第36話 そして、長い夜が明ける

 外壁と内壁の間は、大混乱に陥った。

 街中へと侵入するためのハシゴは瞬く間に失われ、その上にいた兵士たちは地面へと転落した。

 雷撃を放ったイスメが、すぐに発見されたのはいうまでもない。

 兵士たちの何人かが、剣や槍を手に襲いかかってくる。

 だが、タイロンはイスメに告げた。

「斧はもういい……閂を!」

 ドモスとアンティだけでは、重い横木を動かすことはできなかった。

 イスメは斧を放り出して、小さな身体でふたりに加勢する。

 それでも、さっきようやく4人がかりで持ち上げられた閂が、3人でどうこうできるわけがない。

 だが、力尽きたタイロンは、まだ最後の1人となれるまでに力を回復してはいなかった。

 壁を守る4人は、外壁の扉の前で、侵入者に無防備な身体を晒すことになったわけである。

 だが、これこそがその、最大の狙いであった。

 力のあり余った敵兵の何人かを、外壁の壁に引き付けておくことが……。

 雲梯を失った外の兵士たちはというと、自らの手で内壁をよじ登るしかなくなった。

 ここを越えれば、その向こうはもう、城内だ。

 壁は高いが、摘まれた壁石には凹凸もあれば、隙間もある。登る手がかり、足がかりは充分にあった。

 何十人という兵士がひとりずつ、壁沿いに並ぶ。その手は、各々、ひとつひとつの壁石に掛けられる。

 そのときだった。

 壁のあちこちで微かに、だが確かに、カチッという音がほとんど時を同じくして聞こえたのである。

 タイロンは、扉の前の3人に呼び掛けた。

「息を止めろ!」 

 それが壁の向こうからの侵入者と、壁の守り手たちの勝敗を逆転した。

 城塞都市カーナル攻略の最後の関門となった内壁は、大昔に魔族の知恵が授けた力を如何なく発揮したのである。

 壁に手をかけてよじ登ろうとしていた兵士たちは、残らず地面へと転落した。

 死ぬ間際の虫のように、足をじたばたさせてのたうち回る。

 これこそが壁に仕掛けられていた罠、「毒の息」であった。

 いったん吸い込めば身体の自由は奪われ、やがて生命までもが失われる。

 壁から噴き出す、目には見えない「毒の息」の勢いは凄まじかった。

 扉の閂に取りついた3人にまで迫っていた兵士のひとりが、棒のように真っすぐになった身体を前につんのめらせて倒れる。

 だが、他の兵士たちは、それに構わず突進してきた。

 その足元には、いまだに疲れの癒えないタイロンが横たわっている。

 顔をしかめながら閂を押し上げようとしていた、イスメが叫んだ。

「おぬし! 死んでしまうぞ、起きねば!」

 苛立ちと不安とが混じりあった声が、そこでむせかえる。倒れ伏したのはむしろ、その、いちばん小柄な身体だった。

 ドモスが閂を離してイスメを助け起こしたが、ものも言わずに張り倒された。

「バカモノ……扉を……開けんか、早く!」

 だが、ドモスはそれに従わなかった。 

 イスメを後ろから強く抱きしめて、耳元で囁く。

「できるわけがねえだろう、お前なしで……だったら」

 言うなり、イスメと唇を重ねる。

 驚きと怒りで見開かれた魔界の少女の目が、静かに閉じられた。

 それが陶酔のせいか、「毒の息」の効果かは分からない。

 だが、その目元からは、確かにひと筋の涙がこぼれていた。

 細い腕でひとり、閂を持ち上げようとしていたアンティが、それを鋭く見咎めた。

 タイロンが首を横に振って止めるが、それが見えているのかいないのか、甲高い声で怒鳴りつける。

「ドモス! あなた……」

 その瞬間、長い髪を揺らめかせて、姫君の端整な影が倒れる。

 タイロンは、狂戦士と呼ぶのがふさわしい、それこそ魔界の悪鬼のごとき形相で跳ね起きた。

 ただでさえ身体が動かない上に、息を止めていたのだから、当然のことながら身体に無理がくる。

 アンティの身体を抱き留めたところで受け身も取れず、戦場に倒れた死体さながらの無防備さで、背中から地面に落ちた。

 だが、それでも横に転がることはできた。

 豊かな胸を隠すように上から覆いかぶさると、タイロンはそれきり動かなくなった。

 ただ、あちこちで苦しげな喘ぎ声が聞こえるばかりである。

 内壁によじ登ろうとして、「毒の息」に冒された侵入者たちが助けを求めているのであった。

 このまま閉ざされた内外の扉の間に放っておかれれば、攻め込んできた者たちも防いできた4人も、共に命はない。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。

 突如として鳴り響いた平手打ちの音が、タイロンを目覚めさせた。

 侵入してきた軍勢の姿は、どこに見ることもできない。

 月は既に壁の向こうに沈んでいる。

 さっきまで4人を隠していた壁の影もない。

 ただ、夜と朝の狭間の、あのうっすらと青い霧が辺りを包んでいるばかりである。

 姫君の帰還を待つ歌声も、もう聞こえはしない。

 その静寂の中でタイロンが呆然として見つめるものがあった。

 身体を起こしたドモスが頬を押さえて、地面に横たわるイスメを見つめている。

 だが、その目から涙が流れているのは、頬を打たれた悲しみや痛みのせいではないようだった。

「よかった……」

 ドモスの長い口づけが、壁の吐いた「毒の息」の吸収を妨げたのであろう。

 もっとも、イスメはその言葉の意味を完全に誤解していたらしかった。

 横たわったまま、さっきとは反対側の頬を張り倒す。

「妾の唇を汚しておいて、何を……」

 遠目にも分かるほど、その顔は赤くなっている。

 ドモスはそれを見下ろして、泣きながら笑った。

「怒っていいぜ……好きなだけ」

 イスメの前にさらされた両の頬が、立てつづけに鳴った。

 まだ身体の上にのしかかっているドモスを睨み据えて、怒鳴り散らす。

「バカモノ! バカモノ! バカモノ!」

 それでも、そんな平手打ちがいつまでも続くものではない。

 ドモスはぐったりと横たわったイスメを見つめて、囁いた。

「それでおしまいか? ……もう気が済んだのかよ、早すぎるぜ」

 開け放たれた門を吹き抜けた風が、荒野からどっと吹き込んでくる。

 それが意味することをようやく察したのか、イスメは顔を背けてつぶやいた。

「……バカモノ」


 だが、再び凄まじい平手打ちが夜明け前の静寂を切り裂いた。

「無礼者!」

 今度は、タイロンが頬を押さえる番だった。

「アンティ……」

「どきなさい」

 姫君のひと言で、タイロンはその場から飛び退った。

 しどけない姿で横たわっていたのに気付いたのか、アンティは目を見開く。

 だが、何事もなかったかのようにゆっくりと身体を起こすと、タイロンを冷ややかに見つめて言った。

「どういうつもりですの? 気を失った女に、こんなことをなさる人だとは思いませんでしたわ」 

 抑えられているだけに、アンティの怒りには凄まじいものがあった。

 歴戦の傭兵さえも、その気迫にはすくみ上がらずにはいられない。

「いや……それは」

 言いたいこともろくに言えずに目をそらした先には、かつて魔王を倒すためにドモスと越えていった荒野がある。

 開け放たれた門に気付いたらしく、アンティはつぶやいた。

「まさか、……これを狙って?」

 誤解が解けたところで、タイロンはようやく事の次第を説明することができた。

「この扉を開けてくれたのは、攻めてきた連中さ」

 3人がかりでは動かせなかった閂を、真っ先に逃げてきた兵士たちが外してくれたのだ。

 アンティは皮肉な笑みを浮かべた。

「逃げるためね」

 タイロンは、侵入者たちが逃げていったと思しき荒野の彼方に目を遣る。

 アンティに答える声には、どこか安堵の響きがあった。

「どっちみちアンティ太たちでは開かないとは思っていたけど、連中に逃げ道を教えてやることはできた」

 外せないと分かっているものに3人を挑ませたのは、その様子を侵入者に見せるためだったのだ。

 だが、開けた門から『毒の息』が出ていくまでにタイロンたちが死んでしまったら、意味がない。

 アンティも、安心したように言った。

「すぐに死ぬ毒って、ないものかしら」

 ちょっと考えてから、タイロンは自分の出した答えをひと言ひと言、確かめるように返事をした。

「ドモスを襲った吹き矢は、南の国から来た暗殺者が使ったものだった。その毒は、イスメでも吸い出せたろう? そんな毒は、南にもそうそうないんだろうさ」

「壁の毒は、同じ毒だったってことですの?」

 アンティが、怪訝そうに聞き返す。

 タイロンは、いささか自信なさげに答えた。

「カナールにないものは、南の国々からもたらされる。だから、この壁に仕掛けられているとしたら、同じ毒だろうと思ったのさ」

「魔界の業だって聞きましたのに」

 そう言うアンティが見やったのは、イスメである。

 もともと、これが門番の老人に化けていたイスメが、自分を慕ってくるアンティを手なづけるために教えたことだった。



 イスメがそのひと言に知らん顔をするはずもない。

 即座に、冷ややかな口調で切り返す。

「魔界の者はむやみに人を殺さん。それはおぬしも知っておろう」

 魔界の娘と取り替え子チェンジリングにされた姫君は、声を低めて答えた。

「ええ……だから許せませんの、この国の者たちを」

 アンティは、魔界の王の元で育った。

 その魔王は、城塞都市国家カナールが放った刺客に殺されている。

 しかも、その任に当たっていたのは、ほかならぬタイロンとドモスだった。

 金でその仕事を引き受けた傭兵も、体よく厄介払いされたにすぎなかった騎士見習いも、アンティの言葉には黙り込むしかない。

 沈黙の中で、夜が明けていった。

 夜の藍が空から去り、朝の光に白んでいく。

 その空に、甲高い声が響き渡った。

 魔界の娘への恋から身分を捨てた騎士見習いが、何者がやってきたのか真っ先に気付いて声を上げた。

「鷹だ……王宮からの」

 城塞の内側からようやく放たれた鷹が、朝の空を大きく旋回している。

 高らかに鳴き渡るその声は、城塞の内側で眠り込んでしまった街の人々に代わって姫君を迎えるかのようであった。

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