茶封筒

 

 家までの道のりをどのようにして歩いたのかはっきりと覚えていない。石ころを見つけては蹴りながら帰っていた小学生の頃のように,頭の中で何を考えるでもなく,でも確かに何かしらのことを思考しながら家に着いた。心にゆとりがあるときは,空の青さを肺に入れるように大きく息を吸ったり,次にイチョウや桜が咲いて街路樹がきれいに彩られるのはいつだろうと考えたり,近所の家の駐車場を盗み見て部活終わりの中学生が家に帰ってるのだなとか,遅くまで仕事をして大変だなんて思ったりするのだけど,とてもじゃないけど今日はそんな気分にはなれなかった。ただボーっとどこに焦点を合わせるでもなく目の前のアスファルトを踏みしめる。その行動を繰り返していると目的日に到着した。

 玄関で靴を脱ぎ散らかす。そのまま脱衣所へと向かってシャワーを浴びる支度をした。本当は無心で湯船につかりたかったけど,ボタンを押して時間が経つのを待つことですら億劫に感じる。来ていた服を投げるように洗濯機に突っ込み,浴室の押戸を乱暴に開けた。蛇口をひねる。温度をいつもよりうんと高くした。まだお湯も出ていないのに,頭から冷水をかぶる。そうすると頭の奥から冴えてくるような気がしたのだ。でも,その行動は自分の身体の体温を下げる以外の効果をもたらさなかった。徐々に温度が上がる。温度差でいつもより高めに設定したシャワーがさらに熱く感じる。このままやけどをしてひどい見た目にでもなったらいいのに,とふと思った。私は同情を求めているのかもしれない。

 適当にボディーソープで体を流すと,髪を乾かしもせずに部屋にこもった。母さんはとっくに晩御飯の支度を済ませていた。ご飯を食べないのかと何度も言われたが,今日はそんな気分にはなれない。かといって,部屋にいると何度も頭の中で美月の母の言葉がこだまする。

 美月の母の言葉を口に出してみた。正しい道に戻りなさい,と言った。玄関を出ていく間際,「恋なんて一時の感情なんだから,思い詰めたらだめよ」とも。私は一時の感情で美月に思いを寄せているのだろうか。確かに,今まで女の子を好きになったことなんてなかったし,今でも女の子が好きとは言い切れない。ただ美月のことが好きだと言い切れるのは確かだ。しかし,それが今だけの特別な感情なのだと言われたら,それは絶対に違うとも言い切れない。自分のことが分からない。ただ,美月の親には目の敵にされて,応援されていないことだけは確かだ。


お願いだから美月に近づかないでほしい


 敵意に満ち満ちた目で,強い意志を持って発せられた美月のお母さんの言葉が頭から離れない。

 どうしたら良いのか分からない。この悩みを美月が転校してきてからの短期間で何度繰り返しただろう。ベッドにもぐりこみ,布団を頭の上までかぶって朝が来るのを静かに待った。ほっぺたを伝って流れる涙が敷布団に絡みつく不快感をしばらく感じながら浅い眠りについた。


 目が覚めたが,ずっと横になっていたいという脱力感が全身を包み込んでいた。少し悩んでから,学校を休むという選択をした。体は丈夫な方だったし,高校生になってからは一度も休んだことはない。中学生の頃はインフルエンザで休んだことがあったぐらいだし,小学生の頃はどうしても皆勤賞が欲しくて37℃後半の熱があったくせに無理して登校して途中で親が迎えに来る羽目になるほど頑固で,少々のことなら無理してきた。あの時は大目玉を食らったけど。

 そうまでして学校へ行くことにこだわっていたから,親の目からしたらかなりの学校が好きで好きでたまらないように映っていたに違いない。実際,勉強がめんどくさいと思うことはもちろんあるけど,友達がいて,めんどくさいねって言い合える空間が好きだった。病気で休むよりも何倍もましだった。

 ずっとそんなだから学校を休むと伝えた時にはやたらと心配して,仕事を休んでまで病院に連れて行こうとした。何度か繰り返されたやりとりのなかで母なりに何かを察したらしく,素直に仕事に行って私は家で一人養生することになった。

 簡単な朝食をとって母さんを見送り,また自分の部屋へと戻った。何をするでもなく机に座っていると,腰が痛くなってきたのでベッドで横にあった。小説でも読んでみようと思って本棚を見たが,小学生のころ以来小説を買っていないことに今更気が付いた。どうせ難しいのは読めないし丁度いいかと思って適当に一冊を手に取って一ページ目からめくってみた。10ページも読まないうちに眠気が襲ってきた。

 目が覚めた時には夕方になっていた。暦の上では秋になっていたが,まだ残暑が残っていた。何をするでもなくリビングでワイドショーを見ながらだらだら過ごしていると,玄関の郵便受けに荷物が落ちる音がした。家に帰って玄関を開けるとチラシが落ちているのを見るとげんなりする。仕事から帰ってきたお母さんの心労を少しでも和らげようと,ソファから起き上がって玄関へと向かった。引き戸を開いた私は一瞬固まってしまった。玄関に降りてサンダルを履きもせず外に出てあたりを見た。誰も人はいない。でも,必ず誰かが私の家の玄関の前を通ったのだ。鳥肌が立つのを感じながら,家の中に入った。足元には,ここ数日で目にするのは3回目となる茶色の封筒が落ちていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る