答案用紙

 体が重い。風邪をひいているような気怠さが全身を鉛のように固め,頭の奥に広がる鈍い痛みに思わず顔をひそめた。体温計が鳴ったので取り出す。36.6℃。平熱とほとんど変わりはないから精神的なものからきているのだろう。

 リビングへ降りると,すでに朝食は出来上がっていた。いつもなら匂いを嗅ぐだけで空腹感をもたらすベーコンエッグも,今日は喉を通る気がしない。みそ汁だけでも飲んでいこうかと迷ったけど,結局やめておくことにした。

 朝ご飯はいらない,とぶっきらぼうに言ったら母さんに「あんたがご飯を食べないなんて珍しい。恋でもしたの?」と冗談交じりに言われたが,こちらは笑えない。軽口に何も言い返さない娘のことを本気で心配しかけたのか,どうしたのとこちらに向かって歩いてきた。何を言うにしても,顔を見てまともに話ができる気がしなかったから母さんを押しのけて身支度に取り掛かった。いつもは朝ご飯を食べてから歯磨きをするのが日課だが,今日は汚れた気もしない歯を惰性で磨く。よく見ると,目の下にクマが出来ている。一晩中眠れなかったわけではないが,夢の中でうなされていたように自分の唸り声で起きたり,喉が渇いて目が覚めた時には汗でパジャマが濡れていたりもした。起きた時の倦怠感は熟睡できていない証拠だ。今までどれだけ調子が悪くても,何かに眠りを阻害されたことなんてなかったのに。休めていないと気分までもが不愉快になる。

 家のことをしながらも母さんがこちらの様子を伺っているのが分かる。鬱陶しい。もう少し家でゆっくりできる時間だが,今日はテストだから早めに行ってくると,だけ伝えて玄関に向かった。

 いつものように姿見で着こなしを確認する。スカートは内側を織り込んで膝丈。ブラウスはスカートの中にきっちり入れすぎると形が汚くなるから,入れた後に親指ほどの長さを引っ張り出して余裕を持たせる。セーラー服の皺は伸ばしてあるし,ワンポイントのネクタイの形を施されたスカーフも大丈夫。歯磨きの後にも丁寧に髪をとかして綺麗に流したけど,改めて鏡で髪の毛の分け目をきれいに整える。目の下にできた隈には気付かないふりをした。

 ローファー,磨かなきゃな。細かい傷とつま先に砂が付いた合皮の靴を靴ベラも使わずに履いて床を踏み鳴らしながら外へ出た。




 教室に入ると,菜々美の姿がまず目に入った。自分の席について,熱心にノートを見直している。

 そばによって,「おはよ」と声をかけると,うなずいてすぐに視線をノートに落とした。あれ,と首を傾げながらどうしようかと思ったがこの違和感を放っておくことはできずに「どうしたの?」と聞くと意外な答えが返ってきた。


「いやー,一番の友達って思ってたけどさ,そうじゃなかったのかって思って。別に私も誘ってくれても良かったんじゃない? 昨日さ」


 まばたきをするのも忘れて菜々美を見詰めた。きっと今,私はすごくあほな顔をしている。頭の中ではてながぐるぐると渦巻いている。


 え。菜々美は昨日用事があって来なかったのじゃないの? 

 外せない用事って何だったの?

 

 何かの間違いだったのだろうか。頭が混乱してきた。

 私と菜々美が言葉も交わさないのには不自然な距離で向かい合っていると,美月が教室に入ってきた。美月は私たちのことを意図的に意識しないようにしているのか,顔をまっすぐ自分の席に向けたまま一直線にそこへ向かった。

 話をしないと。

 昨日のことから気まずさがあることは覚悟していたが,今はそんなことはどうでもいい。

 でも、結局チャイムが鳴ってしまって話ができないままになってしまった。


 

 試験は手につかなかった。開始の合図があってもどこか上の空で,気付けば30分近く時間が経っていたなんてこともあった。昨晩はもちろんペンを持つ気力は沸かなかったし,試験の結果は返ってこずとも目に見えていた。

 それでも,その日最後の試験が終了したとき,落胆する余裕すらなかった。菜々美に感じた違和感は何だったのだろう。美月の昨日の行動は,突発的なものだったのだろうか。考えるべきことはたくさんあったが,解答用紙を回収されて解散を告げられると真っ先に菜々美のもとに向かった。


「菜々美,試験どうだった?」

「んー。昨日は話し相手もいなかったからはかどったし,ぼちぼちって感じかな。」


 そう言うとかばんを取り出して荷物を詰め始めた。え,終わり? いつもなら問題がどうだったとか,私の話も聞いてくれるのに。やっぱりおかしい。思い切って聞いてみた。


「菜々美,何か怒ってる?」

「あんたね~。それ怒ってる女の子に絶対言っちゃいけない言葉ここ15年揺るがぬトップ一位じゃない。友達やめられてから女の子心まで失ってしまったのかい?」

「ちょっと,やっぱり怒ってんの? なに友達やめちゃったって。私何かしたっけ?」

「私たち生まれた時からテスト勉強だけは一緒にしてきたじゃない。それがなに? 昨日は何も言わずにそそくさと帰っちゃって。おまけに,大富豪の家で豪華なパーティーを開いてたって? せめて一言ぐらい言ってくれたらよいのに。私おかしくなりそうだったよ」


 菜々美は誘われたけど来れなかったんじゃなかったの? 確かにそそくさと私も教室を出たのは確かだけど,全く思い描いていたものと状況が違っていた。

 三人で話さなきゃ。溝を埋めるのは早い方がいい。壁面が崩れて水がせき止められているみたいに流れが悪い私たちの間も,きちんと話をすればきっと修復するはずだ。私たちの間にあるすれ違いや疑問を解決しよう。答えはきっとある。白紙の答案用紙じゃ,だめだ。

 多くの謎を抱えたまま美月の席に目をやると,彼女の姿はもうそこにはなかった。

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