第8話 老いた衛兵が男の貫禄を見せる
「アンティ……アンティフォーネルカディート姫に、城へ帰るようにおっしゃっていただけませんか?」
結局、タイロンは用件を告げることに逃げ道を見出すしかなかった。
だが、老人はそれを見透かしたかのように、答えをはぐらかした。
「何でワシがそんなことをせねばならん?」
タイロンにしてにみれば、それは追い討ちにも等しい。だが、これまで築いてきた信用にかけて、言わなければならないことであった。
「姫は……あなたを慕っています。だから……」
その先は、言葉にならなかった。胸にこみあげてきた思いは、そうそう言葉に置き換えられるようなものではなかった。
更に、口にできるだけの冷静さを取り戻そうにも、その前に老人は膝を打って高笑いを始めたのである。
「とうとう、それを言い出したか!」
「笑わないでください!」
つい激昂したタイロンに、老人はちらりと振り向いた。
「若いのう、おぬし」
「ええ、若いです。いけませんか?」
開き直るしかないのを見て、老人はますます大笑いした。
「いけないのではない。仕方がないことなのだよ、それは」
「僕は……真剣なんです」
それが何についての話なのかは、口に出せなかった。これも取りようによっては、依頼された任務をやり遂げることではなく、アンティに恋焦がれているという意味にもなる。
タイロンをからかうかのように、老人は振り向くのをやめると恋の意味のほうを取ってみせた。
「確かに、心を奪われても無理はなかろうて……男ならな」
最後の一言で声が低められたのは、言葉の響きをさらに意味深にした。タイロンは息を呑んで、この老人の背中を見つめる。そこにはもはや、城塞都市カナールの行く末に着いて語ったときのような落ち着いた様子はなかった。
「そういうんじゃ……ありません」
ようやくそれだけ言いはしたが、老人はアンティについての話をやめなかった。
「姿かたちの美しさだけではない。チェンジリングで魔界にさらわれたというのに、王家の人間にふさわしい知性と気品がある。恐らく、そこそこの身分を持つ者に育てられたのだろう」
「そういうことは……よく分かりません。気は強いし、ワガママだし、帰りの道中もドモスと喧嘩ばっかりして大変だったんです」
必死でアンティの悪口を言うタイロンに、老人はまた声を抑えて笑った。
「自分を王家の姫として、おぬしらを見下したりはしなかったろう?」
「それは……」
ドモスとの喧嘩の仕方は、どちらかというと市井の女の子に近いものがある。いや、口論の最中に事情を知らない人がやってきたら、姫君だとはとても思うまい。いや、そうだと言っても誰も信じはしないだろう。
更に、老人はアンティの内心にまでも踏み込んでいった。
「あれは、誇り高い娘だ。人生のどん底に叩き落とされても、自力で這い上がる力を持っておる」
「自力でって言ってもせいぜい手料理作るくらいで、しかも夕べは僕らに洗濯をさせましたが……」
タイロンが口を挟んだが、老人はさらりと受け流した。
「自分のものくらい、自分で洗うがよい」
「とにかく僕は……!」
そこでまた、タイロンは言葉に迷った。アンティを城へ帰したいと言ってみたり、散々にけなしてみたり、結局のところ、何の話だったのか分からなくなってしまっている。
老人は、呆れたように尋ねた。
「おぬしはあの娘を、どうしたいのだ?」
「もちろん……」
帰す、という言葉が出てこなかった。そこで老人は畳みかける。
「どうする気もないなら、ワシはあの娘をここに留めおく。老いた身で、若く高貴な美女と暮らすのも悪くはない」
明らかに、からかわれていた。タイロンは拳を握りしめて、その場にただ立ち尽くすしかなかった。
無言のうちに、ただ時間だけが流れていく。街中から聞こえる鳴り物の音だけが、空しく響いていた。
やがて、タイロンは口を開いた。
「アンティは……姫は、帰るべきです」
「なぜ?」
老人は、あの低い声で尋ねた。タイロンは、震える声で答えた。
「壁の向こうの人たちには、新しい時代が必要なんです、多分。本当の……。姫が、あなたのおっしゃるような人なら、あの人たちには必要なんだと思います」
考えに考えた上で、まだはっきりしていない自分の気持ちとどうにか折り合いをつけて出した答えだったが、老人はあっさりと斬って捨てた。
「それも、あの娘が自ら選ばねば意味がない。新しい時代というやつが来るというなら、なおさらだな」
「それは……」
タイロンが答えに窮すると、老人は話を変えた。
「さて、そろそろ姫君が朝飯を作る頃ではないか」
椅子から立ち上がった老人が振り向く前に、タイロンはその正面へと回り込んだ。
「ちょっと待ってください」
「なかなかに素早いな」
不敵に笑う老人の背は低かった。
自分の肩ぐらいまでしかない相手の眼前に、タイロンは抜き放った偃月刀を突きつけた。
「こんなことをしたくはないんですが」
「思ったほど余裕はないようだ」
鼻先に刃を突きつけられても、老人には動じる様子もない。それでも、今さら偃月刀を引っ込めることはできなかった。
「ここで約束してくださいませんか……アンティを、この壁の向こうへ帰すって」
「できないと言ったら、どうするね?」
タイロンは、偃月刀を振り上げるしかなかった。
「本当に斬りますよ」
「斬れるかね」
答えられなかった。傭兵となってから数多の戦に参加したが、女子供と老人を手に掛けたことだけはない。しかも、ここは戦場ではなく、相手も丸腰だった。
偃月刀を持った手は振り上げられたまま、下ろされることはなかった。
「どうした……斬ってみよ」
獣の唸りにも近い声が挑発する。それでも刃が振り下ろされることはなかった。かといって、攻撃の意志を失ったかのようにだらりと下げられることもない。
そのどちらともつかぬタイロンの態度に苛立ったかのように、老人は一喝した。
「斬らんか!」
本当なら、こんなことで人を斬りはしない。だが、タイロンは追いつめられていた。
斬るか、斬らぬか。
脅迫に応じなければ斬るといった以上、本当に斬らなければならない。だが、この老人を斬って得られるものは、何一つとしてないのだった。
それでも。
「おおおおおお!」
怒りの衝動によるものか、それとも意地によるものか。
タイロンは柄を握る手にもう片方の手を添えて、偃月刀を老いた門番の頭上へと叩きつけた。
「やはり、まだ若いな」
つぶやくなり、老人は刃を受け止めようとでもするかのように両腕を額の前で組んだ。今にも細い腕がまとめて斬り落とされ、脳天が砕けるかと見えた。
その瞬間のことである。
「え……」
タイロンの身体は偃月刀ごと、高々と宙を舞った。やがて、その負け知らずとの評判も高い放浪の賞金稼ぎは老人から少し離れたところに、その手から離れた刃と同時に背中から落ちた。
「ぐ……」
声も出せずにのたうち回るタイロンのもとへ、老人は悠然と歩み寄った。
手を差し伸べることもなく、息もできずに苦しむ姿を見下ろす。
「若さが武器になると思っているなら、それは甘い」
タイロンは何度となく咳き込んだ後に立ち上がろうとしたが、足をもつれさせて再び転んだ。
それでも、何とか口を利くことはできた。
「でも……時代は変わるんです」
言っていることはさっきと似ていたが、そこには偃月刀を振り上げる前の、あのどっちつかずの頼りない少年の姿はなかった。
苦しい息の下でも笑っているのは、「魔界」で魔王を倒した若き勇者である。
自分の時代がこれから来ると豪語する不遜な若者に、老人は口元を皮肉に歪めて笑い返した。
「ワシが正しいと信じた時代は終わってはおらんよ」
そこへアンティがやってきた。跳ね起きるタイロンには目もくれず、老人に向かって口を尖らせる。
「朝ごはん、冷めちゃいます」
ドモスも小屋から出てきた。
「腹減ったぜ」
タイロンと老人は、互いに目くばせし合うと、無言で見張り小屋へと戻った。
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