第38話 去り行くものたち

 イスメは答えなかった。 

 答えられるはずはなかった。

 魔界の者にとって、これほど厳しく、そして抗いがたい現実はない。

 だが、タイロンの喉元は、ますます固く締め上げられた。

 言葉にならない呻き声が、食いしばった歯の間から漏れる。

 そこで初めて、イスメは口を開いた。

「おぬしらに言うても詮無いことであるから黙っておったが、この世の名残に教えてやろう。聞きたいか?」

 タイロンは、しかめた顔で振り向くと、微かに頷いた。 

 外壁の向こうから、朝日が昇る。

 幼い顔が、冷たく嘲笑しているのが見えた。

「魔王が死んでも、妾さえ生きておれば魔界は滅ぶことはない。何故だかわかるか?」

「まさか……」

 タイロンが呻くと、イスメは高らかに笑った。

「ここで死んでもらおうか! 残念じゃったのう、魔界で生き残った1人が、よりにもよって魔王の娘とは!」

 そのときである。

 ふたつのことが同時に起こり、タイロンの首を締め上げるイスメの腕を緩めたのだった。

 まず、動いたのはアンティだった。

「おのれ……魔王の娘などと!」

 朝日が昇ってしまえば、いかに宝珠の放つ光が眩しかろうと、視界を灼くほどではなくなる。

 姿を露わにしたイスメの落とした斧に飛びつくと、高々と振り上げた。

 いかにアンティが非力とはいえ、幼女の小柄な身体で操れる武器が振るえないはずがない。 

 だが、そのときにはすでに、立ち上がったドモスが宝珠を高々と掲げていた。

「それより余計に動いたら、こいつを叩き割る!」

 いまにもイスメの首を打ち落とそうとしていたアンティが、感情のない、くぐもった声で答えた。

「まだ分かりませんの……? 私には、もう用のないものですわ」

「そうかねえ……そんなふうには見えなかったがな、俺には」

 ドモスはにやにや笑いながら、言い返す。

 斧を振り上げたまま、アンティは眉をひそめた。

「残念でしたわね……私、本気ですのよ」

 ドモスは微かに頷くと、口元を歪めて言った。

「じゃあ、しょうがねえな……そういうわけだ、タイロン。勘弁してくれ」

 水を向けられたタイロンは、どうにか息が通るようになった喉を笛のように鳴らしながら告げた。

「待ってくれ……ドモス。それを割ったって、いいことは何もないぞ……そうだろう? アンティ」

 姫君の返事はなかった。

 代わりに、高らかに笑ったのはイスメである。

「よう分かっておるではないか。おぬしが黙っておれば、王国を守る至宝は失われ、魔力と斧を取り戻した妾は、おぬしらを皆殺しにして魔界に帰ることができたのじゃ……この辺に隠しておる武器はいくらでもあるでのう」

 そう言って指差す先は、斧やら弓矢やらをいくらでも取り出してきた辺りである。

 その斧にしても、イスメがひとつ差し招くだけで、離れたところから戻ってくるのだった。

 ここで宝珠を破壊して、お互いに得るものは何もない。

 お互いの利害が一致したのを確かめたタイロンは、不敵に笑った。

「そういうわけで、手を離してくれないかな……どうだろう、痛み分けってことで」

「よかろう」

 イスメのしなやかな腕がほどかれ、青黒くむくんだ首元をさすりながらタイロンは地面から身体を起こした。

 ドモスに向かって手を差し出すと、まだ光を放っている宝珠が無造作に突き出された。

「ありがとう……君のおかげで助かったよ」

 宝珠を受け取ったタイロンが礼を言うと、ドモスは照れ臭そうに頭を掻いた。

「いや……俺は別に、その、イスメのためにやったことで……」

「そういうことにしておくよ」

 そこでタイロンは、まだ長柄の斧を持っているアンティへと振り向いた。

「返してやってくれないかな、それ」

 しぶしぶ差し出された武器を受け取ると、イスメは開かれた外壁の門の向こうへと歩きだす。

 その後ろから、タイロンが尋ねた。

「魔界に帰ったら、どうするんだ?」

 斧をかついだ幼女は、面倒臭そうに振り向いた。

「知れたことじゃ。生きるのよ。妾は魔族、生きて生きて生き抜いてくれる……そうさな、魔界から見届けてやるわ、欲に狂ったお前たちが憎み合い、殺し合うのをな」

 すると、アンティが横から口を挟んだ。

「その先は、どうなさいますの? いずれにせよ、あなたの代で魔界は終わりますのに」

 そこで声を上げたのは、レイピアを携えたドモスだった。

「俺がいる……俺との子供が、魔界を継ぐ」

 今にも斧が横薙ぎに払われ、稲妻の蛇が辺りを焼き尽くすかと思われたが、宝珠の力で魔力は封じられている。

 だが、そうなってもおかしくないくらい、イスメの顔は真っ赤に染まっていた。

 その傍らに図々しく寄り添って立ったドモスは、生死を共にした戦友に別れの挨拶を告げた。

「達者でな、ドモス。姫様とうまくやるんだぜ」

 そこで騎士見習いは、ふと目を上げた。

 今更のように、内壁の向こうから角笛の音が高らかに鳴り響く。

 イスメとタイロンがそわそわと慌て始めたのを見て、アンティが不審げに尋ねた。

「何がありましたの?」

 面倒臭そうに、ドモスが答えた。

「魔界暮らしで分からんのも無理はないがな、お出迎えに来るんだよ……おえらい騎士の皆々様が」

 タイロンが急かした。

「早く行け、ドモス! お前のやってることは脱走だぞ!」

「いけねえ!」

 ちょっと見ただけでは少女のように見える若者が、更に幼く見える、本当は何歳かよく分からない女の子の手を取った。

 何をするか離せと喚くのには耳を貸さず、凄まじい速さで荒野の彼方へと連れて走り去っていってしまった。  

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