第24話 壁の向こうから乱痴気騒ぎの歌が聞こえる

 内壁の向こうからは、助けの代わりに陽気な歌声が聞こえてきた。


  王様万歳! 姫様お帰りなさいませ!

  祈り奉らん弥栄いやさか

  世は美しく平らかに

  こともなきなり末も久しく


アンティはうんざりした顔で夜空を仰いだ。さっきまで絶え間なく聞こえていた矢の音の代わりに、風だけが月明りの中で甲高い唸り声を上げている。

 それを横目で見やったイスメが、いかにも気づかわしげに促した。

「帰ってもよいのだぞ、穏やかな日々が恋しかろう」

 嫌味たっぷりの遠回しな挑発に、アンティも慇懃無礼な口調で返した。

「帰るべきでないところに帰らねばならぬ者の気持ちは分からないでしょうね、帰るところのない者には」

 イスメは無言で斧を手に取った。刃の周りを稲妻の蛇が這い回ると、魔界の娘の傍らには王国の騎士見習いが立った。

 だが、レイピアを構えるドモスの顔をは眩いばかりの光に照らされた。アンティが、胸元から宝珠を取り出したのだ。

「無駄なことはよしましょう、お互いに」

 ドモスは相手にされていない。

 イスメが斧を構えて冷笑した。

「無駄なことをしているのはどっちだ?」

 斧の魔力が失われても、武器としての威力はそのままである。

 少女2人のいさかいの不毛さに閉口したタイロンは、いい加減面倒臭くなってきたのを我慢しながら間に割って入った。

「君はここのお姫様なんだ、それがどれだけ嫌でも」

 タイロンとしては、なだめて自重を求めたつもりである。

 イスメのほうを止めるということは、再び刃を交えるということだ。それはドモスとも戦うことを意味している。

 外壁の向こうでは、正体の分からない敵が次の策を練っていることだろう。仲間割れをしている場合ではなかった。

 沈黙の中、内壁の奥からは、鳴り物と共に別の歌が聞こえてくる。


  カーナルよい国 万々歳

  この世の楽園  理想郷

  王家に姫の おわすれば

  我らの栄え かぎりなし


「いい加減にしてくださいませんこと!」

 突然、悲鳴にも似た声を上げて喚き散らしたのはアンティだった。

 不意を突かれたタイロンは、ぽかんと口を開けたタイロンと共に、その癇癪を呆然と見つめるよりほかはなかった。

 ただ、顔を背けたイスメだけが口元に憐憫の冷たい笑みを浮かべている。

 その顔を睨みつけると、アンティはタイロンの背中に、くぐもった声で告げた。

「耐えられません……あの狂乱ぶりには」

 城内の騒ぎは、なおも続く。


  姫様帰らば その次は

  何処の国から お婿様

  十月十日で お世継ぎの

  お生まれなれば 万々歳


 その下卑た声に耐えかねたタイロンが振り返ると、果たしてアンティは目を固く閉じて、首をせわしなく横に振っていた。

 年若い娘としても、聞くに堪えない歌であったろう。だが、そこは立場が立場である。

 さらに、壁1つ隔てただけで、たった4人で外敵と向かい合っているのだった。

 今は、こらえてもらわなければならなかった。

「アンティが帰れば、これも収まる」

 確証はなかった。というより、口から出まかせである。なによりもまず、アンティを連れて入城して、正規の軍隊を出してもらわなくてはならなかった。

 もちろん、アンティは口を堅く閉ざして、返事もしない。

 聞こえたのは、後ろに控えた2人のうち一方の、微かな嘲笑の息遣いだった。

 ちらと振り向いて眺めやってみると、イスメが眉をひそめている。

 それに気付いているのかいないのか、アンティは低い声でつぶやいた。

「私が帰っても、城内は変わりませんわ……あの者たちが自ら変わらない限り」

 その口調は、姫君のものというよりも、タイロンの知っている他の誰かに似ていた。 

 何者が何を口にしたときのものか思い出すより早く、イスメが乾いた声で甲高く笑った。

「心にもない大口を叩くことよ……魔王にでも教わってきたか」

「ええ、そうですわ」

 間髪入れずに言い返したアンティに、イスメはその形相を変えた。

 さっきまでのあどけない顔つきとは似ても似つかない、地獄の鬼もかくやと思われるような顔つきである。

 タイロンが偃月刀を構えて向き直ると、ドモスがレイピアを向けた。

 だが、その傍らの斧がタイロンに向けて振り下ろされることはなかった。

 代わりに投げつけられたのは、いささか力の入り過ぎた嘲笑であった。

「宝珠も手離せぬのに、何を言うか! 口先ばかりの受け売りであろう、本当は帰りたいのではないか? その身に危ういことは何一つとしてない、城壁の向こうへ」

 その間もタイロンは偃月刀の切っ先をイスメに向けたまま、そらすことはなかった。

 ドモスもまた、いつでもそれを迎え撃てる姿勢で身構えている。

 だが、思わぬ不意打ちがその緊張を破った。

 背中を押されたタイロンが無様にも、いきなり前へつんのめったのである。

「アンティ!」

 呼び止められても、応じることはない。胸元から微かに漏れる宝珠の光は、月明りでも解けない夜闇の中へと遠ざかっていく。

 それをただ見送るばかりのタイロンを、ドモスが叱り飛ばした。

「なにしてる! あっちは門だ!」

 そう言いながら自分はイスメから離れようとはしない。

 我に返ったタイロンだけが、アンティの後を慌てて追っていった。

「駄目だよ!」

 しずしずとお姫様歩きをしている割には妙に足が速い。追いついたときにはもう、外壁の扉に手を掛けていた。

 外側からではテコでも動かないのに、内側から押せば、子供でも簡単に開けられるくらい軽い。

 ついこの前まで共にさまよっていた荒野の風が、甲高い唸り声を上げて吹き付けてくる。

 外の連中が扉の隙間に気づけば、そこをこじ開けて一気に攻め込んでくるだろう。

「やめろよ!」

 相手が女で、しかも姫君であることも忘れて羽交い絞めに懸かる。

 風の音がぴたりと止んで、温かい身体と柔らかい胸の感触が肌を痺れさせる。

 足もとをふらつかせてもたれかかる背中の重みを支えながら、タイロンはつぶやいた。

「行くなよ……」

 本当は、アンティを抱きしめて叫びたかった。

 だが、それはできない。これは、あくまでも傭兵としての仕事だった。

 無事に王宮まで送り届けて初めて、タイロンの身は自由になる。

 もっとも、そのときはもう遅い。アンティは、声をかけることもできない相手になっているはずだった。

 いや、今、このときでさえも。

「離しなさい!」 

 タイロンの頬が高らかに鳴る。

 さっきまで背後から絡めとっていたはずのしなやかな腕から、振り向きざまの平手打ちが放たれたのだ。

 タイロンが力を込めていれば、振りほどかれることもなかったであろう。ひとえに、一瞬の心の迷いのせいであった。

 だが、自ら壁の外の敵を引き入れるよりはマシである。

 ひりひりと痛む頬を押さえながら、タイロンは安堵の息と共にアンティを諭した。

「危ない所だったんだよ」

「それでも構いませんわ」

 意地の強い姫君が、鋭い目つきで見上げていた。

 アンティに限らず、こういう相手には何を言ってもムダである。それは、タイロンも長い傭兵生活でよく分かっていた。

 年齢も出身地も、ときとして性別までも様々な手合いが集まるのが傭兵部隊だ。言葉さえも通じないこともある。

 そんなときは、分かり合えるまで殴り合いをするしかない。

 だが、目の前の相手は傭兵ではなかった。

「自分から呼び込んでどうするのさ、外の連中」

「どうにもしません」

 そう言われると余計に、アンティの胸元に目が行く。

 ただでさえ目立つのに、宝珠のせいで余計に膨らんで見える。

「アンティだって、どんな目に遭わされるか……」

 いやらしい想像が頭の中をよぎった。

 戦争が戦場で終わらないとき、「それ」はしばしば起こる。

 だが、目の前にいるのは、「それ」とは無縁の世界に生きてきた穢れなき乙女だ。

 いや、これからも……。

 タイロンは話をそらそうとして壁の上を見上げる。ここを越えられない以上、連中は必ず扉を開けて侵入しようとするはずだった。 

 だが、口にすまいとした「それ」が何であるかは、アンティにも察しがついたようだった。 

「いずれにせよ……恥を抱えて生きていたくはありません」

 タイロンはといえば、声を殺したその一言が意味することを量りかねていた。

 分からないのではない。察する余裕がなかったのだ。

 何かの影が、壁の上で動いた気がする。鳥や蝙蝠の類ではない。もっと大きい、人型の何かだ。

 だが、少なくとも人ではない。壁に登れるくらいなら、とっくに乗り越えていただろう。

 不安を振り払おうとして、タイロンは再びアンティの顔を見下ろす。

 月の光の下ではあったが、その頬は赤らんでいるようにも思われた。

「あ……今、何て? アンティ」

「こんなことが、2度言えるわけはありません」

 返事をするなりタイロンに背中を向けて、再び城門に手を伸ばす。

 身体の操よりも、魂の誇りを取るということなのだろう。

 内壁の向こうの狂乱に染まることは、アンティにとって、そこまで屈辱的なことなのだった。

 だが、その白い指が厳めしい門扉に触れることはなかった。

「生きろ。自分を粗末にするな」」

 城門の前に、タイロンが立ちはだかる。

 だが、そのときにはもう、アンティの姿はなかった。

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