梅雨空の雲の切れ間に

麻城すず

梅雨空の雲の切れ間に

 坂上という男の存在を意識しだしたのは高校一年の六月。


 今でも忘れない。


 梅雨に入ったばかりの頃、毎日重苦しく空を覆う黒い雲と、ジメジメとした纏わりつくような湿気にうんざりとしていたあの日。あたしは坂上と、隣のクラスの女子生徒のやり取りを見てしまった。


 俗に言う、痴話喧嘩ってやつ。


 舞台は放課後、校舎と部室棟を繋ぐ中庭に面した連絡通路の隅っこ。演劇部の発声練習はいつもここで、そしてあたしは演劇部唯一の一年生。


 毎日一番最初にここで発声を始めるから、その日も例外ではなく、つまりその場にいたのは坂上とその彼女とあたしだけ。


 あーあ、彼女さん。こんな場所で大声出したら皆に聞こえちゃうでしょと、何の関係もないあたしが声を掛けたくなるほどに女の子のテンションは上がっていて、よくもまあそこまで思いつくなと思うくらいの罵詈雑言。


 一度も話したことがない坂上だけど、さすがに可哀相になってしまった。


 取り敢えずこの場を丸く納めるには、納める…には。


 全く何にも思いつかないので、仕方無く毎日の習慣に訴えることにした。連絡通路の真ん中に立って、そして大きく息を吸えば準備はOK。基本はお腹の底から。


「あーーーーーーーーーっ!」


 ジメジメした空気も、真っ暗な空も、ついでに坂上の彼女の怒りもみんな吹き飛んでいけとばかりに、あたしは「あ」に全力投球。


 彼らの方を見るのはあまりにもあからさまなので、あくまでも気付かない振りを貫いて。


 息が続かなくなって声が小さくなった頃「坂上はどうせ本気じゃなかったんでしょ!」と叫びにも似た言葉が聞こえた。


 違うよ、坂上の彼女さん。


 だって走り去って行くあなたの姿を見つめる彼は、とても傷ついた顔をしていた。


 この重苦しい梅雨空よりも、もっと重苦しい顔をしていた。





 ※※※





 坂上は教室の中で、いつも明るく笑っている。何の悩みもないんだろうと周りが羨ましがるほどに。


 あたしもそう思ってた。


 あんな出来事を見た後だって、勘違いしそうになった。


 坂上があんまり楽しそうにしてるから。いつでもニコニコと笑っているから。


 だけどあたしは知ってしまった。


 その笑顔に隠している、とても人間らしい感情を。




 ※※※




「坂上君って、二組の小竹と別れたんだって」


 女の子の話題の中心は、いつだって人気のある子の噂ばかり。いつもニコニコの坂上はその整った顔立ちと相俟って、当然のように話題の中心。二時限後の中休み、二十分の休憩時間はほぼそれに費やされる。


 あたしも例外ではなく巻き込まれて、特ダネとばかりに目を輝かせる友人の言葉に仕方無く相槌を打つ。


「ふーん…」


 もう知ってるよ。だってあたしはその場にいたから。


「で、今は二年の鳴瀬先輩と付き合ってるんだって。切り替え早過ぎない? 坂上って噂通り遊び人? まぁ確かにあの顔なら、好き放題出来そうだよね」


 興味もなく半ば聞き流していた話。その最後の言葉にあたしは思わず坂上を見た。


 教卓の前で女の子を交えた四、五人のグループの中でいつも通り楽しそうに笑ってる。


 また勘違いしそうになる。


 あたしが見た、あの悲しそうな顔は偽物だった? 今も貼りつく笑顔のように、あの表情も仮面だった?


 顔を上げた坂上と目が合って、その瞬間あたしの心臓は素手で鷲掴みされたようにギュッとした苦しさを覚える。


 感情の籠らない目が、あたしに警告していた。


 踏み込むな、と。


 でも、それがきっかけだった。




 ※※※




「で、なんで毎回別れ話をここでするの?」


 ぶすったれたあたしに「お詫び」とコーヒーのパックを差し出す坂上。


 あれから一年。再び巡った重苦しい雨の季節。


 これまでに坂上が振った、若しくは振られた女の数は片手では足りなくて。それは別に構わないけど全部あたしが知っているっていうのはどうかと思う。


「だってさ、修羅場になりかけると架南かながいいタイミングで発声始めるじゃん」


「別れ話をあたしのテリトリー内でやるからでしょ」


 新入部員はゼロの演劇部。


 あたしは相変わらず一番最初にここに来て、先輩より先に発声練習を始めなければならなくて、それを知った坂上は、あれ以来決まって別れ話をここで、このタイミングで切り出すようになった。


 坂上に興味はある。


 でも多分男の子としてじゃない。あくまでも負の感情を隠す、その偽りの笑顔の理由に。


「それとね、架南って名前呼び捨てにするの止めてよ。あたしはちゃんと葛城かつらぎって立派な名字があるの。葛城さんって呼びなさいよ」


「えー、なんで」


「あんたがそんな風に気安く呼ぶから、あたし達が付き合ってるとか訳分かんない噂が出て来るんじゃない」


「嬉しい?」


「迷惑」


 ただでさえ、普通は人が進んで立ち会いたいと思わない別れ話に皆勤賞なのだ。これ以上は勘弁して欲しい、本気でそう思う。


「だって、最初に声掛けてきたの架南だし。友達ならいいじゃん別に。俺も佳斗けいとって呼ばれてもいいし」


「毛糸?」


「佳斗!」


 軽い冗談にムキになるところを見ると小さい頃からかわれた経験ありだな、なんて笑えてしまう。


 あたしは知りたかった。坂上がどんな人なのか。ただそれだけだったのに。




 ※※※




「葛城さん、この前の話あんまり人に言わないでね」


 意図せず立ち入ってしまった二組の小竹さんとの別れ話。


 その数日後の放課後。


 校舎と部室棟を繋ぐ中庭に面した連絡通路、今いるこの場所で、あたしと坂上は初めて言葉を交わした。


「坂上君、もう他の人と付き合ってるの?」


 去って行く小竹さんを見送っていたあの顔は、いつも貼りつけている仮面とは違う本当の坂上だと思った。


「まーね、慰めてくれるっていわれたから」


 あの顔が本当の坂上だという確証が欲しかった。でもまた仮面の笑顔。


「坂上君、黙っていてあげるよ。但し交換条件があります」


 顔に貼りついた笑顔がピクリと動いた。


 あ、本気見つけた。


「あたしと友達になろう」


 笑顔が一瞬真顔になって。


 ああ、今この人素だよと思ったらあたしはとてもおかしくなった。


「付き合うとかじゃなくて、友達?」


「坂上彼女いるでしょ」


「あー、そりゃそうだけど……っていきなり呼び捨てかよ」


「友達だし」


「はいはい、わかったよ。葛城」


「呼び捨てっ!?」


「友達でしょ?」


「うう、……友達」


 我ながら唐突だったなと思う。


 馬鹿みたい。でも笑える。懐かしい、そんなきっかけ。




 ※※※




「さーて、ところでですね架南さん。今日は重大発表があるんです」


 少し前までただ重苦しいだけだった空がポツリポツリと泣き始め、あっという間に傘なしでは歩けないほどのザアザア降り。


「吹き込んでくる…」


 呟いた一言に、坂上は「こっち」と連絡通路の端っこにあたしの腕を引っ張って行った。


 笑っているけど笑っていない。


 あたしといるときの坂上は、あの貼りつけたような笑顔じゃない。あたしは友達だから。気を許せる友達だから。


「架南が一番最初」


「何が?」


「だから重大発表」


 あ、坂上が違う。


 さっきまで素だったくせに、あの笑顔がまた貼りついた。自分で気が付いているのかな。


「実は俺、一学期一杯でこの学校辞めるんだ」


 たっぷり数十秒の沈黙。


 嘘じゃないのはすぐ分かった。貼りついた仮面のような笑顔が、あたしに教えてくれたから。


 坂上は相手に心配させないように笑う。相手に気を遣わせないように。いつだって、なんでそこまでと思うほどに周りの人間を気にして。


 気にし過ぎて。


 自分の感情を表に出すことなんか忘れてしまったんじゃないかと思うくらい、それは自然に坂上を包み隠す。


「な、んで?」


 声が掠れる。喉が渇く。


 初めて坂上を羨ましいと思った。平然と笑い続けられる仮面。どうしたら手に入れられるの。


「何、寂しい?」


「友達だもん。当たり前でしょ」


 笑えてる? あたしは友達らしく笑えてるの?


 友達らしくって何。友達って。


 あたしは、何。


「架南、具合悪い?」


「びっくりしただけ。いきなり過ぎて」


 そう、驚いただけ。だから変なことを考えるんだ。


「うち親が離婚すんの。んでかあちゃんの実家に行くことになったわけ」


 坂上は笑ってる。


「これ、トップシークレットね。……俺さ、私生児だったの。かあちゃん十七で妊娠してさ、相手に逃げられちゃったんだよね。でも俺のこと産んでくれてさ。今の父さんと籍入れたのが俺が小学校に入る年で、それと同時に今住んでるところに引っ越したから周りの人は皆知らないんだよ。でね」


 笑顔は変わらない。けれど思い詰めたように吸うその息遣いは素の坂上が見せている。


「父さんはかあちゃんが欲しかっただけで俺なんか要らなかった訳。だからかあちゃんの目がない時は色々やられてたんだよね」


「……色々?」


「まあ、色々。でも子供だったから父さんに嫌われたくない一心で耐えてた」


 聞き返さなくたって想像がついた。


 坂上の仮面。相手に心配させないように貼り付ける笑顔。心配させたくないのはきっとお母さん。お母さんに気を遣わせないように。


 いつだって、なんでそこまでと思うほどに周りの人間を気にしていた。母を傷つけることを気にし過ぎて。義父に嫌われることを気にし過ぎて。自分の感情を表に出すことなんかきっと忘れてしまったんだ。


 だからこそ、その笑顔は極自然に坂上を包み隠す。両親だけでなく友達からも、本来一番近くにいるはずの彼女達からも。


「だけど、やっとかあちゃん気付いたんだよね。父さんが酔ってつけた傷、こんな分かりやすいところだったからさ」


 衣替えも済んだ時期なのに長袖のワイシャツ、それをまくり上げた腕に走る大きな切り傷の痕。


「かあちゃんさ、俺に泣いて謝ってたよ。それで父さんと別れるって言ってくれて……。父さん、俺とは折り合い悪かったんだけどかあちゃんには凄く優しくて良い旦那でさ、だからきっとかあちゃんには辛い選択だったと思う」


 ザアザア降りの雨を見つめる坂上は、まだ笑っていた。


 今は誰に気を遣っているの?


 あたし?


 あたしに気を遣うことなんかない。あたしは気なんか遣われたくない。


「だから、ここに残りたいなんて言えなかった。俺、かあちゃんについて行く」


 言い終えて、ようやく坂上はあたしを見た。


「坂上、あたし知ってるよ」


「え?」


 駄目だ。言うな。言うな。でも、だけど。


「坂上は小竹さんのこと本気で好きだったんでしょ。だけどいつもそんなだから振られちゃったんだ。隠すな。もう、隠す必要なんかない。坂上は坂上のままで、あたしと話す時みたいに女の子相手にだって素を出しなよ」


 これはきっと、触れられたくないこと。


 分かってる。分かってたのに。


「架南、サンキュ」


 坂上が笑う。また偽物の笑顔で。


「架南が友達になってくれてよかった」


 ならなんで笑うの。偽物じゃないか。その笑顔は。


「嘘つき!」


 口にしたその言葉の意味は。


 自覚した。坂上はあたしを友達だとは思ってない。あたしの思い上がり。そしてあたしは、自分に嘘を吐いて。


 本当は友達になりたかったんじゃない。


 坂上にあんな顔をさせてみたいと。いつも見ている薄っぺらな笑顔を、あんな風に歪めるほどに想われてみたいと。


 望んでいたんだ、もうずっと前から。


「嘘じゃないって」


 坂上、笑わないでよ。


「素を出した坂上なら、本当の友達出来る。あたしなんかより良い友達たくさん出来るよ」


 もう笑わないで。


「彼女だって。あんな風に振られることなんかない。その代わり、坂上だって慰めてくれるなんて甘い言葉にホイホイ乗っちゃ駄目。本当に好きになった子とはちゃんと向き合うの」


 いつもみたいに、素を出してよ。


「そしたら、大丈夫だから。女の子は相手が見えないと不安になるの。だからあたしと話す時みたいにちゃんと自分を出すんだよ」


 坂上の特別になりたかった。そしてそれは叶ったのだと思っていたのに。


「坂上、今までのことは全部忘れちゃえばいい。引っ越したらこっちのことは全部忘れて。それでもう、周りを窺って生きるのはお終いにするの」


 ああ、口が止まらない。あたしはなんでこんな余計なことばっかり。


 雨が酷い。傘をさしてもきっと濡れちゃう。


 あたしは、このまま何もなかったかのように。坂上への言葉をずっと後悔しながら。


 今更言えない言葉を後悔しながら、彼を送り出すしかないんだ。


「ごめん、一学期まだ一か月も残ってるのに。なんかびっくりしちゃってさ。ベラベラ喋ってうっとうしいっての、ねぇ?」


 坂上。もう駄目?


 ずっと笑顔のままなんだね。こんな暑苦しいこと言ったから。無神経なこと言ったから。


 もう素の坂上は見せてもらえないのかな。


 その貼りついた仮面、あたしの手で剥したいと思っていたけど、もう無理なのかな。


 そう思っても、あたしはまだ未練がましく、その笑顔に触れようと手を伸ばしかけ、ガヤガヤと賑やかに近付いて来た団体に気がついた。


「あ、演劇部御一行様が来た」


 時間ぎれ、か。


「クソ真面目なご講釈ありがとさん!」


 伸ばし掛けた手に気付かなかった坂上は、ニコニコ笑いながら「部活頑張れ」とあたしの背中を押した。


 頑張ってたって、何の実にもなってない。坂上みたいな役者にはなれないよ。


 あたしも、そんな仮面が欲しい。


 いつだって笑顔でいられるように。坂上を笑顔で送り出して上げられるように。


 笑顔で。


 笑顔で。




 ※※※




 長かった梅雨は終わりに近付いて、晴れ間が覗くことも多くなった。何日も続いた雨の合間の太陽は、強い存在感で下界を照らすけれどそれがとても心地良い。


「晴れたねー」


「晴れたな」


 連絡通路は雨避けの屋根があるものの、壁はないので面した中庭が陽の光で照らされれいるのがきれいに見える。


 あたしと坂上は相変わらずだ。


 友達。それだけの関係。


 だけどあの日から、変わったことが幾つかある。


 あたしは坂上への恋心を自覚して。坂上はあたしにも、仮面の笑顔を外さなくなり。


 途切れることの無かった坂上の彼女は、あれからずっといなかった。どうせ引っ越して別れるんだから、今更作ったって意味ないと思ったんだろうけれど。


 でも、彼女のいない坂上をあたしは独占していることがこんなにも嬉しい。


 変だよね。あの日まで、坂上の彼女に嫉妬したことなんかなかったのに。


 でもそれはきっと、坂上が彼女達にすら見せなかった素を、あたしには見せているという優越感が無意識のうちに存在していたからだと思う。


 うわ、あたしって質悪い。


 今彼女がいないことを嬉しく思うのは、坂上の薄っぺらな笑顔しか見られなかったこれまでの彼女と、あたしが同じポジションにいるせいだ。


「いよいよっすねー」


「いよいよっすよー」


 二人で並んで座り込み、坂上の奢ってくれたアイスクリームを食べながら、あたし達は通路の隅っこでつまらない会話を交わす。


 残り時間はあと一日。


 坂上は明日、ここから車で四時間かかる、本人曰く超ド田舎に引っ越して行くそうだ。


「今日部活は?」


「最終日とはいえ、試験期間中はやんないの」


 坂上は律義に期末を受けて、でも試験休み中にいなくなる。


「明日雨なんだよね」


「ゲッ! 引っ越しが雨?」


 あたし達、何してるのかな。


 坂上は彼女との別れ話もないのに、気付けば放課後の連絡通路の常連だ。毎日毎日飽きもせず、発声を始めるまでのほんの僅かな時間をあたしと一緒にくっちゃべって。あたしの発声練習する後ろ姿を眺めて。そして先輩達が来る前に、黙って姿を消してしまう。


「架南はさ、部活無いのになんでここにいんの?」


 最後だから。


 坂上が行っちゃうから、ちょっと浸りたかっただけ。


「何となくだよ」


 そんなこと言えないけど。まあ思うくらいは許して欲しい。


「坂上こそ、なんで来たの?」


「……何となく」


「なによそれ」


 空っぽになったアイスのケース。紙で出来ているそれは、水滴を含んでフニャフニャしてる。指で押せば簡単に形を変えて。


 それを見ながらぼんやり思う。


 坂上がいなくなったら、あたしはきっとこんな感じ。空っぽになった日常に耐えられず、何となく周りにされるがままに日々を過ごして。


 でも暫くはそれでもいい。


「さーてと、アイスも無くなったし帰ろっかな」


 立ち上がってスカートについた砂をはたく。


「最後なのにサッパリしてんな」


 そう言う坂上だって、全然寂しそうな顔を見せない。また貼りついた笑顔じゃないか。


 だけど。


 その貼りついた笑顔が言い終わった瞬間ピクリと動いて。


 ……坂上の本気、見つけた。


「けいと」


「え? 名前……」


「…毛糸っ」


「そっちかよ!」







 旅立つ君を煩わせたくはないから、好きだなんて言わないけれど。


 このくらいは許して欲しい。


 最後の最後に本気を見せてくれた君に、これはあたしの僅かな抵抗。


 重苦しい梅雨空の合間に差した、眩しい陽の光のような少しの心地良さをもって、坂上の中にあたしの本気の笑顔が記憶されればいい。


 ザアザア降りの雨の合間の空を見て、坂上があたしを思い出してくれたら。


 あたしもきっと、こんな晴れた空を見て坂上のことを思い出すから。


 何年か経って大人になっても、あたしはきっと思い出すから。




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