第26話 矢音の最後通告

 そのとき、ぶうんという蜂の羽音にも似た唸り声が聞こえた。

 だが、その音は大きさに比べて遠すぎる。

 虫ではない。矢だ。唸り紙か何かで、音がするようになっているのだろう。

 そう察しをつけたところで、タイロンの腕の中でアンティが目を覚ました。

「ん……タイロン?」

 気を失っていたというより、寝起きに近い顔できょとんと見つめてくる。

 その可憐さに、つい気が緩んだ。

「無事でよかった……」

 ほっとしてつぶやくと、アンティがもとの張りつめた表情で叫ぶ。

「あれ!」

 さっき想像したとおりの矢が、頭上に降ってきていた。

 毒蜂のような勢いで。

 姫君を抱えてひざまずいたまま、タイロンはそれを偃月刀の一閃で斬って落とす。

 イスメが構えた斧の周りを、幾筋もの稲妻の蛇が這う。

 レイピアを手にしたドモスが壁の上に向かって身構えた。

 タイロンが静かに告げる。

「落ち着け。しばらく矢は来ない」

 その手には、紙のくくりつけられた矢の前半分が握られている。

 足元には、唸り紙のついた矢羽根が落ちていた。

 姿を見せずに急な用件を伝えるときに使う、いわゆる矢文だった。

 ドモスが安堵の息と共に尋ねる。

「何て言ってきた?」

 タイロンが広げた手紙をアンティが覗きこんで、目を見開いた。

 文面を読んでもいないイスメが、その内容を冷ややかに推し量ってみせる。

「こういうときの矢文は、降伏勧告と相場が決まっておる」

 ドモスはレイピアを鞘に納めた。

 肩をすくめて同調する。

「多勢に無勢とはこのことだからな」

 だが、タイロンはある種の希望を込めて答えた。

 そこには、根拠を持った落ち着きがあった。

「呼びかけられているのは降伏じゃない。」

 イスメは怪訝そうにタイロンを眺めた。

 ドモスが尋ねる。

「じゃあ投降か? どっちもそう違わんだろう」

 タイロンの代わりに、アンティが答えた。

 その口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。

「寝返りですわ」

 タイロンはゆっくりと頷いた。

 アンティを除く2人を見つめて、矢文を読み上げる。

「城壁を守る諸君の勇戦に敬意を表する……」

 その内容は、次のとおりだった。


 矢をいかに射かけようとも、その数も位置も悟らせることがない。

 密偵を送り込んでも、1人をさらうことも叶わなかった。

 これがたった3人で成し遂げられたとは、信じがたい。

 だが、我々は諸君が撃って出られないことも知っている。

 我々は何日でも持ちこたえられるが、諸君はどうか。

 そこでよく考えていただきたい。

 魔王が去り、荒野の彼方の魔界が滅んで人の世が来た。

 もともと誰のものでもない荒野は、人の手で開かれるのを待っている。

 今こそ、名もない者たちが立ち上がる時だ。

 門を開け。諸君の身の安全は保証する。

 共に戦うなら、諸君の知略と技を貸してほしい。

 カナール占領後は、働きに応じた地位と報酬を約束しよう。

 返答は、外門の開放を以て示してほしい。


「さて、どうしたもんかな」

 騎士見習いが、真っ先に口を開いた。

 どっかりとその場に座り込む。

 魔族の娘が鼻で笑った。

「どうする? お前たち。ずいぶんと高く買われたものだが」

 タイロンは答えない。

 最初から、応じる気はなかった。

 アンティはうつむいて、何か考えている。

 ドモスはというと、いつになく真剣な顔で魔族の娘イスメに尋ねる。

「魔王の仇を取りたくないか?」

 イスメは意に介するふうもない。

 冷たい目で、3人をさっと見渡す。

「妾がその気になれば、お前たちなど皆殺しにできる」

 そんなことは分かっていた。

 タイロンは、いきり立つアンティを手で遮る。

 ドモスは、さらに問い続けた。

「俺たちが死んだあとはどうするんだ?」

「まとめて相手にしてやる」

 イスメの言葉は、タイロンから見てもいささか冷静を欠いていた。

 ドモスも、それは察したらいい。

 口元を歪めて、笑った。

「生き残る自信、ないんじゃないの?」

 イスメは言葉に詰まった。

 だが、ドモスを見据えると、きっぱりと言い切った。

「魔族の誇りの問題だ」

 それは強がりのようでもあったし、死への覚悟のようでもあった。

 だが、そんな悲壮な戦いは、傭兵タイロンの望むところではない。

「カナールに知らせよう、それがいちばん確実だ」

「私はイヤ」

 アンティは即答した。

 唇を真一文字に結び、何を言われても一切聞かないという顔をしている。

 それでもタイロンは説得した。

「たぶん、向こうは軍隊じゃない、流れ者の寄せ集めだ。正規軍が出れば勝てる」

 アンティは顔を背ける。

 その言葉は皮肉たっぷりだった。

「で、タイロンは報酬貰ってドモスは騎士叙勲、イスメは縛り首か火炙りってことね」

 アンティの横顔は、こんなときでも端整だった。

 嫌われるのを承知で、タイロンはアンティにしかできないことを告げた。

「イスメは君が許してやれる」

 王国を捨てようとしている姫君は、怒りを込めて向き直った。

 だが、その目は今にも泣きだしそうに潤んでいた。

「できると思います? 城にもどったら、私に自由なんてありませんわ」

 それでもタイロンは怯むところがない。

 厳しい声で言い切る。

「君は王国の後継者だ」

 アンティは唇を噛みしめた。

 震える声で言い返す。

「後継者を生む道具ですわ、正確に言えば」

 今度はタイロンが言葉に詰まった。

 男では否定できない、あまりに重い事実だった。

 もっと重い、そして確実な事実を突きつけるよりほかはない。

「このまま抵抗したって、4人じゃいずれ全滅だ」

 2人の議論を黙って聞いていたイスメがため息をついた。

 嘲笑混じりに、タイロンをたしなめる。

「そんなことは子どもでも分かる。分からぬか、この姫君も誇りを守りたいのが」

 意外な一言だった。

 この魔界の娘は、気位の高い人間の姫君を理解していた。

 その辺りが、ドモスには分かっていない。

「だったら、寝返ろうぜ。死なないで済むし、姫様も溜飲が下がるし、イスメも恨みが張らせる」

 イスメは別の意味で、深々とため息をついた。

「そう来るか……」

 一瞬の沈黙が生まれた。

 それまでの間、アンティはうつむいたまま一言もしゃべらなかった。

 だが、そこで一言だけ、ポツリと漏らす。

「私は、こんな国、滅んでもいい」

 夜闇の中に、ぴしゃりという音が響き渡った。

 タイロンのアンティの頬を打ったのだ。

 王国の姫君はその跡を手で覆って、キッと顔を上げた。

「無礼な!」

 タイロンはそれを見下ろすばかりだった。

 やはり、ぽつりと答える。

「国が滅んだら、そんなの関係ない」

 そこでイスメが高らかに笑った。

「その覚悟はなかったようだな、王国の姫」

 アンティの怒りのまなざしは、そちらへ向けられた。

「あなたには分からないわ」

 返す言葉は、それまでとは響きが違った。

 温かく、そして厳しい。

「魔界がなくなっても、妾は魔族。だが、王国がなくなったら、おぬしはただの人でしかない」

 生き方の根本をどこに置くかが問われていた。

 だが、ドモスにはそれも理解できていないらしい。

「報酬と地位は保証するって」

 イスメは面倒臭そうに説いて聞かせた。

 理非が分からない者には、損得勘定を説くしかない。

「逆らわない限りはな。寝返ってしまえば、向こうが主でおぬしが従となる」

 そこでドモスの態度が変わった。

 レイピアの柄をさすりながら尋ねる。

「勝てるのか?」

 タイロンは一同を見渡す。

 一息ついて、ゆっくりと答えた。

「手はある……」

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