二十年前の夏のことです

糸川まる

二十年前の夏のことです



 父方の本家にあたる、大伯父の家でお葬式があった。

 まだ海峡に橋が通っておらず、のろのろと古いトンネルを車で滑って四時間。着いた・起きなさいと言われて目をあける。二つ下の弟は車酔いですっかり機嫌を悪くしている。ぐずる弟がお母さんに抱え上げられるのを見て、うらやましいと思った。


 本家は見たこともないほど大きなお屋敷だった。手入れされた日本庭園があった。


「しばらく、ここでおとなしくしててね」

 

 屋敷の人に先導されて広間に通され、荷物を下ろしてお母さんはそう言うと、お父さんと一緒に大人たちの部屋に行ってしまった。お屋敷にはほかに同じくらいの年の、たぶん遠い親戚すじにあたる子どもたちがいるようだったけれど、私はどうしても声をかける気にはなれなかった。仲の良いいとこたちは、あいにく明日にならないと来ない。


 ――ジャアン、と突然、太い太い弦をはじいたような音がして、弟と私の肩がそろって震えた。寝室にとあてがわれた広間に、絵本でしか見たことのないような柱時計がある。十六時のあいずに、それは大きな音をたてた。


「怖い」


 弟が呟いた。磨かれた板の間に、薄く障子越しのお日様が反射して、そのあわいあかりは柱時計を妙に際立たせた。柱時計は四角くて、赤茶色で、つやつやとした木でできていて、文字盤の下、ガラスの窓の向こうに手のひらよりも大きな振り子があって、振り子をぶら提げている真ん中の金属板になにかが漢字で書いてある。


「なあ! かくれんぼしようや!」


 ふいに、ふすまがさーっと開いて、ちょうど私と弟の間くらいの年の女の子がふたり、明るい声で私たちに呼び掛けた。さっき見た子たちだ。「おばちゃんが一緒に遊んでもいいって」「あっちでやろ」人見知りの私と違って社交的な弟はすぐにさっきの「こわい」をひっこめて、彼女たちのほうへ走っていく。私もしぶしぶそれに続いた。


 さよちゃんとみきちゃん、と彼女たちは名乗った。


「僕がけいたろう。お姉ちゃんが、まいこ」


「けいちゃんとまいちゃん」


 弟、うらやましかと! と笑う前歯が一本抜けているほうが、さよちゃん。ちょっと太っててみつあみのほうがみきちゃん。ふたりはいとこ同士なのだと言った。


「ルールね。お外はダメ。靴ぬいであがるとこだけ。階段の上もダメ。あと、がらがら戸の向こうもダメ。そっから先は広かやけん、無しね」


 ドアの向こうはいいよ、とみきちゃんは言った。がらがら戸、と言いながら、みきちゃんは正面の引き戸を指さした。屋根つきの渡り廊下を四人、裸足で歩いている。がらがらと音の鳴る引き戸を開けた先、離れの一階だけがかくれんぼのエリアなのだという。弟はみょうに真剣に頷いた。最初の鬼はさよちゃんに決まった。


「よんじゅう数えるね」


 さよちゃんはそう言ってがらがら戸の向こうに出ていく。なるほど、それなら戸があく音で鬼が入ってきたことがわかる。弟は一目散に隣の部屋に駆けていって、出遅れた私はきょろきょろと入れそうな隙間を探した。入口すぐの流し台の下、桶をすこし退ければ入れるかもしれない。音をたてないよう、そうっと桶に手を伸ばす。長いこと使われていない場所なのだろうか、屋内なのにかすかに砂利がつもって、金属の桶をひきずるとざりざりと音がたった。私はそのわきに体をねじ込んで、ふたたび桶を前に持って来て体を隠す。しばらくして、がらがら、と戸が開いた。


「どーこーだー」


 くびを無理やり曲げて見れば、板の間を裸足で走るさよちゃんの足が見える。「みっちゃん、どこー」と、さよちゃんが歌うように言う。


「みっちゃん、どおこ」


 こんなとこ、すぐに見つかっちゃうかも。

 私はぎゅうと目を閉じた。しかし、予想に反してさよちゃんの足音は、ガチャリとドアの向こうに消えていった。隣の部屋に向かったらしい。ほっと胸をひと撫でする。気配が消えて、急にしんとする。


 ――今、この部屋は私ひとりだ。


 さよちゃんが入ってくるまでもひとりだったのに、急にそんなことを思って心細くなる。はやく見つけてほしい。私はまた目を閉じた。外から、ひぐらしの泣き声がもの悲しくて、ちょっとだけ怖い。


「まいちゃんみーっけ!」


 そして突然桶と流しの足の隙間に、上から、上下さかさまのさよちゃんの顔が現れた。「ワーッ」と、私は思わず悲鳴を上げた。先に見つかったらしい弟がけたけたと笑っている。「驚かさんといてや!」心臓がばくばく跳ねるせいで、声が震える。ごめん、ごめん、とさよちゃんは笑った。さよちゃんは最初っから私を見つけていて、逆に驚かしてやろうと、死角からシンクに登って覗き込んだのだと言った。


「みきちゃんだけ、まだ見つかっとらんのん?」

「みきちゃん、かくれんぼうまいけんなあ」 


 結局、さよちゃんが大きな声でギブアップを宣言して、仕切り直しとなった。みきちゃんが広間に戻ってくる。ジャンケンの結果、二回戦は私が鬼に決まる。さよちゃんに倣って、私はがらがら戸の外に出た。


 時間は夕方にさしかかっていて、渡り廊下の外はほんのすこし薄暗い。夕暮れとまではいかない。夏のぬるい空気に、炊事場からの夕飯の香りが混じっている。またひとりになって、心細くなる。こんな遠いところに、なんで泊まりで来なきゃいけないんだろう。

 今思い返せば、きょう学校を休まないといけなかったことからして、嫌だった。私にだって学校にも、塾にも、お習い事にも友達はいるのに、なんでこんな知らない人しかいない、しかもその知らない人同士は仲良しなところに、無理して混ざらなきゃならないんだろう。けいちゃんは平気そうだけど。くよくよ考えていたら、たぶん四十数えきった。がらがら戸を開けて、再び広間に入る。窓から入るあかりに、私たちの足あとがあちらこちらに浮かんでいる。足のうらを見てみれば、埃で真っ黒になっていた。


 まずは、自分が隠れた流し台の下。とうぜん、そこには誰もいない。――さよちゃん、わざとびっくりさせて、ひどかったな。


 足の裏のあとが続いている隣の部屋のドアを開ける。板張りの広間とは打って変わって、赤い毛氈に埃がぶわ、ときらきら舞い上がった。毛氈は日に焼けて、こげくさいようなにおいがする。むし暑い。狭い通路の右手にまたドアがあった。「さよちゃん?」私はそのドアを開ける。「みきちゃん、けいちゃん」ドアの向こうは、カーテンがひいてあって暗い。うす暗いほうに、心細くて声をかけた。当然、誰も返事はしない。たくさんのたんすが図書館のように並べてある。衣裳部屋なのかもしれない。私はたんすのあいだの一つ一つを確認しては進み、確認しては進んだ。誰もいない。もしかして、と思ってたんすの上も見てみる。これまた誰もいない。背の高いたんすの上に登るのはけいちゃんが特に得意で、両手両足を大の字につっかえて、跳ねながら登るのだ。いとこたちとよくこうやって遊んだもの。仲良しのいとこたちの顔を思い浮かべて、ちょっとだけ心強くなる。


「たんすのなかかなー?」


 私は、もしかしたら居るかもしれない誰かに向かって挑発するように言って、一つめのたんすの戸を開けた。いない。二つめのたんすはすべてひきだしだったから、たぶんここにもいない。三つめ、いない。最後のたんすを開けて、私はワッ、とまた情けなく叫んだ。中にたくさんの影が見えたからだ。落ち着いてみれば、ただ古い洋服がぎっしりと掛けられているだけだったが。


 ほかのたんすは空だったのに、変なの。


 私はそのたんすをあやしいとみて、洋服の隙間を覗き込む。苦いようなにおいがして、それは両親のたんすから香るものとよく似ていた。大人の服はへんなにおいがするのだ。暗くてよく見えないから、腕を伸ばして差し入れる。がさがさとした、大人の重たい服だ。お父さんのコートに似てる。両腕を差し入れて中をまさぐる。すると、むこうで誰かが私の手をそっと触った。誰かは私の手のひらをくに、と掴む。見つかって、もう逃げられないと踏んだのだろう。


「見ーつけた!」


 私はにんまりと笑って、服と服をがばりとかきわけて覗き込んだ。























 


***




 パニックになって大泣きする私を、隣の部屋に隠れていたらしいみきちゃんが飛び出してきて宥めて、さよちゃんは私につられて泣いた。弟はひとり離れを飛び出して、――いつのまに屋敷のなかを把握したのか、的確に大人の部屋を見つけてお母さんを連れてきた。「誰かおったもん、ぜったいおったもん」と繰り返す私に、さよちゃんが「おるわけなか。さよもみきちゃんも、あっちの部屋に隠れとったもん」と怒って言う。


「そうよね、みきちゃん」


 みきちゃんは困った顔でうなずいた。私はぞっとして、そう言うさよちゃんの顔を、まじまじと見た。


「なんなん」


 怒ったままのさよちゃんは、目を吊り上げてこっちを見る。





 さよちゃんと私は翌日のお葬式では口もきかず、私と弟は仲良しのいとこたちとずっと一緒にいた。もともと遠い遠い親戚だったさよちゃんみきちゃんとは、そのお葬式以降一度も会っていない。私と弟のあいだでは、このお屋敷でのことはまるでなかったことみたいに、一度も話題に上っていない。

 私は大人になった今でも、中がよく見えないところに手をつっこむことはできない。赤い毛氈を見ると、反射的にあのたんすのにおいがじんわりと漂ってくる。


 さよちゃんも、弟も、私も、みきちゃんのことはみきちゃんって呼んでた。それならば私が流し台の下に隠れていたとき、みきちゃんのことを、「みっちゃん」と呼んで探していたのは、誰だったんだろう。たんすの向こうで確かに、くに、と触れた誰かの手は、小さくてやわらかくて、あたたかかったと思う。




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