私は私で
あれだけ騒がしかったセミはいつの間にか影を潜め,いつしかあの小さな体をめいいっぱい震わせて鳴く騒がしい音が聞こえなくなった。
いつか,誰かが言っていた。セミが一週間で死ぬのは,あんなに小さな体で遠くの雌に自分の存在を知らしめるために人間に例えたらありえないほどの回数で体を震わせているからだって。確かに,もし自分が自分のことを認識していない誰かに、それも今視界の中にいない遠くの人に自分の存在を知らしめるために大きな声を出すとしたら,とてつもないエネルギーを使うだろう。それを太陽が昇っている間ずっとやり続けるのだ。身体がおかしくなっても不思議ではない。セミはあの小さな体で短い夏を全身全霊で生きているのだ。そう思うと,なんだか愛おしく,そして儚い。そのセミ話が,友人による思い込みで科学的根拠の全くない話だと知ったのはずいぶん後になってからのことだったのだけれど。
青々とした木々の葉は変わらずしっかりとついているが,時計の針が六時を回ると少しずつ陽が沈みかけていた。相変わらず日差しは強くエアコンなしではやってはいけないが,着実に季節が移ろっていることを感じさせた。
授業も全く身に入らず,いつもは旺盛な食欲も鳴りを潜めていたのを心配した菜々美は彼女らしく明るくジャブを打ってきた。
「何考えこんじゃってんの。赤点しかとれない頭なんだから精いっぱい考えたところで知れてるって。もっと有意義なことに頭を使いなよ。まるで時間の無駄じゃない」
菜々美のいいところはここだ。何の関係性もない相手なら傷つく一言でも,心を落ち着かせてくれる。相手が辛そうにしているところを見逃さず,何気ない一言で声をかけてくれる。私も菜々美の優しさに甘んじて,あえて心外な顔をして返事を返す。
「なにその言いぶり。悩めるお姫様が困り顔をしているなら相談に乗ってやるのが王道のストーリでしょ」
「あんたがお姫様? 確かに乳だけはアニメのお品様のように大きくて形が良くて,ある意味奇形だけどね」
「お下品で笑っちゃうわ」
奇形は余計だ。確かに私は胸が大きくて男子の視線を釘づけにしているんだけど。いや,男子だけじゃなくて女子も虜にしているのか。それも学校のマドンナで,モデル事務所にスカウトされるような美女を。
なんて自分で自分に語っていると,私のせいで美月が学校にこれなくなったのではと心配していたことから少しだけはなれることが出来た。
菜々美は美月のことについて完全には把握していなかった。直接私が会いに行って話をしたこと。美月が芸能活動を始めるためにレッスンをしていること。そこにいたるいきさつなど全てを話した。菜々美は私の話相槌を打ちながら聞き終えると,考えるようにして黙っていた。
その姿を見ながら,私は美月のことを話せたことに安堵しながら私の中にずっと潜んでいたある違和感を話せずにいた。
美月にちょっかいを出されてから,いや,そのまえからずいぶん長い間私の中には靄のようなものが広がっていた。それはまるで雨上がりの霧のようにつかめなくて,でも確かにそこには存在して,鬱陶しいほどにべっとりとまとわりついてきて私を離さなかった。
私は女の子が好きなのかもしれない。
そんな思いがどこかにくすぶっていたが,確信した。私は女の子が好きだ。そのことに間違いはない。しかも,私は美月に惹かれている。初めて会った時から,彼女の雰囲気に引き込まれ,美しさに目を奪われ,話し方や手つきに欲望を掻き立てられていたのだ。どこかでそんなことを感じていながら,それに気付かないふりをしていた。それはずるいことだった。私が自分の違和感を正確に把握することが出来たのは,美月が秘密を打ち明けてくれた時のことだったのだから。それなのに,私は被害者面して美月を結果的に苦しめた。最低なことをした。
どうしてあの時私も自分の中にある違和感を口に出せなかったのだろう。沈む夕日を見ながら,悩みを一緒に聞いてもらえたらどれくらい楽だっただろう。結局私は,美月の特異さは受け入れられるべきだと主張し,受容し,励ましたふりをしながら,自分が抱えた同質の悩みに正当性を認めることが出来ず,はみ出したものだと心の底から感じていたのだ。なんて卑怯な人間なんだ。恥ずかしい。神妙に話を聞いたふりをしていた。恥ずかしいことではないから下を向く必要がないなんていっちょ前なことを言いながら,正反対な生き方をしている。人それぞれ自分の生き方を主張する権利があるなんて偉そうないことを口先では言えても,結局自分のことになると実際には周りの目を気にして,中央にいたくて,異質だと思われることを恐れていた。
私は美月のところに行かなければならない。そして,自分の一切の秘密を打ち明けなければならない。そして,美月に返事を返さなければならない。やるべきことが,しなければならないことが,あふれ出てくる。美月はこんな私を許してくれるだろうか。思いを打ち明けたら,受け入れてくれるだろうか。
私は自分がどれほど卑怯な生き方をしてきたのかを思い知らされた。明日,いや,これから美月のところへ行こう。美月が私のことを許してくれようが許してくれまいが関係ない。受け入れてくれなくても仕方ない。私はそれほどのことをしたのだから。でも,自分で自分のことを受け入れてやらなければ,これからも前に進めない気がした。
傾きかけた日差しを正面に見据え,私は足を速めた。
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