第10話 姫君の心の底に隠された悲しみ

「はっきり言うよ、アンティ」

 タイロンも、アンティを真剣な眼で見据えた。

「あの爺さんは諦めろ」

「何の話ですの?」

 そう言いながらそっぽを向いた姫君は、椅子の上の身体を真っ直ぐに立てている。

 その手は、斜めにそろえた脚のてっぺんで、膝の上にきちんと置かれている。

 王宮で育ったわけではないはずだが、さらわれた後も、立ち居振る舞いをよほど厳しくしつけられたのだろう。

 だが、たとえそうでも、ここはタイロンとしても譲れないところであった。

「魔界はどうだったか知らないけど、ここは僕たちの世界なんだ」

 世界。

 この言葉は、賞金稼ぎや傭兵たちの間で使われてはいなかった。タイロンがこの言葉を聞いて育ったのは、父のもとだった。

 様々な国を渡り歩き、生き方や考え方の違う人々と関わってきた父は、人の見ているものや育ってきた場所を、そう呼ぶようになっていたのであろう。

 アンティもまた、この言葉を知っていたようだった。

「それは……私の、ということですか?」

 その裏には、タイロンとは考え方も生き方も違う、という反発がある。

 確かにそれは正しいかもしれないが、ここもタイロンが退いてはいけない一線であった。

「君は人間で、この城塞都市カナールを継ぐお姫様なんだよ!」

 それは、動かせない事実である。

 だが、アンティには最後の切り札があった。

「帰りたくないって言ったでしょう?」

 これを本人に言われたら最後、全ての理屈は意味を失う。

 説得にあたっているタイロンのほうが、最終的に人を動かすのは感情であるという不毛な真理を思い知らされる羽目になったわけである。

 放浪の傭兵も人間である以上、その感情というものがないわけがなかった。

「そんなワガママが通ると思ってるのか?」

 机を叩いて威嚇すると、アンティは得たりという顔をしてタイロンを見つめた。

 どうやら、相手を興奮させるのが狙いだったらしい。むしろアンティのほうが声を抑えて問い返した。

「あなたの都合でしょう?」

「そうだよ、僕の都合だよ!」

 完全に姫君の術中にはまったことへの苛立ちを顔に出して、タイロンは開き直った。

 その言葉尻を捉えて、アンティはこれまでの説得を全てコケにしてみせる。

「何よ偉そうに、結局、お金が欲しいだけじゃない」

「ああ、そうさ。僕はそうやって生きてきたからね」

 もはや、売り言葉に買い言葉であった。

 アンティは最後通牒をつきつける。

「それならもう、構わないで」

 城内へ戻るよう説き伏せることは不可能かとも思われた。

 タイロンはヤケクソ交じりの、子どものような理屈をこね始めた。

「じゃあ、代わりに報酬、払ってくれるの?」

「できるわ」

 同じくらい幼稚な答えが返ってくる。タイロンは眉を高々と上げて、いつになく甲高い声で挑発した。

「どうやったら?」

「だって私は……」

 尊大な態度で見下しにかかったアンティは、そこで何かに気付いたように口をつぐんだ。

 タイロンは元の静かな口調で、姫君が気づいたことを口にしてみせた。

「城内に入らなければ、君はただの人だよ」

「違うわ、私は……」

 どれだけ打ち消しても、カナールの姫であることを前提に話していたことはごまかせない。 

 タイロンは、再びアンティを見据えて、低い声で重々しく告げた。

「元の君に、戻るべきだ」

 だが、今度はアンティのほうが開き直った。

「あなたに何が分かるっていうの?」

「分かるさ。僕は、ぼくであることを自分で選んだ」

 タイロンは、もはや動じることがなかった。

 我が子が傭兵になることも、賞金稼ぎをすることも、父は望んでいなかったのである。

 この少年は、自分の生き方のもとに魔王までも倒して、囚われの姫君を連れて帰還したのだった。

 その姫君は、生まれついた身分の他には何も持っていない。 

 それにもかかわらず、アンティはタイロンに気後れすることもなく、姫君としての気位だけを見せて食ってかかった。

「私だって……」

「じゃあ、君は何者?」

 机に中肘をついて気だるげに尋ねる少年は、勝者の余裕に満ちていた。

 対する姫君は、口を固く引き結んで、微かに身体を震わせていた。膝の上では、そのしなやかな指が拳となって握りしめられている。

 ただ、その脚だけが端整に揃えられていた。

 やがて、アンティのつややかな唇から漏れた言葉があった。

「魔界の姫……魔剣の継承者」

 微かなつぶやきと共に、衛兵の服の襟元が押し広げられた。息を呑む少年の目の前に、豊かな胸元が露わになる。

 その深い谷間から引き抜かれた短剣が青い炎を放って、タイロンの喉元に突きつけられた。

 だが、この歴戦の若き傭兵は自ら椅子ごと後ろに倒れたかと思うと、床の上でころりと転げて立ち上がった。

「そんなものを持ち込んでは……」

 言葉の響きは穏やかだったが、その手には偃月刀が抜き放たれている。

 胸元に青い炎の短剣を構えて対峙するアンティの目から、一筋の涙がこぼれた。

「懐剣を携えることも許されないんですか? 私は」

 震える声に、厳しく叱る声が応えた。 

「カナールの姫なんだよ、君は!」

「城内に入らねばよいのでしょう?」

 タイロンがさっき口にした理屈を逆手に取ったアンティは、口元に哀しい嘲笑を浮かべて言った。

「私はこの剣を手放しません。あの方からも離れません」

「どうして……」

 返す言葉もなく、タイロンはただ茫然と涙の跡をを見つめるしかなかった。

 アンティは、刃を青く燃やす短剣を抱きしめながら、涙声で告げた。  

「これは、私が愛する人の形見です……あなたと、あの騎士見習いの手にかかった!」

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