6月30日
蓄音機のメンテナンスが、私の仕事だ。身長の三倍ほどある巨大な蓄音機は、誰一人として人間の訪れたことのない深い森の奥に鎮座していて、あなたの訪れだけをただ待ちつづけている。
私は、朝も夜も関係なく部品を交換し続けているらしい。台座はとっくに苔がむし、赤い錆に覆われた円錐状の口から本当に音が鳴るのかも定かではない。しかし、私は熱心に森に分け入ってはパーツを拾い、新しいものに取り換え続けている。この森には
時間帯はちょうど日付を跨いだくらいだった。昨日の十二時の訪れによる断絶が脳裡に刻まれていたために、無意識のうちにその続きを願ったのかもしれない。
ともかく、星の明かりで辺りは眩しく、特に問題なく錆びついた金属の棒を引き抜いて、真新しい真鍮の棒に入れ替える作業ができている。これがどういった作用を引き起こすパーツであるのかは、あまり考えていなかったと思う。
ここで、今までの三日間とは異なる展開が起こった。夢もまだ序盤だというのに、あなたが私の元にやってきたのだ。蓄音機のハンドルを交換している私の手元に、ふっと影が差したことでその来訪に気付いた。
昨日の失敗を踏まえてリアリティ・チェックのやり方を変えていたのは、結果的に功を奏することはなかった。「きへん」や「くさかんむり」を見た時に私自身に翅を生やすことができなかったのは、もしかするとそれが他ならぬ自己が相手だったからではないかと考えた。自分自身を騙すことは、他人を騙すことよりも難しいから。
そう考えて、翅を生やす対象を「あなた」に変えることにした。それが効果的であったのかは、後述する理由により現状分かっていない。
所詮は夢であるので、規則性なんてあってないようなものなのかもしれないけど。
直感的に、私はこの「あなた」がただの舞台装置、魂を持たない人形であることを知っていた。独演をしているときのあなたとは質の違う、物語を回すためだけに現れた「ガワ」だと言い換えてもいい。造形も、声色も、普段のあなたと同じものだけど、その言葉にはあなたが欠落している。
「探し物をしているんだけど、見かけたりしなかった?」
そんなあなたの声を、私は無感動に受け入れる。夢の設定では、悠久の時を経てやっと待ち人と巡り会えた蓄音機とそのエンジニアなんだけど、現実では毎日顔を合わせている相手だ。新鮮さも貴重さもそこにはなく、ただいるべき存在がそこにいるという居心地の良さだけが私の胸を満たしていた。
あなたが探しているのは三つ。「金の鎖」「赤い星」「石臼」だ。
どうやら今晩はなかなか悪趣味な物語を底本としているらしい。柏槇の象徴的なこの童話は、実に不条理で蠱惑的であるように私は感じていた。もっとも、夢の中の私は例によって元ネタに気付いていないのだけど。
私は蓄音機の台座から飛び降りて、あなたの横に並び立つ。「金の鎖」ならば部品と同様に柏槇の恵みによって手に入れられるのではないかと思ったのだ。
夢の中で自由に動き回れるというのは、夢日記をつけるようになったここ数日で初めてのことだ。初日が文字、二日目が声、三日目が影だったあなたも、その姿をようやく私の前に現してくれた。続けている日記の効果が夢に反映されているのではないかと、この文章を書きながら少なからず高揚している。
星の光を受けて輝くものを、あなたは木の根元に見つける。「金の鎖」だ。拾い上げてそれを首にかけると、あなたはうっすらと微笑んだ。これが小説ならば会話に脈絡がないと指摘を受けるかもしれないが、夢ならではの突飛さであなたは言葉を発する。
「この木、もう不要なんだよね?」
そう言われて初めて気が付いた。これまで太古の昔から世話をし続けてきた蓄音機も、あなたがやってきたことによってとうとう役割を終えたのだ。それと同時に、部品を提供してくれる柏槇の木も存在意義を失った。
私が頷くよりも先に、あなたは幹に手を添えた。風車を回すようなさりげない仕草で払った手が、幹を横倒しにする。私とあなたに見つめられながら、柏槇の木は切り株だけを残してゆっくりと傾き、やがて完全に地に横たわった。元々ばらばらのパーツであったかのように、切り株の表面はつるつると滑らかになっている。まるで、童話に登場する切り株のように。
あなたは切り株の上に親指と人差し指を置き、ゆっくりと広げるように動かした。ピンチアウトすることによって年輪が拡大され、逆説的にどんどんと切り株は若返っていく。
適当なところで拡大をやめたあなたがその両腕に抱えると、切り株はいつの間にか「石臼」に変わっている。これで残すところは「赤い星」だけになったというわけだ。
あなたは空へと目を向けた。視線の先にはさそり座のα星であるアンタレスが光っている。これは今調べて気付いたことなのだけど、アンタレスは和名で赤星と呼ばれることもあるらしい。
すぐにでも空に向かいそうなあなたを見て、私は不安に駆られた。あなたは私のそばにいつでもいるべき存在なのに、どうして離れていこうとするのだろう。そんなに急ぐことはないではないか。それに、私はまだ蓄音機の音をあなたに聞かせられていない。
あなたを捕まえようとして思わず伸ばした手は、その体をすり抜けて向こう側から顔を覗かせた。空気に触れたかのように、まるで感触がない。
私がそれに気づいた瞬間、あなたはぐるりと振り返った。あなたに魂と呼べるシロモノがインストールされたことを、私は肌で感じ取っていた。
現実のあなたは「夢をのぞき見できる」と言っていたけれど、それはどんな形で行われるのだろうか。二日目の日記に私は主に一人称視点で夢を見ると書いたけれど、あなたも同じように目の前にいるあなたというアバターからこの夢を見ているのだろうか。それとも、これら全てを俯瞰するように、夢における万物にあなたは遍在するのだろうか。
私は、このインストールが後者から前者へのシフトだったのではないかと推察している。
以下、独演だ。再現率は昨日と同程度である。これくらいが記憶力の限界なのかもしれない。現実においても、相手の話を一言一句違わずに覚えている人はまずいまい。
「昨日は盗刺胞の話だったね。意地悪な終わり方をしちゃってごめんね。だけど、今日もその続きの話なんだ。
共進化って言葉は知ってるかな。ハチドリとランの関係が有名なんだけど、お互いの進化がお互いの進化を促すような相互的な関係を指す言葉なんだ。ハチドリはランの蜜を求めて、ランはハチドリに花粉を運んでもらうことで生きている。それでお互いに、ランの蜜を吸いやすいように、ハチドリの身体に花粉がつきやすいように変わっていく。このことを共進化って呼ぶんだ。
それから、本来の童話で選ばれている三つのアイテムが「赤い星」じゃなくて「赤い靴」なのは知ってるよね。それを敢えて「赤い星」に改変したのには、やっぱり理由が必要だと思うんだ。
三日前に私は林檎を落としたことで羽を生やしたよね。今日も同じく林檎によって羽が生えたんだけど、それは私の望まないものだった。だから、今日の私は林檎に恨みがあった。感染症の話をしよっか。林檎を含むバラ科ナシ亜科の植物にはGymnosporangium属の担子菌が引き起こす病気があって、その感染症の中間宿主となるのが柏槇なんだ。その病気は林檎と林檎、柏槇と柏槇では感染することがなくて、あくまで交互にしか感染しない。その病害の名前を、赤星病というんだ。
ここまで聞けば、もうわかるよね。私こそが、童話の中で林檎に殺されて鳥になった存在なんだ。お話の中では鳥の種類までは明記されていないみたいだけど、それをハチドリだと勝手に解釈したんだ。地面よりも空を憎んだから、靴じゃなくて星、ってこと。
それじゃ、私はそろそろ行くね。
私に羽を生やした原因に、赤い星を落とさなきゃいけないから」
あなたは、飛び立つ直前に愛おしそうに蓄音機の針に触れた。赤く錆びついた蓄音機の円錐は、あなただけのために進化を続けてきたランにそっくりの造形だった。
あなたをホバリングで空中に留めること、すなわち、羽を植え付けられた復讐の過程に差し込む一瞬の憩い。それだけのために、私は永遠にも近い時間、蓄音機をメンテナンスし続けていた。
あなたがさそり座へと飛び去ってしまった後になって、蓄音機から音が鳴り始めた。
「あなたは、翅が欲しいの? 私に、翅を与えたいの?」
ひび割れたひどい音だったけれど、それは間違いなく、あなたの声だった。
覚えているのはここまでだ。
先ほど触れた「後述する理由」というのは、あなたにすでに羽が生えていたということだった。羽の生えているもの対して願う羽というものが、どれほど意味のある行為だったかは私にはわからない。
このあなたは、羽を憎んでいたようだった。一昨日はカゲロウの翅を否定し、昨日はイカロスの翼を否定し、あなたは今日も羽を拒んだ。
あなたの話の中に出てきた「共進化」という言葉は当然知っている。むしろ、私が強く思っていたからこそ夢に登場した概念だったのかもしれない。まさに共進化こそが、私があなたに望むものだった。
私を花に、あなたを蝶にしたかった。お互いにお互いだけを生きる手段とし、そのために姿も遺伝子もなにもかもを変えていく存在にしたかった。なりたかった。それが私の根底にある無意識なのだと、夢を覗き見できるあなたに伝えたかった。
だからこそ「くさかんむり」や「きへん」をきっかけに翅を生やせないかと願っているのだ。その契機は、やはり植物でなければならない。花でなければならない。
そう考えてあなたに翅を授けようとしたのに、あなたはそれを拒んでいる。
夢を媒介とした私の、花の望みは、未だあなたに届いていないのだ。
明日も、日記は続けることにする。
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