小学校に上がり友達もできたが、家が貧乏でおもちゃはもちろんなく、駄菓子屋でお菓子を買うお金もままならなかった。時おり母がお小遣いをくれ、友達と駄菓子屋にいくのが楽しみだった。目を瞑れば、あの時食べた駄菓子の味を、今でも思い出す。喜びと少しの悲しみが混じった、思い出の味だ。


 私は小学校に上がった早々、クラスのガキ大将の喜一郎(きいちろう)に目をつけることになる。クラスメイトと比べ体が大きく肌も黒いため、彼はそのことでからかってきた。殴られもした。彼が近づいてきて力を入れろと言うと、その合図だ。顔はなかったが、言われた通り力を入れると、腹や腕を思いっきり殴られた。


「頑丈だなお前、びくりともしねえな。外人だからかぁ?」

 喜一郎はそう言って唾を飛ばし笑う。

 家に帰ると、私はよく泣いた。母は仕事で夜にしか帰ってこないため、存分に涙を流すことができた。それだけが、母の帰りが遅くて良かったと思える点だった。仕事で忙しい母に心配をかけたくない。家にいる時くらい、ゆっくりとくつろぎ穏やかでいてもらいたかった。


 ──肌が黒いため、いじめられるのだろうか。日本人には見えないため、罵られるのだろうか。

私はいじめられる度、そう思った。そしてこうも思った。

 父の国であるアメリカならば、いじめられなくて済むのだろうか? アメリカには同じ肌の黒い人が沢山いる。それが普通だ。アメリカならば……。

 実情はまったくそんなことはないのだが、知識のない私はそう信じて疑わなかった。漠然とアメリカという国に、憧れるようになった。現状が大きく変わり、幸せになるのではないかと。ビートルズやローリング・ストーンズが日本でも流行っていた時代である(ビートルズはイギリスではあるが、幼い私はそんなことを知らず、アメリカの音楽だと思っていた)。映画や車にファッション、アメリカ文化は日本でも大きな存在となり、余計に憧れを煽られ刺激された。


 ある日、母に呼び出され大事な話があると言われた。母は真剣な表情を浮かべており、ただ事ではないと思った。私は背筋を正し正座をした。


「寛文、ここを引っ越そうと思うの」

「引っ越すの? どこに? この近く?」

 母はゆっくりと首を振った。

「ううん、関西の方よ」

 私は大変驚いたのだが、そんな反応を見せると母を困らせてしまうと思い、口には出さなかった。

「親戚のおじちゃんが小さな旅館をやっていてね、住み込みで働かないかって言ってくれたの。寛文は会ったことないだろうけど、いい人たちよ」


 今の仕事と比べてお給金も良かったのだろう。住み込みであるし、家賃なども安くつく。美味しい話だ。母はすぐにでも返事をしたかったことだろう。ただ私に気を使い、こうして様子を探りながら言ったのだ。

 友達もいたし、喜一郎は相変わらずからかってくるが学校は好きだった。それに喜一郎の見方も少し変化していた時期だった。やはりいじめてくるのだが、他のクラスの連中や高学年が私をからかいにくると、彼は全力で守ってくれた。私は怖くてなにもできなかったが、殴られてもめげることなく立ち向かっていった。私にはない勇気があった。私のことを、彼は子分のように思っていたのかもしれない。

 引っ越したくない、というのが私の本音だった。街も好きだったし、なにより不安が大きかった。

 しかし母にそんなにことを言えるはずがない。真剣な表情の母を前にして、駄々などこねられない。


「いいよ、母さん。今から楽しみだね」

 母は安堵した表情し、私を抱きありがとうと言った。私も抱き返した。この選択は、やはり間違いではなかったと思った。不安も吹き飛んでしまった。


 引っ越すのをクラスメイトに告げたとき、誰よりもショックを受け泣いたのが喜一郎だった。鼻水もだらだらと流し、涙を拭うが止めどなく溢れてくるようだった。

「お前、なに勝手に決めてんだよ……ふざけんなよ、こらぁ……」

 口は悪かったが、声は掠れていた。いつものような気迫はなかった。

 からかってきたのも彼なりの愛情表現だったのだろう。私のことを友達だと思っていたことを、このとき初めて知った。私としては複雑な心境だった。守ってくれたのは感謝しているが、いじめられていた事実は消えないし、私は何度も泣かされた。胸の痛みは消えやしない。けれど、その場の雰囲気が感傷的にさせたのか、気がつくと私も一粒の涙を落としていた。

友達だとはさすがに思えないが、私の忘れられない人にはなった。街で会えば、きっと私は笑顔で話すことができるだろう。いい思い出も、悪い思い出もくれた。

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