6月29日


 一定の周期でしたたる蝋が、柱時計の針を動かしている。どうやら、蝋が動力源になっているらしい。

 秒針は滑らかに動く。一秒一秒をデジタルに刻むわけではなく、シームレスにその間の無数の瞬間を取り込むようにして、回っている。

 夢の中の時間は可変だ。三時間の睡眠で数週間にわたる超大作の夢を見ることもできるし、反対にたった五分の物語に押し込めることもできる。そんな夢の中に在って時計というものの存在がどこまで信頼できるのかは疑わしかったけれど、私は刻まれる時の普遍性を無邪気に信じていた。


 ぐるりと見回す。視界には凹凸の激しい岩の壁が広がっている。洞窟か何かの閉鎖空間だ。昨日とは違って視界はシャープネスをかけたようにはっきりとしていた。赤、緑、青の三色の炎がそれぞれ私の左後方、真後ろ、右後方で揺らめいていて、私は壁の上でそれらの色が混ざっていくのを眺めている。

 それらの色が炎色反応によるものであることと、古代人がその炎を設えたことを私は知っていた。こんなに昔なのに化学反応を扱えるだなんてすごいと感心した記憶がある。ちなみに「こんなに昔」の指す具体的な年代はイメージになかった。現実の私にとってあまり興味のないことだからだろう。


 正面の壁に、長方形の平らな面がある。ちょうどミニシアターのスクリーンのようなアスペクト比で、事実、三色による多色刷りの映像が投射されている。光による模様と、その光を遮る物体による影。それらの構成要素によって比較的複雑な模様までもが炎と岩のみで再現されていた。

 スクリーン上部には常に時計の影が表示されている。例の蝋を動力源とする柱時計だ。ローマ数字の描かれた文字盤の上で、短針はXIとXIIのちょうど間あたりを指している。それが昼前でなく日付の変わる直前を表していることを私は直感的に知っていた。日付が変われば、私は解放されるのだ。


 さて、ここまで私自身の情報を書いてこなかったのには理由がある。夢日記の根幹を揺るがしかねない由々しき問題が起こったので、そちらに紙面を割く前に周辺情報を語ってしまいたかったのだ。


 私は上記のような空間の中で柱時計に括りつけられていた。長座体前屈の姿勢で、腰の部分で柱に結わえつけられている。壁から順に見て、私、柱時計、緑の炎の順で並んでいると考えればよい。頭が一定以上回らないようになっていて、視界は私の正面180度に限定されている。

 私は私の腕が枷によって自由を奪われていることを知った。その瞬間、私はこれが夢なのではないかと一度疑うことに成功した。「枷」という漢字に「きへん」が含まれていることに気付いたのだ。ここ二日の夢日記が功を奏したと言っていいのだと思う。

 しかし、背中から翅を生やすことには失敗した。「できないってことはこれは現実なんだ」と思い込んだ私は、あっさりと意識のコントロール権を手放した。以降は夢の世界における私のアバターは昨日までと同様に、私の意志とは関係なく動き回ることになる。


 私の夢を覗き見できるというあなたでも、裏を返せば私の意識までは覗き見できないという一種の可能性に端を発したのがこの夢日記であることを再確認しておきたい。夢の世界を私の無意識だと思っているあなたに、明晰夢をもって臨むことこそが望みをかなえる唯一の手段だと考えたのだ。しかし、どうやらそう上手くはいかならいらしい。

「背中に翅を生やせたら夢」というリアリティ・チェックについては今晩までに考え直した方がいいだろう。


 反省はこれくらいにして今日の日記を書ききってしまおう。昨日までの夢には元ネタとなる物語が存在するが、今日もやはりそうだった。

 影絵の形で示される時計の文字盤の隅に、職人が掘ったと思しきサインが入っていた。本来の視力ではそのような小さい文字は見られなかったと思うが、そこは夢だ。はっきりと『Daedalus』という文字列が見えた。古代ギリシアの文字でなかったのは単なる私の無知というものだろう。今晩の夢には少しばかり『洞窟の比喩』も入っているような気もするけれど。

 夢の中でオマージュ元に気付けないのは、相変わらずだった。


 時計に括りつけられた私は、解放となる深夜十二時をスクリーンを眺めながら待った。岩肌には海を思わせるような一面の青が映し出されていて、そこに小さな無数の赤い点と、一つのこぶし大の緑の円がうごめいている。それらの図形の集合は「匹」で数えるべきものであることを私は知っている。

 緑が動き回るたびに、その内側に赤が取り込まれていく。緑と赤を混ぜると黄色になる。その黄色の塊がだんだんと大きくなっていくのを眺めているうちに、不意にスクリーンの中央下あたりから黒い影が生えてくるのに気付いた。


「そういうもの」だと受け入れていた私は、声を聞いても驚くことはなかった。それがあなたによるものであるのも、必然のことのように感じていた。


「本来は生えていないはずのものを、どうして上手く扱えるだなんて思いこめるのかな」


 今思い返すと冷や汗もののセリフだが、冷静に考えるとこの言葉が「背中に翅を生やせたら夢」というプロトコルを指しているわけではないことに気付く。そんなことを考えずとも、夢の中の私は、あなたの訪れに心の底から安堵しているわけだけど。

 このとき長針は五十五分を指していた。残り五分で開放される。そしてそれは同時にあなたの独演の終わりであることも、昨日までの日記を踏まえた現実の私は知っている。

 水平線から顔を出して徐々に太陽が昇ってくるように、黒い影は姿を見せた。私の知っている輪郭そのものが、頭から順にスクリーンに再現されていく。以下、あなたが話している間も、影は身体の上のパーツから順にシルエットが投影されていっている途中だと考えながら読むのが正しい。

 再現率は、昨日よりも上がっているように思う。


「昨日はカゲロウの話をしたんだったかな。じゃあ、今日もその続き。

 今あなたが見ているこのスクリーンは海洋における生物濃縮のモデル映像だね。青が海、赤がシュードモナス属の一部の真正細菌、それから黄色がフグ。毒のあるフグならなんでもいいよ。フグに毒があることは有名だと思うけど、その毒は実は他の生き物を食べることによって獲得してるものなんだ。たった1-2mgで人間を殺せてしまう毒だって、そうやって他の無数の命から奪って作っている。

 似たような例で、アオミノウミウシってウミウシは知ってるかな。こんな姿の(そう言ってあなたはスクリーンに一匹のウミウシを表示した)綺麗なウミウシなんだけど、この種も猛毒のクラゲの刺胞を食べて自らの武器にするの。盗刺胞なんて言われているけど、こっそりと盗むわけじゃなくて、どちらかというと強盗に近いやり口だね。

 アオミノウミウシは英語ではSea Swallow、つまり「ウミツバメ」なんて呼ばれることもあるんだ。この広げた羽のような見た目からつけられた名前なんだろうね。

 ところで、気にならなかった? なんで『Daedalus』の方なんだろう、って。そこにもやっぱりウミウシがかかわってくるんだ。イカロスは太陽に近づいたことで、蝋が融けて羽を失った。そうして、海に堕ちて命を失うことになる。なのに海には他の命から何かを奪いながら羽を広げている生き物がいる。そう、ウミツバメのことだね。

 これって、なんだか悲しいことだよね。本来は生えていないはずのものを、上手く扱えるだなんて思いこんでしまったからこそ起こった悲劇だと思うんだ。人間はそんなふうにできてない。命からなにかを奪って、それを上手く扱えるようには。

 そしてその悲劇はイカロスだけのものじゃない。

 見過ごしてしまった、あなたの悲劇でもある。

 後ろを見てみて」


 その瞬間に、短針が文字盤のXIIを指した。蝋が融け切ったのだ。

 私は、解放された。


 私はあわてて振り返る。そこにいるはずの、あなたを求めて。

 しかし、私の目に映ったのは、白く乾ききった塊だった。刻まれる時によってあなたそのものの輪郭に成長した、ただの蝋の人形。

 触れるとまだ温かい。その事実が、つい先刻まであなたが存在したことを示しているようだった。


 その瞬間、私は悟る。そうか、だから『Daedalus』の方だったのだ。本来は羽をもたず、奪わない生き物であるはずの人間が、それでも手に入れようとしてしまった罪悪。その代償としてイカロスを殺してしまったのが、他でもない私だったのだ。


 放心しながら、私を縛り付けていた柱時計を見上げる。投影を前提としているため左右の反転したXIIは、見ようによってはTTXとも読めた。テトロドトキシン。フグの毒を表す略号。十二時になったことによって、回ってしまったもの。


 三色の光にいたぶられるようにして刻々と色を変える趣味の悪い蝋の塊を見た記憶を最後に、イメージは残っていない。


 明日も、日記は続けることにする。

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