1103教室最後尾左端

 彼女の肌にはいつもあざがあった。


 あざは服の上からは見えない位置、例えば乳房やへその上、背中などにあった。一か所が治るころには別の場所にあざができていて、僕が見る限り、彼女の身体にあざがなかった日はなかった。


 彼女の肌は真っ白で、若い女らしいきめ細かさがあった。本人は十八歳だと言い張っていたが、本当のところは分からない。おそらくはもっと若いのだろうが、それを知ってしまうと僕にとっても都合が悪かった。


 鮮やかでグロテスクな赤紫のあざは、彼女の白い肌の上ではよく目立った。まるで雪原に汚い機械油を垂らしたみたいな、取り返しのつかない異物感があった。金銭的に余裕があるときはよく彼女と行為を行ったが、やはりいつでもあざはあった。


 マッチングアプリとは名ばかりの、売春斡旋アプリを通じてであった彼女の顔にはいつも生気がなく、端正な顔立ちでありながら愛嬌は全くなかった。僕と会うときは、必要最低限の言葉を発し、淡々と服を脱いだ。行為が終わると金を受け取り、そそくさと部屋を出ていった。


 僕が彼女と何度も行為に及ぶのは、彼女が美人だということと、彼女が安全であることが確認できたからだ。この手の怪しげなアプリではメッセージを送るのに金がかかる。そのためサクラが大量にいて、甘いだけで中身のない会話を吹っ掛けることでさらに課金させようとするのだ。そんな中でまともな人間を見つけるのは至難のわざで、上手く会う約束までこぎつけたとしても、本当にその女が現れるかは怪しいものだ。危険な犯罪に巻き込まれる可能性も十分ある。


 そんな中で彼女のような女は異例中の異例だった。数回のメッセージ交換で連絡先を手に入れることができ、驚くほどスムーズに会うことができた。何度か会って行為を重ねてきたが、どうやら彼女のバックに反社会的な団体の影があるわけでもない。本当に金を払えばやれる、都合のいい女だった。


 罪の意識はないのか、と問われれば、多少はあるというのが正直なところだ。だが、もうそれも禁忌を犯すという背徳感となり、行為のスパイス程度にしか思わなかった。彼女は金を求め、僕は若い身体を求める。相手が欲しがるものと自分の欲しいものを交換する。何百年と続く基本的な需要と供給の関係、商売の基本だ。倫理的な問題は有るのかもしれないが、僕には大した問題でないように思えた。


 ただ、彼女の裸体を見るたびに、彼女のあざが気になった。肉づきも程よく、しなやかでメリハリのある身体。見る者の視線を奪う白い肌。ほとんど完璧な彼女の身体の唯一の違和感。タトゥーのような芸術性があるわけでもない。その毒々しい色合いには、ただただ痛々しさと、妖しげな魅力があった。


 なぜか、僕はそのあざに惹かれた。あざを忘れることができなかった。




「ねえ、そのあざ。どうしたの?」


 何度目かの彼女との行為を終えて、シャワーを浴びた後、下着をつけようとしている彼女に、僕はそう聞いてしまった。その時、あざは彼女の鳩尾みぞおちあたりにあった。


 聞いた途端、彼女は生気のない顔をこちらに向けた。そして小さく細い声で言った。


「本当に、知りたいんですか?」

「うん。いつもあるから。あざ。それ、どうしてついたの?」


 僕が何の気なしにそう言うと、彼女はふっと息を吐いた。彼女は下着をつけるのをやめ、僕に向かって言った。


「……私、昔は自分の裸を見せるような相手には、セックスするような相手には、なんでも話せると思ってたんです。自分の一番深い所を見せる相手なんだから、包み隠すことなく全部を見せられると思ってたんです。自分の過去も、性質も、今の状況も。でも、最初にセックスした相手にこのあざのことを話した時に、そうじゃないんだって分かりました」


 彼女がこんなに長く話しているのを見るのは初めてだった。彼女の声は小さかったがなぜかはっきりと聞き取ることができた。


「最初の相手の男は私の話を聞くと、すぐに私から離れていきました。『さすがに重い』って言われて。愕然としましたよ。自分のすべてを見せた相手に見捨てられたんですから。私と向き合う覚悟がないなら、セックスなんてしてほしくなかった。あざのこと聞きたいなんて言わないで欲しかった」


 暗く、静かな部屋に彼女の声だけが響く。僕は黙って聞くことしかできなかった。


「……こういうことを始めなきゃいけなくなってからも、私の身体を見る人は皆、あざについて聞いてくるんです。仮にも身体を許した相手が、世間話みたいな感覚で、今日の天気を話す感覚で聞いてくるんです。その先に何が待っているか考えもせずに。DVかもしれないし、自傷癖があるのかもしれないし、他の男に付けられたのかもしれない。気づかないうちに自分が傷つけてしまったのかもしれない。そういうことを考えもせずに私のあざに触れる。そんな人ばっかりでした」


 聞きながら、彼女の鳩尾あたりのあざが目に留まる。

 じっと見ていると彼女のあざは、みるみる大きくなっていくように見えた。


「段々私も諦めていきました。性行為に特別な意味合いなんてなくて、若さとお金の単純な交換なんだって思うようになりました。でも、それでも、相談に乗るつもりも、解決するつもりも、その場で寄り添う覚悟も無いのに、人の傷に踏み込む連中が、私は許せない。だから、何の気なしにあざについて聞いてくる人とは縁を切るようにしていたんです」


 あざはどんどん大きくなり、彼女の身体の白い肌のほとんどを覆ってしまった。


「あなたは、ずっと私のあざについて触れなかった。それは、触れずにいることがお互いにとって都合がいいって知っているからだと思っていました。それも一つの優しさだと、私は思っていました。踏み込めないと分かっているから、何もしない。そういう優しさだと思ってました。でも、違ったんですね」


 あざはとうとう彼女の身体を越えて、僕にまで広がってきた。まず指先が赤紫になり、それがどんどん僕の身体を侵蝕していった。あざになった部分に触れてみると、ズキンと鈍い痛みが走った。


「もし、あなたがこのままの関係を続けたいなら。単にセックスをしたいだけなら、あざについて聞かない方がいいです。これ以上踏み込めば、きっとあなたは後悔思します。それでも聞きたいですか? 私の苦しさに向き合ってくれますか? 私の人生に寄り添ってくれますか?」


 身体中に広がっていくあざに焦り、すがるように彼女を見ると、かつての白い肌は見る影もなく、先ほどよりも濃い、毒々しい紫色の顔をしていた。紫色に変わっていく僕を見て、彼女は悲し気に、しかしどこか嬉しそうに笑った。


 彼女の瞳にうつる僕の顔も、既に紫色のあざに包まれていた。


 想像がそこまで至った時、僕は反射的に彼女から目をそらした。勢いよく首をひねったので体勢を崩し、その場に尻もちをついてしまった。急いで自分の身体を確認したが、もちろんあざなどどこにもなく、見慣れた自分のうすだいだい色の皮膚があるだけだった。


 そんな僕の姿を見て、彼女はため息をついた。下着をつけ、服を着た。彼女のあざは見えなくなり、彼女は何の変哲もないただの若い女に戻った。


「……このあざは、ただぶつけただけですよ。私、不注意だからいつもどこかにぶつけちゃうんです。気にしないでください」


 そして彼女は、はっきりそれとわかる作り笑いでそう言った。

 言葉の真偽は言うまでもなかった。



「……そっか。気をつけてね……」



 僕はそう言った。そう言うしかなかった。



 それきり、僕は彼女と会ってない。

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