第18話 姫の怒りと青い炎

 月に向かって、青く華奢な影が、湯の中から飛沫を煌かせて舞い上がった。その姿を見上げたまま動かないドモスの頭上で、髪を短く刈った少年のような身体を丸める。

 だが、その瞬間、タイロンはその幼い顔が悪鬼の形相に歪んでいるのを見た。

「ダメだ! やっぱり動け、ドモス!」

 動くなと言ったり動けと言ったり忙しいが、どちらにせよ、幼女に心惹かれる騎士見習いは人の話など聞いてはいない。

 ドモスがじっと見つめる先で宙を舞う小柄な裸身が、頭からくるりと回転する。月の光に青く光っていた肌は、しなやかな身体の線を描き出す薄い鎧に覆われた。

 高々と掲げた手には、空中から長柄の戦斧が現れる。それが振り下ろされる先にあるのは、ドモスの脳天だ。

 タイロンは偃月刀を手に、地を這うような低い姿勢で叫びながら、大股に駆け寄った。

「逃げろ!」

 もちろん、武装した幼女をうっとりと眺めるドモスが応じるはずもない。

 頭蓋を斧で叩き割られそうなところを、背中からタイロンが突きのける。その身を翻して払った刃が、冷たく光る鉄の塊を受け流した。

 向き直った先には、斧を片手に身構える幼女がいる。その眼差しは、頭上から降り注ぐ月の光にも似て冷たく、その斧にも似て険しい。

 タイロンもまた、偃月刀を身体の脇に低く垂らして腰を落とした。幼女をまっすぐに見据えて、鋭く、しかし深く息をつく。

 対峙する2人が睨み合う間、その場からは音という音が消え失せた。

 だが、ある一瞬。

 長柄の斧が振り上げられたのと、タイロンが地面を蹴ったのとは同時だった。

 武器が大きい分、打ち込みに入るまでの動作は手間がかかる。それに比べて、タイロンは相手の間合いに飛び込み、再び偃月刀を横薙ぎにするだけでいい。

 しかも、片や年端も行かぬどころか突いただけで壊れそうな幼女、片や若いながらも百戦錬磨の傭兵である。

 勝負は、最初から見えて……。

「な? あ?」

 ……いなかった。

 とっさには言葉が出ないほど、斧は速かったのだった。

 それでも偃月刀を身体の側面に立てて、横薙ぎの一撃を防いだのは経験のなせる業であったろう。

 ただし、身体に傷こそつかなかったものの、その衝撃は侮れないものがあった。

 吹き飛ばされたタイロンは、何度となく地面から跳ね返されながらも、凄まじい速さで身体を転がしていく。

 斧を叩きつけられた反動をそうやって殺すと、残った勢いできれいに立ち上がった。

 偃月刀をだらりと下げたその傍らには、いつの間にかアンティがいる。タイロンは片腕を伸ばして、その身体を押しのけた。

「退くんだ。君も危ない」

 言っているそばから、2人の目前に鎧姿の細い身体が姿を現す。

 木でも切り倒そうとするかのように、斧を横向きに携えると、しなやかな腰を大きく捻る。

 いかに攻撃が速くとも、そこには必ず隙ができる。

 タイロンは、それを見逃さなかった。偃月刀を斜めに跳ね上げながら、再び姿勢を低くして斬り込む。

 振り抜かれる斧の刃と、偃月刀の刃が火花を散らす。

 タイロンは再び、地面で軽いステップを踏むと、2、3歩跳躍して後ずさった。

 とりあえず、長柄の斧から間合いを取るためである。

 だが、その背後で行動を起こしたものがあった。

「よくも乙女の純情を!」

 何の脈絡もない言葉が発されるのと、青い光の閃きが地面を舐めるのと、タイロンがそこに伏せたのはほとんど同時だった。

 再び戻ってきた夜の暗がりの中で身体を起こすと、一条の炎が頭上をかすめていく。

 首をすくめながらその先を目で追うと、旋風を思わせる斧の一振りに吹き散らされているところだった。

 アンティが、胸元に隠していた燃える魔剣を振るったのだ。

「やめろ!」

 立ち止まって身体を起こしたタイロンのすぐ目の前には、青い炎を放つ魔界の刃が迫っていた。

 その向こうではアンティの目が、頭上からの月光よりもなお明るく輝いている。

 確かに幼女に勝るとも劣らぬ悪鬼の形相をしてはいるが、直に闘ってあの斧の一撃をかわせるはずもない。

 ましてや、その手で短剣の刃を突き立てるとなると……。

「無理だ、アンティ!」

 制止の声が聞こえているのかいないのか、逆手に持った魔剣の刃が、高々と振り上げられる。

 いつものタイロンなら、かわしたり、受けたりということは造作もなかったろう。

 だが、ここは1対1の闘技場ではない。

 目の前の相手だけを見ていればいいというわけにはいかないのだった。

 すぐ後ろには、斧を手にした幼女が迫っていた。

「そう、魔界の者を魔界の武器で傷つけられるわけがない」

 たしかに幼いが、しかしどこか貫禄のある声が告げる。

 その落ち着いた口調は、まさに、あの門番の老人のものだった。

 偃月刀を振るうタイロンを、素手で投げ飛ばしたあの老人の……。

 武器を手にしたその強敵に向き直ると、タイロンは魔剣の炎が放たれる前にアンティを押しのけた。

「きゃっ!」

 女の子女の子した叫びに振り向くと、タイロンの手は大きなふくらみを柔らかく、しかし鷲掴みにしていた。

 燃える短剣を持ったまま、アンティは両腕で胸をかばう。いかに激情で己を失っていようと、女としての本能は働くものらしい。

 この非常時にも関わらず、タイロンは身をすくめて手を引っ込めた。

「ごめん……」

 身体を引いたアンティの胸で、丸いものが揺れる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ……。

 だが、タイロンはもう、そんなものには目もくれない。

 とりあえず、姫君を血みどろの戦いから遠ざけるという目的は達せられていた。

 袈裟懸けに振り下ろされる斧を、偃月刀で正面から受け止める。

「お前の相手は僕だ!」

「言うたな、小僧!」

 その物言いは、確かにあの門番のものだった。

 そうなれば余計に、後に引くことは危険である。

 幼女の小柄な身体が叩きつけてくる斧の衝撃は、殺すことなく、両足を踏みしめて耐えるしかない。

 次の一撃が来る前に反撃するだけの間が空いても、タイロンには反撃することができなかった。

 我に返ったアンティが叫ぶ。

「タイロン!」

 だが、それは身を挺して姫をかばう若者の身を案じてのことではない。

「私の邪魔は許しません!」

「そっちだろ、邪魔してんのは!」

 返事の隙を狙うかのように、横からの斧が襲いかかる。

 偃月刀を立てて受け止めたタイロンに、姫君は身勝手な警告を発した。

「どかなければ、その女ごと焼き払います!」

「勝手にしろ!」

 そう言いながらも、タイロンは武器を引いた相手が構える間を盗んで、一歩前へ出た。

 ふらつく足を強引に踏み込み、大上段に振りかぶった偃月刀を真っ向から叩きつける。

 捨て身の攻撃を、鎧姿の幼女は予測してはいなかったらしい。

 頭の上から降ってくる刃を、かざした斧の柄で受け止めるのがやっとだった。

 タイロンは嵩にかかって、二度、三度と偃月刀を縦横に叩きつける。

 さっきまで攻めにかかっていたのが受けに回ると、斧の長い柄は邪魔になるらしい。

 繰り出される斬撃を止めるたびに、幼い顔が悔しげに歪む。

 戦いの場は、若き傭兵の独壇場となった。 

 それでも、アンティは制裁を諦めることはない。

「私の捧げた思いを踏みにじった者は、許さない!」

 魔剣の放つ炎がタイロンもろとも幼女を焼き尽くしにかかる。

 それは、まるで誇り高き姫君の怒りそのものが形をとったかのようであった。

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