6月28日


 銅か Copper と発音して下さい。


 下命は、私の内から鳴り響いていた。この頭蓋骨という狭い空間の中で何度も反響して、言葉にはエコーがかかって聞こえた。この声は、間違いなくあなたのものだ。

 夢の中ではどうやら音による情報でなくとも"声"として捉えることが可能らしい。直接鼓膜を揺らされているわけではないのに、普段現実で知覚するように音を感じている。これを第六感と捉えるのはいささか早計であるとは思うけれど、おおむね映画なんかでよく見るテレパシーの表現に似ている。むしろ、そちらから着想を得て脳内で再現していたかのもしれない。


 私は右足をぐっと伸ばした。なにか柔らかいものに阻まれて、一定以上足を延ばすことができない。そこで初めて、私はなにか不自然な体勢でうずくまっていることに気付いた。窮屈な姿勢ではあるが、不快感はない。夢日記なんかをつけ始める前に、ひたすら水底へと沈んでいく夢を見たことがあるが、それに似ているように思う。

 この感覚を、はるか昔に私は感じた記憶がある。


 夢であるというのに視覚情報が一切ないのも印象的だ。夢の中に在る時には「この状態こそが自然なのだ」と考えていたような気がするけれど、具体的な思考回路については記憶にない。

 ここで注意しておきたいのは「見えない」ということは直接「暗闇」を意味するわけではない。むしろ、ぼんやりとした色のベールに包まれてなにも見えない状態に似ている。この夢にかけられた紗幕は薄い青の色をしていた。空の青というよりも、浅瀬の青に近い。


 私はいつの間にか、この空間が第二十三号室と呼ばれていることを知っていた。夢の中の私はそれをなにか象徴的な数字のように感じていたけれど、なんてことはない。昨日がグレゴールであったように今日は第二十三号であったというだけのことだ。意識の海岸線を漂う私にはオリジナルの物語を紡いでいるように感じられるのだろうけど、所詮は夢も既知のパーツの積み木遊びに過ぎない。

 そうか、書きながら思い出したけれど、冒頭の箴言も単なる言葉遊びだったのだ。芥川による有名な書き出しを、少しもじっただけ。


 昨日の日記と見比べていて気付いたことがある。私はどうやら主に一人称視点で夢を見る傾向にあるらしい。昨日の背中に生えた林檎のように、私自身の身体をどこか別の視点から見ていることもあるようだけど、基本は全ての感覚を私自身によるものとして知覚している。

 普通はどうなんだろう。あなたはなんとなく、映画みたいにすべてを俯瞰して見ているような気がする。もしくは、夢なんか見ないか。


 脱線してしまった。ここまでを二文でまとめると、薄い青一色の視界が広がる第二十三号室に、私は窮屈な姿勢で収まっている。しかし、壁は柔らかく不思議と不快ではない。といったとことだろうか。これだけのことを書くのにだいぶ遠回りをしたような気がするが、夢日記を書くコツはなるべく正確に感覚を書き起こすことだと聞いたので、この文章のすべてに無駄はないものだと信じる。


 さて、そのように状況を把握した私に、再びエコーのかかった声が降ってきた。声は私に問いかける。

「あなたは、この世界に産まれてきたい? よく考えて返事をして」

 もちろん、あなたの声だ。この言葉を聞いた瞬間、夢ならではの脈絡のなさで、私が比喩でもなんでもなく一匹のカゲロウであることを悟った。

 私が右足で蹴り飛ばしたのは、卵の殻、ないしは隣に並ぶ無数の私、二十四号室、二十五号室、二十六号室、以下可算無限的に数字が割り振られた部屋が並び、そうでなければ、それら無限を包み込む母体たるところのあなただった。

 当然、このセリフも芥川による設定の引用だ。河童の世界では、産まれる前に胎児に出産(この場合、自動詞の「生まれ出ずる」)の意志があるかが問われる。

 以下、そのセリフを書き起こすが、例によって記憶による補正を含む。もっと、正確に再現できるように努力する必要を感じた。


「昨日の話の続きをしようかな。林檎の授けたるところの話の。

 成虫になったカゲロウの寿命の短さは有名だよね。長くて一週間、短くて一日なんてカゲロウもいる。朝顔なんかの一日で萎む花のことを一日花というけど、それに似てるよね。花のような命、なんて言うと少し短命を美化しすぎているような気もするけど。

 声を届けられないのは、カゲロウの成体に摂食の必要がないからなんだ。一週間やそこらで尽きる命には、他の命を奪う必要がなかった。だけど、退化した口ではあなたに届ける音を持てなかった。

 そうだ、カゲロウの血は青いんだよ。昆虫はみんな体液が青いって誤解されてることも多いけど、青は昆虫の中でも、特に古い分類の昆虫だけが持っている特徴なんだ。こっちのほうが、酸素を運ぶ効率は悪いらしいけど。

 人間の血の赤さの正体は知ってるよね。ヘモグロビン。あれは、鉄が酸素と結びついて赤く発色するからなんだけど、カゲロウの青はヘモシアニンっていって、銅と酸素が結びついて生まれる色なんだ。身体を流れている、青い血潮。短命な私と、まだ産まれていないあなたに共通する青。

 それが、あなたの視界の色。

 明日も、お話ししようね」


 私の夢はいつも、あなたの独演をきっかけに具体性を失っていく。今日もこの言葉の後に産まれたイメージはすべて散逸し、もはや修復がかなわない。


 夢の外側にいる私になら、これらのセリフの意図がある程度解読できるような気がする。

 腹に無数の「わたし」を抱え込んだあなたは、短く声を持たない運命を、私に押し付けたくなかったのだろう。一日花かつ狂人の私に、自らと同じ道を辿ってほしくなかった。

 だから今日の夢の中で私は「きへん」と「くさかんむり」に気付けなかったのだろう。そもそも、視界が存在しない世界において文字という概念はあり得ないのだから。

 部首を見て私が念じるのは「背中の翅」。自由に羽ばたくためのそれを、現実と夢の区別の為に念じることにしている。そして、カゲロウが翅を持つことはすなわち、遠くない未来の死を意味している。あなたが与えてくれたのは、それを遠ざけるための慈愛の青だったのかもしれない。カゲロウが昆虫の中でも最も早く翅を獲得したと考えられていることも、どこか示唆的な事実のように思う。全ては「どうか産まれないで」というあなたからの愛で。


 古くからの昆虫の持つ、効率の悪い青。それでも私には、あなたと同じ青い血液が流れている。生を拒む、愛の藍が。でも、だからこそ、私はあなたに発音しなければならなかったのだ。


『銅か、Copperと』


 明日も、日記は続けることにする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る