第31話 静寂の中に潜む影
寄せ手もすっかり攻めあぐねているであろう城壁の内側に、静寂が戻ってきた。
アンティがつぶやいた。
「気が付きませんでしたわ……こんな夜でしたのね」
夜の空気が、城塞都市カナールを守る外壁と内壁の間を、ひんやりと満たしている。
さっきまで城壁の外から絶え間なく撃ち込まれていた火の玉の熱さなど、もうどこにも感じられない。
その火の球が撒き散らす炎を脱ぎ捨てた服で消していたタイロンが、冷たく光る逞しい胸を月の下に晒して頷いた。
「これが当たり前だったんだ……本当なら」
思えば、ずっと忘れ去られていた静寂である。
それをいつまでも味わっていようとでもするかのように、アンティとタイロンはそれきり口を閉ざした。
だが、こういう雰囲気の中でいたたまれない思いをする者は、どこにでもいる。
「どっかの誰かさんが風呂なんか浴びなきゃな」
やはり裸の上半身を晒したドモスが茶々を入れた。
その腕の中には、しなやかな曲線を描く鎧をまとったイスメがいる。
確かに、ドモスの心を最初にかき乱したのは、外壁の向こうにいる正体の知れない敵よりも、冷たい月光に照らし出されたイスメの小柄な裸身であったろう。
その魔界の娘は、まだ目を覚ましてはいない。
そこでアンティが、鋭い非難の眼差しをドモスに向けた。
「よかったですわね、あなたの幼い想い人には聞こえていないようですわよ」
「いらんこと言うな」
ドモスは慌ててイスメの顔を見つめる。
小柄な身体で稲妻の斧を手に暴れ回った少女は、現れたときと同じ月の光を浴びて、静かに寝息を立てている。
だが、その眠りを覚ましかねない歌声が、内側の壁の向こうから聞こえてきた。
今夜はよい夜、月も明るい
明日を待って飲み明かそう
月よ、どうか沈まないでおくれ
幸せな夜をいつまでも
アンティの怒りの矛先は、城内へと向けられた。
「何を考えているんですの、あの人たちは!」
ドモスがイスメの寝顔を気にしながら、穏やかな囁き声でたしなめた。
「今に始まったことじゃねえだろ、いずれ姫様が束ねあそばす、壁の向こうの民草は」
声は小さいが、その言葉は皮肉に満ちていた。
だが、アンティは言い返そうともしない。
その怒りは、現在の身分では未来の臣下といえなくもない、壁の向こうの人々に向けられたままである。
「あれだけ火の玉が飛んできて、魔法の……魔法の斧があれだけの稲妻を放ったのに!」
イスメの活躍について口ごもったのは、認めざるを得ないが、あまり口にしたくはないということだろう。
それをドモスも感じたのか、さらに意地の悪い口調で言った。
「お城からの鷹が来れば、何が起こっているか手紙に書いて、足に括りつけて送り返してやれるんだがね」
それは、伝令鷹が無茶な命令ばかりを送ってくる割には、こちらの報告をまともに届けているかどうか疑わしいという意味でもある。
タイロンも同じことを感じていないわけではなかったが、アンティをこの城塞都市国家カナールの姫君として城まで送り返す傭兵としての立場がある。
仲間内でのいさかいを起こさないよう、ドモスの皮肉を遠回しな言葉で和らげた。
「夜が明けないと……ほら、鷹は夜目が利かないだろ? こっちの様子を知らせようにも、飛んでこられないんじゃしかたがない」
伝令鷹が来ない理由をくどくどと説明するタイロンに、アンティはきっぱりと言った。
「アテにはしていませんわ、もともと。来ないなら来ないで構いません。私が必要ないなら、この国を出ていくまでです……姫の身分など捨てて」
自らが生まれ、そして帰らねばならない国に愛想が尽きたのをはっきりと口にした姫君に、タイロンは言葉を失った。
さっきまで皮肉を言っていたドモスは、ただ鼻で笑うばかりである。アンティに国を捨てるほどの度胸があるわけがないと思っているのだろう。
それはタイロンも同じだった。ただ、アンティは
それぞれの思惑から、長い沈黙が訪れた。
城壁の外の軍勢が、何か仕掛けてくる様子もない。
だが、突然、ドモスが地面の上に転がった。
偃月刀を手に身構えたタイロンが外壁の上を見やると、その足元で低く冷たい声が聞こえた。
「悠長なことを言っている場合か」
イスメが目を覚ましたのだった。
抱えた腕のどこかを捻って倒されたらしく、ドモスが肘やら手首やらを押さえて、痛い痛いと呻いている。
だが、それには構わず、タイロンは城壁へと走った。
斜めに傾いだ月の光を頼りに地面を確かめると、さっきの乱闘でついた足跡しか見当たらない。
だが、イスメが何かを感じ取っていたことだけは間違いなかった。
そこで、タイロンはつぶやく。
「内壁……?」
まだ城内のざわめきが聞こえる、反対側の壁に駆け寄る。
確かに、まだ新しい足跡があった。
「しまった……」
外壁に気を取られて、内壁からの侵入まで考えが及ばなかったのだ。
城内から内壁を超える必要はない。扉は合言葉なしでも内側から開くからだ。
そこが盲点だった。
ここに来るために、内壁を越えなければならない場合がたったひとつだけある。
「南側だ……」
アンティが聞かせてくれた、北門の門番、つまり老人に化けていたイスメから教わったという話は、次の通りだった。
城塞都市カナールの南側は、交易を行っている隣国からの商人たちを迎えるために、外壁の門がない。
攻撃される危険性がないために、内壁の門を守る兵も1人しかいないのだった。
そう考えると、南側から内壁を越えてくるのは難しいことではない。
「南側の門番が気にしているのは、門が破られるか破られないか……」
さっき音もなく外壁を越えてきた三人組のような連中なら、たったひとりであっても、門番の目を盗んで内壁を越えることなど造作もないだろう。
しかも、アンティによれば、大昔の魔術で作られた仕掛けは、門を無理に空けたり、内壁を越えて城内に侵入しようとしたときに「毒の息」を吐きだすのだという。
「つまり、城内に入らなければ、動かないわけだ……」
すると、侵入者はもう、アンティたちを狙っていると考えた方がよい。
だが、タイロンがそこに気付いたときは、既に遅かった。
「どこにいるんですの! タイロン! タイロン! タイロン!」
夜闇の向こうから、アンティの叫びが聞こえる。
それに応じて駆け戻ってみると、別に変わった様子はない。
さっきの姿勢で、身動きひとつしないドモスが倒れているばかりである。その傍らには、イスメとアンティが立ちつくしている。
アンティはうろたえたのを隠したいのか、顔を背ける。
だが、イスメには、目が合うか合わないうちに叱り飛ばされた。
「バカモノ! 遅い! 遅すぎる! おぬしに仕留めさせたのが間違いであった!」
あやつというのは、おそらく南側からの侵入者のことだろう。
イスメは気づいていたのだ。
タイロンは尋ね返した。
「どんな奴だった?」
イスメは鋭い目で睨み返すと、悔しげな声で呻いた。
「取り逃がしておいて、聞くでない……もともと、おぬしらの戦いではないか」
それは、魔族の娘ならば助けられたという意味だ。
すると、タイロンの代わりに侵入者を倒すつもりがあったということになる。
だが、そんなことを言われてまで、魔族の娘の手を借りたくはなかった。
タイロンは、すぐにドモスの傍らにしゃがみ込む。
戦友が身動きできなくなった理由は、すぐに分かった。
その首筋から、その原因となったものを引き抜く。
「毒針だ……喉元に」
さすがのタイロンも、うろたえないわけにはいかなかった。
毒が体内に入ったとなれば、ただの負傷とは違う。
さすがに、アンティも顔を強張らせて振り向いた。
「解毒は?」
それができるなら、こんなに慌ててはいない。
タイロンは、顔をしかめて答えた。
「小屋ごと吹き飛んだ」
そう言いながら見つめる先には、イスメがいる。
もう、人間だの魔族だのと言ってはいられなかった。
イスメはというと、首を横に振った。
解毒の魔法はおろか、薬もないという意味だ。
タイロンは、焦りをそのまま口にした。
「じゃあ、ドモスの毒は……」
いずれ、その身体中を巡り巡って、命を断つだろう。
だが、イスメは物も言わずにタイロンの身体を押しのけると、ドモスの傍らに座った。
「吸い出すしかない」
そういうなり、ドモスの喉元に口づけた。
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