第32話 見えない敵との闘い
小さな唇でドモスの喉元に吸い付いたイスメは、口の中に溜まったものを吐き出すなり言った。
「間に合えばよいが」
大きく息をつくと、再びドモスの傷口に唇を当てる。
その様子に何を想像したのか、アンティは気まずそうに目をそらした。
タイロンはというと、全く別の方向へ目を遣っていた。
だが、いやらしいことを思い浮かべていたわけではない。
ただ、こんなことを考えていたのだった。
「ドモスは動いていない、ということは……」
倒れたままでいるところを、格好の的として毒針の吹き矢で狙われたのだろう。
すると、少なくとも、侵入者は針の撃ち込まれた方向にいたことになる。
タイロンの見やった先には、城塞都市の内壁があった。
外壁に向かって動いたのなら、闇の中を横切ったはずだ。
アンティはともかく、イスメなら気づいていて当然である。
それがないということは、侵入者の向かった方向はひとつしかない。
「内壁に沿って動いたんだ」
タイロンは、まだ喧噪の覚めやらぬ城内の側にある壁の続く限り、歩きはじめた。
闇の中、自問自答が続く。
「毒針は……南にある国々でよく使う暗殺の技だ」
傭兵の仕事は、戦争だけではない。
普通の人ができない、腕ずくの危険な仕事に雇われることもある。
高貴な人の護衛や、危険な生き物が潜む場所の探索、港のある国や町での海賊退治の際には、正規の軍隊の露払いをさせられるときもある。
「海賊の隠れ家に踏み込んで、何べん物陰から吹き矢で狙われたか」
北の荒野に面した国々と違って、様々な生き物や草木に恵まれているので、その分、毒虫や毒草にも事欠かない。
南の国々にいる暗殺者たちと手を結べば、これらを使わせることもできるだろう。
だが、そうした暗殺者がこのカナールまで来るには、旅費も時間もかかる。
あまり割のよい仕事ではないはずだ。
「そんなら、追い払うだけでいい……用が済んだらすぐ帰るはずだ」
城壁の外の連中と結んだ契約の内容など、知ったことではない。
ただ、いかに暗殺者とはいえ、割の合わない仕事にまで命を書けるとは思えなかった。
「逃げるとなれば、俺より足は速いだろうな」
そこで、タイロンがふと気づいたことがあった。
なぜ、魔界の娘であるイスメまでもが暗殺者の侵入に気付かなかったのか。
「あの火炎弾か……」
あれには、陽動の意味もあったのだ。
壁を守る兵士が頑強に抵抗した場合、火炎弾で焼き尽くし、その隙に侵入した暗殺者が生き残りを掃蕩して、門を内側から開けるという手はずになっていたのだろう。
「手間のかかることだ」
走りながらぼやいていると、頭上で微かに、何かが鋭く風を切る音が聞こえてきた。
とっさに飛び退って、偃月刀を跳ね上げる。
澄んだ甲高い音と共に、僅かではあるが手応えが感じられた。
やがて、目の前に降ってきたものがある。
手を横に薙いで取ろうと思えば取れるが、危険を感じたタイロンは放っておいた。
足元の地面に突き刺さったものを見下ろしてみれば、針である。
「……しまった!」
おそらく、追跡を察知して跳躍した暗殺者は、タイロンが真下に来るのを見計らって、吹き矢にした毒針を放ったのだろう。
「すると……」
普通に考えたら、殺す相手が毒針に気を取られているうちに、背後へ回るはずである。
だが、振り向いても、人影はなかった。
もっとも、そこに暗殺者がいるとは最初から思っていない。
タイロンには、別の目的があった。
両手持ちにした偃月刀の重さに物を言わせて、身体をもう半回転させる。
片手で振り抜いた先には、ほんの僅かの間ではあったが、確かに何者かの姿があった。
「……やっぱり」
器用な暗殺者だった。
跳躍して吹き矢を放つなり、空中で回転すると、再びその場に降り立ったのだ。
相手が振り向けば背中から心臓を突き、振り向かなければ鼻先から喉を切り裂くといったところだろう。
そのどちらにせよ、暗殺者の姿はもうない。
逃げるにしても隠れるにしても、行く先はひとつだけである。
タイロンは不敵に笑った。
「だが、そっちは……」
暗殺者を追って再び駆け出すと、やがて、壁が正面にそびえているのが見えてきた。
ここが行き止まりである。
だが、夜闇の中でどれだけ目を凝らしても、暗殺者の姿はどこにもなかった。
その向こうには、南側の門の出口があるはずだ。
「逃げられたか……」
だが、火炎弾の攻撃に紛れて侵入しなければならないほど、壁を越えるのは手間のかかることだ。
いくら暗殺者の足が速いといっても、タイロンが追いつくまでに壁をよじ登る時間を稼げるとは考えられなかった。
だが、若いとはいえ幾多の修羅場をくぐって名を上げてきた傭兵は、再び何かが風を切る音を感じ取っていた。
「そこ!」
音のする方向に偃月刀が閃いて、飛んできた毒針を叩き落とす。
タイロンが針の放たれた場所を確認したのは、身体が勝手に動いた後だった。
「こういうことか」
内壁に、黒い影がトカゲかヤモリのようにへばりついている。
いや、よく見れば、腕に装着した鉤爪を壁石の隙間に引っかけてぶら下がっているのだった。
「城壁の守りも何もあったものじゃないな」
タイロンは自分で自分に軽口を叩いたが、急に声を荒らげて呼びかけた。
「降りろ! 俺を殺しにきたのかもしれんが、お前も死ぬぞ!」
アンティがイスメ……ではなく、それが変身した門番の老人から聞いた話によれば、暗殺者はかなり危険なことをしている。
内壁を、扉の破壊で突破しようとしたり、よじ登って乗り越えようとしたりすれば、壁石の隙間から「毒の息」が噴き出す仕掛けになっている。
おそらく、扉と壁石に仕掛けがあるのだ。
扉のほうは分からないが、壁石のほうは隙間に指を掛けると、仕掛けが動きだすのだろう。
だが、暗殺者にそんな秘密を喋るわけにもいかない。
仕方なく、こう言うしかなかった。
「お前を殺すつもりはない! そこから飛び降りろ!」
だが、聞こえなかったのか聞く気がないのか、それとも南の国の人間には言葉が通じないのか、返ってきたのは言葉ではなく、吹き矢で放たれた毒針だった。
それを偃月刀で叩き落としたタイロンは腹を括って、暗殺者の真下で内壁に指を立てた。
ただし、壁石の隙間には触れない。
その表面にある、窪みや傷に指を引っかけたのだ。
降ってくる毒針は、片手の偃月刀をかざして弾き飛ばす。
暗殺者も、壁にぶら下がっている状態では、なかなか足の下への吹き矢を準備できないようだった。
その隙に、タイロンは偃月刀の柄を壁石の凹凸に引っかけ、空いた手を他の窪みに伸ばす。
何度かそんなことを繰り返しているうちに、ようやくタイロンは偃月刀が届く辺りまで内壁をよじ登ることができた。
「落ちろ!」
偃月刀で暗殺者の足に切りつける。
だが、毒針が降ってきたのは、ほとんど同時だった。
それを避けようとしたとき、壁石を掴むタイロンの手が滑った。
「アンティ!」
落下の瞬間に姫君の名前をつい叫んでしまうほど、高いところに登ってしまっていた。
だが、偃月刀にも確かに手応えはあったのだ。
その証拠に、地面に叩きつけられた身体の音は、ひとつではなかった。
「痛っ……」
呻きながらも先に立ち上がったのは、タイロンのほうだった。
足先を切られた暗殺者も、遅れて立ち上がる。
落ちたときにしこたま地面で打ちつけたらしい肩は痛むが、足は折れていない。
動きのままならない暗殺者は、黒ずくめの姿で左右に身体を揺らしている。
タイロンは、この好機を逃がさなかった。
「もらった!」
腕の届く位置まで歩み寄ると、暗殺者の横面を張り倒す。
だが、暗殺者も負けてはいなかった。
タイロンの拳が届くということは、暗殺者の腕も届くということだ。
よろめきながらも、ガラ空きになったタイロンの胴体にしがみつく。
その凄まじい力に、タイロンは呻いた。
「おい……離せ……」
万力のような力で締め上げられて、次第にその声も喘ぎ声に変わっていく。
だが、暗殺者はいきなり悲鳴を上げると、タイロンの身体を解放した。
のたうち回りながら、目を押さえている。
その指の間から血の涙が流れているのは、暗殺者の腕を引き剥がそうとしたタイロンが、苦し紛れに目を指で抉ったからだ。
だが、暗殺者もそれ相応の報復はしていたようだった。
タイロンもまた、ふらふらとその場に倒れ込んでしまったのである。
「あれ……? 立て……ない?」
暗殺者はタイロンに抱きついたときに、足腰の骨と筋をどうにかいじくったらしいのだった。
立てないタイロンと、目の見えない暗殺者。
泥沼の戦いが始まろうとしていた。
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