第5話 常連という響きはなぜだか偉いと勘違いさせるものがある ~大三元~
パチンコ屋に昔はあったのに、今はないものとして両替機がある。当時の玉貸し機はお札なんて受け入れなかった。硬派だったのである。店によっては、100円単位で玉を貸してくれるようなものもあった。金属を投入して金属が出てくる。なんだか自然に感じるのだが、自分だけだろうか。
10時10分に柳沢センターに着き、三畳ほどの自転車置き場に適当に自転車を留め、両替機で五千円を500円玉×10枚に両替し、左手のドリンクを飲みながら台につく。10枚を重ねると500円玉の側面に書いてある字の向きがバラバラで気になったものだ。今はその程度では前菜にすらならないかもしれないが、その頃は10枚で大抵楽しめた。
こぢんまりとした店なので、毎日通っていると常連の顔を覚えるようになる。よく出している人、移動ばかりしている人、リアクションのでかい人、色んな人がいる。そんな中で誰に発表するわけでもない、誰が認定するわけでもない、独断と偏見で決めた自分だけの柳沢センター四天王がいた。……、我ながらくだらない、だからこそいい。ここで初めて私以外の人に我が柳沢センター四天王を紹介しよう。
柳沢センター四天王のリーダーは、『炎の橋』。パーマをかけていて、リーゼント気味の髪型が歌手の橋幸夫に似ていたから。本名は当然知らない。炎は、声が大きくて活気があったから。よく出していたし、存在感があった。炎を冠する四天王のリーダーに相応しかった。
柳沢センター四天王のブルー的な役割は、『海のフィッシャーマン』。毎日、ポケットがたくさんある釣り用(っぽい)ベストを着ていたから。釣り用(っぽい)帽子もかぶっていた。名前の由来からも分かるように四天王の中では最も存在感が薄い。橋とは逆に、出しているとなんか喜べないキャラだった。
そして、柳沢センター四天王の紅一点、『森のフィリピーナ』。しゃべり方に妙な訛りがあったから。本当に外国人なのかは不明。ちょっと若く見えるおばちゃんだと思っていたが、今になってみると本当に若かったのかもしれない。出していることは多かったが、台の知識はほとんどなく、引きだけで出していいる感じがあった。その不思議な感じも森の妖精みたいだった。
最後は俺、柳沢センター四天王のホープ、『風の高校生』。
まあ、自分の中だけの四天王だから勘弁してやって欲しい。とはいえそのくらい毎日いたし、そこそこ出していた。
他にも常連はいたし、逆に言えば常連しかいなかった。四天王に入れなかったくらいなのでみんな本当に普通のおじちゃんとおばちゃんだった。そんな人たちに自分から話しかけたりすることはなく、後ろを通るときに「相変わらず橋出してんなぁ」とか思ったりするくらいのものだった。今思えばあちらからは「ガキが火遊びに来てんなぁ」という感じだったのかもしれない。
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それだけ毎日通っていたので、設置している台はフィーバークイーン以外もすべて打った。店の隅に平和の大三元というデジパチがあった。当時のパチンコ台にはなぜだか麻雀をモチーフにしたものが多かったが、二回ワンセットの権利物でこれといった特徴の無い台だった。確変が継続するのに対してセット回数で終了する権利物はすでに時代遅れな印象で、打っている人はほとんどいなかったが、橋が何回か箱を積んでいるのを見て打ってみることにした。権利物の台は抽選と賞球が100%連携していないものが多かった。大三元もスタートチャッカーの少し下に賞球のチャッカーがあり、その間には釘があった。しかし、この店は釘を絞っておらず、抽選チャッカーを通った玉は、ほぼ賞球チャッカーが拾ってくれた。大当たり確率1/250、二回ワンセットで4000発、賞球有りの仕様は、出玉だけならそれまで打った台の中で最も優れていた。演出もシンプルで自分に合った。スーパーリーチは天和リーチと呼ばれる一種類のみで、左中右の絵柄が揃ったまま回転する全回転のような演出だった。ただ、これは確定ではなく外れる。体感的に75%くらいの信頼度だったように思う。これがたまに発生して、当たったり外れたりする。これだけだと打っていて飽きると思われるかもしれない。しかし、ここからが不思議な話、オカルトなのだ。
大三元はその名の通り、液晶の絵柄に麻雀牌を使用していて、索子の一から九と字牌(東南西北白發中)という構成だった。筒子や萬子と比較にならないほど数が分かり難く、麻雀を打たない人からしたら鳥ってなんだよって話だよなぁと思っていた。大三元の大当たりは、天和リーチからが30%程度で、半分以上はノーマルリーチから当たった。普通に当たるので期待するのだが、このノーマルリーチがリーチのかかっている絵柄によって当たる確率が異なるような感じがするのだ。演出などに変化は全くない。完全に体感である。しかし、四索と七索のリーチの当たる確率が明らかに高かった。30%くらいあったように思う。つまり、絵柄によるオカルトなスーパーリーチがあったのだ。とにかく七索のリーチがかかるだけで勝手に期待した。それ以外にも、他よりやや当たりやすい絵柄もあった。当時は現在のようにロムの解析など行われておらず、内部の仕様を知ることができなかったので、完全にオカルトだった。しかし、後に大三元の兄弟機の仕様を知ることになる。大当たりする絵柄の確率は等しいが、リーチのかかる絵柄の確率には差があったのだ。例えば、絵柄AとBがあり、どちらも大当たりの確率は1/4000である。しかし、リーチのかかる確率はAが1/200、Bが1/40であるとすると、リーチがかかってから当たる確率はAが1/20(5%)、Bが1/100(1%)ということになる。つまり、リーチがかかった絵柄による条件付き確率が異なるということが分かり、体感で勝手にスーパーリーチにしていたことがオカルトでなかったと判明する。体験から発見に至る、二十世紀って素敵だ。こうして朝一から大三元を打つ日が増えた。引きに関してはこのときが最盛期であった私の人生最高出玉は、もしかしたら大三元によるものかもしれない。イスの右に8箱、後ろに4箱、左に4箱積んだ。当時の上げ底していない箱にぱんぱんに入っていたので、はっきり憶えていないのだが、40000玉くらい流しただろうか。憶えていないというところが高校生っぽくてよい。こときはさすがに橋にも「積んでるねぇ」と褒められた。
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こんな感じだと一日中パチンコ屋に入り浸っているように思われるかもしれない。しかし、ほとんど昼過ぎには撤収していた。他の常連も夕方に撤収していくことが多かった。受験生だからその後は勉強していたのかというとそうではなく、そのまま自転車でゲームセンターに移動し、余った500円玉をさらに50円玉に両替してゲームの練習に励んでいた。ゲームセンターにおける格闘ゲームもこの時期に急激な進化を始めていて、ここから数年は発展の一途を辿る。こちらの進化に関われたことも幸せなことなのだが、それはまた別の話。
そんなことだから当然受験には失敗し、浪人することになる。
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