第33話 王国の姫君と魔界の剣と

 だが、先の見えない不毛な闘いの行方は、さらに不透明なものとなった。

 夜闇の向こうから、凛と張りつめた、若々しい女の声がする。

「その先は私にお任せなさい、タイロン!」

 斜めに傾いだ真っ青な月明かりを浴びて駆け寄ってきた、華奢な姿があった。

 城塞都市国家カナールの姫君、アンティフォーネルカディート……通称アンティ。

 しなやかな曲線を描く身体で、その豊かな胸だけがやたらと揺れている。

 おそらく、あの宝珠を服の中に隠しているからだろう。

 だが、タイロンの目を引きつけたのは、そこではない。

「来るな、アンティ! そんなもの捨てろ!」

 王国の姫君が手にしているのは、月光の下で煌くレイピアであった。

 おそらく、暗殺者の毒薬で昏倒したドモスのものを拝借してきたのだろう。

 アンティは制止も聞かず、ようやく立ち上がった暗殺者の前に立ちはだかる。

 腰を抜かしたように見えるタイロンを小馬鹿にしたように見下ろすと、鼻で笑った。

「私に指図できる立場ですの? 動けもしないくせに」

 ここで立場を口にしながら身分の違いを云々しないところは、アンティならではの誇り高さである。

 だが、足腰が立とうが立つまいが、タイロンが言わねばならないことは変わらなかった。 

「だめだ、アンティのかなう相手じゃない! 剣で戦うなんて無理だ!」

 余裕たっぷりだったアンティの顔が、急に険しくなった。

 影にしか見えない暗殺者を前に、レイピアをひと振りしてから身構える。

「私も魔界で、このくらいの剣は習っておりますの……魔王から直々に」

 確かに、その構えは素人のものではなかった。

 だが、タイロンはきっぱり言い切った。

「アテにはしてない」

 目の前にいるのは、実際に何人殺してきたか分からない相手である。

 とても通用する剣ではない。

 それは、戦場で数えきれないほど命のやりとりをしてきたタイロンには見ただけで分かることだった。

 だが、アンティの武器は剣だけではない。 

 衛兵の服の襟元から突っ込まれた手が、躍る胸の間から何かを掴み出した。

「目を閉じてくださいませんこと?」

 アンティのひと言と共に、高々と掲げたその手から、まばゆいばかりの光がほとばしった。

 かつては王国の城の地下深くに隠されていた宝珠が姫君の手の中で、その力を解き放ったのだった。 

 目を閉じたタイロンは、苦々しげにつぶやいた。

「目つぶしかよ……」

 およそ、魔王が授けたとは思われない知恵である。

 だが、アンティはタイロンのそんな思いなど気にも留めてはいないらしい。

「これ、持ってて」

 タイロンが突き出した手に、王国の至宝をいとも簡単に預ける。

「ちょっとアンティ、これは……」

 うろたえるタイロンなど気に留める様子もなく、魔界と敵対する王国の姫君は、魔王から教えを受けたと思しき鋭い突きを放つ。

 ただし、この戦いは対等ではなかった。

 相手は暗殺者とはいえ、身動きひとつしないのである。いや、できはしない。

 宝珠が光を放つ前に、その目はすでにタイロンによって潰されている。

 だが、悲鳴を上げたのは、動かないはずの的を突いたアンティのほうだった。

「この! この! なぜ! 見えてないんじゃなかったんですの!」 

 暗殺者はアンティのレイピアを、巧みにかわし、また自分の武器で弾いては受け流す。

 さらに斬りつけてきたとき、タイロンはそれが何だか分かった。

 さっき、壁によじ登るときに使っていた鉤爪だ。

 それがアンティの着た衛兵の服を裂いて、白い肌を露わにする。

 タイロンは叫んだ。

「気を付けろ! 目が見えなくても、そいつは動ける!」

 失明するほど、強く目を突いてはいない。

 だが、そう簡単に視界が回復するほどの手加減もしてはいなかった。

 それでも、自由自在に武器が振るえるとなれば、その原因は傭兵のタイロンにも見当がついた。

 暗闇の中で戦えるよう、もともと訓練されていたのだ。

 そうなると、タイロンでも手強い相手である。

 だが、アンティは強がった。

「だから……どうしたって、いうんですの!」

 確かに、その気になれば吹き矢で殺せた相手に、暗殺者が手こずっている。

 実戦経験がなくても殺人の技を凌ぐことができるのは、魔王直伝の剣だからだろう。

 しかし、それも時間の問題である。

 息が上がっているのは、アンティの声を聞くだけでも分かった。

「なんとか耐えろ!」

 地面に転がったまま叫ぶタイロンは、手足を踏ん張ってみる。

 アンティが倒されるのが早いか、タイロンが助けに入るのが早いか。

 身体を起こせるようにはなっていたが、まだ、立ち上がるまでには及ばない。

 そこで、金属が跳ね上げられる音がした。

 鉤爪が、レイピアを弾き飛ばしたのだ。

 高々と舞い上がった剣が、地面に突き刺さる。

 アンティが呻いた。

「離れなさい! この……」

 見れば、地面に組み伏せた王国の姫君に、暗殺者が鉤爪を振り上げている。

 だが、タイロンはそこから目をそらした。

 その視線は、自分の手の届く辺りの地面を這う。

「動くな、アンティ!」

 言うなり、タイロンはその場に転がった。

 何かを掴んで、鋭く息を吐く。

 暗殺者は一撃必殺の構えを取ったまま、後ろにのけぞって倒れた。

 アンティが呆然としてつぶやく。

「どうしたんですの……?」

 タイロンが、姫君の前で下品にも地面に、ペッ、と唾を吐く。

 ぽいと放り出したのは、葦の茎かなにかで作ったらしい、細く小さな筒だった。

「吹き矢さ……暗殺者の」

 タイロンやアンティをすぐに毒針で殺せなかったのは、壁から落ちたときにこれを失ったからだったのだ。

 その吹き矢が近くに落ちていると読んだタイロンは、立ち上がれないまま、とっさに探したのである。

 間一髪、暗殺者に放たれた毒針は、その身体の自由を奪ったのであった。

どうやら、相手を即死させるほどの毒ではないらしい。

 それがドモスの身体に回るまでは、まだ少し時間の余裕があるということだ。

 その喉の傷口に吸いついて毒を吸い出そうとしているのが、イスメだ。

 見かけは幼いが、その努力次第では、ドモスは助かるかもしれなかった。

 安堵の息をついたタイロンの身体も、ようやく自由が利くようになってきた。

 だが、そこでまたひとつ、面倒なことが起こった。

 生命の危機にさらされた怒りのせいか、組み伏せられた羞恥のせいか、月明かりの下でもそれとわかるほど、顔を紅潮させていた。

「生かしてはおきません」

 地面に突き刺さった傍らのレイピアを引き抜くと、逆手に持つ。

 それが暗殺者の胸に突き立てられようとしたとき、タイロンは這うようにして止めに入った。

 懸命に伸ばした手が、アンティの細い腕を掴む。まだまだ完全に動くようになってはいないが、力の差は比べるまでもない。

「王国の姫君のすることじゃない」

 低くたしなめる声に、アンティは冷ややかな笑いで応じた。

「そんな身分は捨てましたわ」

 タイロンの顔が、急に険しくなった。

 見下ろす端整な顔を、厳しい眼差しで見つめる。

「それなら、なぜ殺す」

 アンティは、言葉に詰まった。

 顔を背けてつぶやく。

「言わないで……」

 身体が小刻みに震えている。

 言葉にできない、怒りとも羞恥ともつかない感情が心の中で荒れ狂っているのだ。

 だが、タイロンは真剣な面持ちで、なおも畳みかけた。

「君の誇りを守るなら、殺すな。絶対に」 

 そう言うなり、アンティの手からレイピアをひったくる。

 もの凄い表情で睨みつけられることもなく、その柄はしなやかな指のあいだからするりと抜けた。

 その端を、タイロンは暗殺者の鳩尾辺りに叩きこむ。

 呻き声ひとつだけ残して、その身体はぐったりと長く伸びた。

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