第30話 炎と稲妻と

 外壁の向こうでは、タイロンが言うほどの手間はかからなかったようだった。

 月の傾いた夜空に、赤く光るものがいくつも上がる。

 あまりにも突然のことに、4人はそれらを呆然と眺めているよりほかはなかった。

 その赤い光は一瞬だけ宙に浮いていたかと思うと、すぐに壁を越えて飛び込んで来る。

 何が起こったのか、最初に気付いたのはタイロンだった。

「火炎弾だ!」

 それがどういうものなのか、説明している暇はなかった。

 別に、慌てて己を失っていたわけではない。

 飛んできたものが地面に落ちる前に、イスメが魔界の斧を振るったのだ。

 狙ったのは光というより、炎の塊といったほうがよい。

 その炎ひとつひとつに、稲妻の蛇が襲いかかる。

 何人もの兵士を跡形もなく消滅させてきたのを見れば、これほど頼もしい味方はいない。

 だが、タイロンは叫んだ。

「無駄だ!」

 斧から放たれた閃光は、的をことごとく射抜いた。

 火の玉はひとつ残らず、あっさりと四散する。

 だが、それらは消滅したわけではなかった。

 燃える細かい破片となって、あちらこちらに飛び散ったのである。

 アンティがしゃがんだまま、悲鳴を上げた。

「何ですの、これ!」

 その目の前に、タイロンは手を突き出して視界を塞ぐ。

 ゆらめく炎と、屍の山……それはまさに、地獄の光景であった。

 だが、アンティはすぐ正気を取り戻した。

 恐怖と緊張の連続で、胸元にしまうこともできなかった宝珠を高々と差し上げる。

 再び光が迸れば、目がくらんで戦うこともできなくなる。

 何よりも、その光の中では、魔法の一切が効果を示さなくなるのだった。

 だが、タイロンはそれさえも、手で遮った。

「粘り気のある油の塊に、火をつけただけのものだ」

 つまり、宝珠を出しても意味がないということである。

 アンティが開いた胸元に宝珠をしまう。

 それを見ないように目をそらすタイロンの目の前に、火の玉は次々に飛んでくる。

 火柱が上がると、火の付いた油の塊はあちこちに飛び散った。

 同じように手も足も出ないドモスは、横目でタイロンを眺めた。

「どうすんだよ」

 どうにもできないタイロンの返事は冷静だった。

「長くは燃えていない」

 その言葉通り、飛び散った炎はすぐに消えてしまう。

 ドモスの口調も緩んだ。

「何だ、それなら気にすることも……」

 だが、火の玉は飛んでくるたびに、炎を撒き散らす。

 そのひとつをかぶりそうになったアンティをかばって、タイロンは小屋の方へ退いた。

「数が増えると厄介だがな」

「それもっと早く言え」

 悪態をつくそばで、アンティが息を荒らげた。

「暑い……」

 服をもぞもぞやっているが、脱げはしない。

 これにはタイロンも顔を背けないわけにはいかなかった。

 炎とは別の意味で、頬が熱い。

 タイロンはというと、イスメをじっと見つめていた。

 斧を放り出すと、身体に密着した細身の鎧は、前と後ろにすっぱりと割れた。

 なんのためらいもなく炎の前に晒した裸身が、真っ赤にゆらめいている。

「何見てるんですの!」

「こんなときに、ドモス!」

 姫君と傭兵が、ほとんど同時に非難する。

 だが、返ってきたのは冷やかな答えだった。

「どこ見てんだ、お前らこそ」

 炎が飛び散るそばから、イスメは身体から外した鎧を前後の半分ずつ、その上にかぶせていく。

 しばらく押さえたのを地面から剥がすと、火は消えていた。 

 タイロンは唖然としてつぶやいた。

「何で?」

 数多の戦場で、火が放たれるのは数えきれないほど見てきた。

 多くは、さっき見た火矢だった。

 だが、風向きを見て火を草原に燃え広がらせることもある。

 丘の上の砦まで、麓で切り出した木を並べて炎の道を作ることもあった。

 ひどいときには、夜戦で民家に放火して明かりにする者もいた。

 だが、そのどれにあたっても、火を消したことは一度もない。

 さっきは見られて激怒した裸身を隠そうともせず、イスメは平然と答えた。

「魔界でも、地面から燃える水が湧き出ることはあった」

 ドモスはイスメから目を離すことはない。

 だが、その眼差しは真っすぐに、消えてゆく炎へと向けられていた。

 驚きと共に尋ねる。

「こうやって?」

「何でかは知らんがな」

 イスメの返事は不愛想だったが、ドモスの視線を気にした様子もない。

 だが、ドモスが服を脱ぎ捨てたときには、さすがに身体を強張らせた。

 つかつかと歩み寄る裸の男に、薄い胸を覆ってしゃがみ込む。

 その身体を押しのけるようにして、ドモスは脱いだ服を炎に叩きつけた。

「俺がやるから……タイロン!」

 裸の男は2人になった。

 アンティはというと、豊かな胸を押さえ込む衛兵の服をじっと見つめている。

 火を消すのに夢中になった男2人に背を向けたイスメは、脱ぎ捨てた鎧を指で差し招いた。

 その細い身体は再び、継ぎ目のない鎧で覆われる。

 魔法のかかった鎧を、アンティは半ば驚きの目で、半ば羨望の眼差しで眺めた。

 その目の前に、斧を杖にしたイスメは歩み寄る。

「もともと女の身ですることではない……それに」

 ドモスの叫びが、言葉を継いだ。

「ダメだ! 間に合わない!」

 次々に飛んでくる火の玉弾が地面で砕けるたびに、消した数よりも多くの炎が飛び散る。

 きりがなかった。

 だが、イスメはあっさりと答える。

「そんなことは分かっておった」

 眉ひとつ動かさない顔を、アンティが怪訝そうに見上げる。

 そこで何を言いたいか察したのは、タイロンだけだった。 

「小屋まで下がれ! そのくらいの時間は稼ぐ!」

 だが、そう言っている間にも炎は広がっていった。

 アンティもイスメも見張り小屋まで下がる。

 だが、火の玉の破片は2人の足元まで迫ってきた。

 甲高い悲鳴が上がる。

「小屋が燃える!」

 叫んで駆け出したのはアンティだった。

 向かう先を見て、イスメが鋭い声で制した。

「いかん!」

 アンティは聞こうともしない。

「いい格好はさせませんわ……あなたにばかり!」  

 声が震えているのは、恐怖のせいばかりではないようだった。

 タイロンがちらりと振り向くと、姫君の細い腕は、とても動かすことのできそうにないものを抱えている。

 昼からそこにあった、大きな金属の容器だ。

 それは、さっきまでイスメが浸かっていた湯がなみなみとたたえられている。

 美しい顔をしかめて、アンティは風呂釜をかまどから引き抜いた。

「やめろ、それだけは!」

 イスメが斧を投げ出して駆け寄ったときには、遅かった。

 冷めきった湯が、その顔と鎧を濡らす。

 それでも止まらないぬるま湯の流れは、飛び散った炎に向かっていった。

 タイロンは炎を叩きながら慌てふためいた。

「何やってる!」

 アンティの狙いに反して、炎は消えることがなかった。

 一気にこぼされた湯の流れに乗って、更に燃え広がっていく。

 見張り小屋の土壁が、炎のゆらめきを映し出した。

 だが、イスメの冷たい声は、毅然として命じた。

「小屋に入れ」

 炎は既に、小屋を取り巻いて燃え上がっている。

 その原因を作ったのを棚に上げて、アンティは非難の声を上げた。

「蒸し焼きになれっていうんですの!」

 だが、イスメが怒ることはない。

 低く微かな声で選択を迫るばかりだった。

「ここにいたら消し炭になるが、よいか」

 そこへ裸のまま、タイロンはドモスと共に駆け寄った。

 とても人の力で消せる炎ではないと悟ったからである。

 だが、他にどうしようという考えもない。

「どうするつもりだ」

 ドモスが背中を小突く。

「あまり責めるな。悪いのはお姫様だろ」

 痛いところを突かれたアンティが、キッと睨み返した。 

 その仲間割れを抑えるかのように、イスメは地の底から響いてくるような声で凄んだ。

「理屈は後だ。入るか、入らんのか!」

 火炎弾は次々に撃ち込まれているらしく、炎の勢いも増すばかりで、止むことを知らない。

 吹き付けてくる熱風に晒されて、3人の人間は1人の魔族の問いの前に黙り込んだ。

 タイロンから見ても、助かる見込みはない。、

 確かに石壁は燃えにくいが、扉は木だ。それに、屋根の梁などにも木材は使われている。

 日が移らないという保証はない。

 さらに、イスメは魔族なので、自分ひとりで助かる方法を心得ているのかもしれなかった。

 そもそも、主である魔王を暗殺し、故郷である魔界を滅ぼした当の本人たちを生かしておく理由はない。

 同じことを、おそらくはドモスもアンティも考えているはずだった。

 だが、タイロンは敢えて答えを出した。

「入ろう」

 小屋の戸を開けようとすると、アンティがイスメを睨みつけた。

 厳しい口調で、不信を露わにする。

「魔族を信じるんですの?」

 だが、その目の前には冷たく光る刃が突きつけられた。

 一瞬で抜き放たれたレイピアの切っ先だった。

 その剣の光沢よりも冷ややかに、ドモスが尋ねた。

「それともここで死ぬか?」

 追い立てられるようにして、アンティは小屋の中に入っていった。

 タイロンが促しても、ドモスは動こうとしなかった。

「イスメが……」

「おぬしらは中に隠れておれ」

 斧を手に、イスメはただ、炎を見つめて立ち尽くしている。

 燃え広がる炎の向こうに、火の玉は次々に打ち込まれていた。

 タイロンは戸を開けたまま、尋ねてみた。

「まさか、お前……」

 最初に炎を巻き散らしたのは、イスメの放った稲妻の蛇だった。

 ドモスも同じことを思い出したらしい。

「イスメのせいじゃない」

 だが、2人の言葉は、冷たく一蹴された。

「魔族は、おぬしが思うておるほど女々しくはない」

 それでも、タイロンは小屋に入れなかった。

 いかに魔族とはいえ、華奢な少女をひとりで炎の中に置き去りにはできない。

 だが、この灼熱の中でも凍てつくような声が一喝した。

「入れ! 疑いも気遣いも、魔族にはいらん!」

 再び、壁の向こうから飛んできた火の玉で、炎の柱が噴き上がる。

 それをきっかけに、タイロンは迷いを断った。

 子どものように愚図るドモスの腕を引いて、小屋の中に入る。

 戸を閉めると、汗にまみれたアンティが、端整な姿で椅子に座って待っていた。

「責任をお取りになろうというわけね? 生き残ってしまった魔界の方は」

 これが姫君の誇りなのだろう。

 だが、その一言で我に返ったドモスは、無言で掴みかかろうとする。

 それを押しとどめたタイロンは、代わりに、冷静な答えを一言で返した。

「ある意味では」

 そのときだった。

 轟音と共に、小屋が吹き飛んだ。

 タイロンはアンティをかばって床に伏せたが、ドモスは外の地面に放り出された。

 だが、そこにはもう、燃え盛る炎はない。

 そこには、冷たい月の光が差しているばかりだった。

 ふらふらと立ち上がったドモスは、その場にいない1人の名を呼んだ。

「イスメ……」

「さっきから気安く呼び捨てにしおって」

 斧を手に、軽やかに舞い降りた者がある。

 小柄な、鎧姿の少女だった。

 ドモスは目を見開いた目を潤ませたが、タイロンは茫然としているアンティを、何事もなかったかのように助け起こす。

 イスメは、それが不満なようだった。

「お前は驚かんな、人間」

「信じていたからな。その身の軽さと斧の威力と……肝の座ったところを」

 自信たっぷりに返す笑顔は、月の光のせいか、やはり冷たかった。 

「分かっていたろう? 火の玉はいずれ尽きると」

「あんな凄まじいものが、そんなに持ち歩けるわけがない」

 魔族の娘と傭兵のやりとりを、姫君と元騎士見習いは顔を見合わせながら聞いていた。

 だが、やがてアンティが苛立たしげに口を開いた。

「何が起こったんですの? 分かりやすくおっしゃい、タイロン!」

「小屋の中にいたろう? 僕は……」

 そこでイスメをちらっと見やると、簡潔な答えが返ってきた。

「屋根に跳び上がって、燃えるものを地面ごと吹き飛ばした」

 長柄の斧をひと振りしてみせる。

 そこからは、荒れ狂う稲妻の蛇が放たれたのであろう。

 だが、そのためには渾身の力を振るわなければならなかったに違いない。

 長い髪が揺らめいて、斧が地面に落ちる。

 気を失って倒れるイスメを、駆け寄ったドモスがしっかりと抱き留めた。

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