第8話 6

 ……充満する血臭が酷い。

 粘ついた臭気は、まるで臭気自体が質量を持っているかのように、空気を重く沈めていく。

 むせ返るほど濃密なそれは、吐き気を催すほど。

「……か、ふ」

 噴出した鉄錆は、微かな熱を伴い夜闇を侵食していく。

 帳が紅く染め上げられていくような。

 そんな光景を、幻視する。

「————ああ、うん」

 だが、それは。

「よかった。————釣られてくれましたね」

 その鉄錆は、

 

「……、ごめんね」

 正面。半歩進めばぶつかりそうな距離。

 それほどの至近だったからこそ、辛うじてその声は聞き取れた。

「踏み、込ませて……ごめんね」

「————、」

 それでも。伊月は言葉を返すことができない。目線一つ、動かすことすらできない。

 意識は。

 思考は。

 たった一人の少女に集約されていた。


 だけに、集約されていた。


「————ぁ、……?」

 零れ落ちた声は意味を持たない。

 何を発そうとしたのか、自分自身ですら分からない。

 ただ、その光景があまりにも受け入れ難くて。

 干涸らびた喉の奥が乾き切った音を立てる。その感覚だけが、目の前の光景は現実なのだと冷酷に擦り込んでくる。

 ……どういうことだ、と伊月は自問する。

 全ては瞬間。

 突き出された男の腕が伊月修哉の命に届く、その寸前。

 金縛りにあったように、瞬きもできず固まった視界をが埋めつくした。

 認識したものは、それが全て。

 断裂した認識が次に捉えたのは、

 間近に立つ少女の姿と、

 その胸を突き破る————血塗れの手槍。

「……ぶ、」

 ゴボッ、と。小さな濁音と共に、伊月の胸へ吐血が撒き散らされる。

 白い病人服を纏った少女は、伊月の体を覆い隠すように立っているみたいだった。

 背伸びをしても伊月の肩にすら届かない、その小さな体を最大限使って。地面に突き立つ十字架のように、手を広げて。

「……、でも。よかった」

 けが、なくて。

 そう微笑しながら、少女は立っていた。

 まるで、

「が、ブッ!?」

 ズルリ、と。

 少女の胸に生える手が消える。

 再び吐血しながらくずおれる彼女を受け止めたのは、ほとんど反射だった。

「またまた。そんな悲愴じみた雰囲気を出さないでくださいよ」軽い笑い声。「どうせ、すぐに治るんですから」

 寄りかかる重みを支えきれず、少女と共に膝を着いた伊月はのろのろと顔を上げる。

 そこには、返り血に染まって佇む、男がいた。

「安っぽい演出をどうもありがとうございます」

 ジュウ、という水の焼ける音。同時、嗅いだことのない異臭が鼻をつく。

 月明かりの注さない公園を照らすのは、遠くかけはなれた街灯と微かに漏れる住宅の生活灯だけ。

 漆黒に近い暗闇では、本来、その男の輪郭しか判別できない。

 だが。暗さに目が慣れていた伊月は見た。見えてしまった。

 返り血に染まって佇む男————なだらかな三日月を刻む口角。その形を。

「テ、メェ————」

 脊髄が沸騰する。発火しそうな程の熱が、神経を伝い全身へ駆け巡る。

 その熱に名を与えるなら、怒り。

 何に怒っているのかは自分でも分からない。殺されかけたこの状況か、纏わりつくような悪臭か、なす術もなく膝を着いている自分自身か。

 ただ、穏やかにわらう三条秋峯という男の顔が不快で、不快で、不快で。

 内側から焼き尽くされそうな熱に、脳が蒸発するかと思った。

「————どういうつもりだ、クソ野郎!!!!」

 燃える赫怒を吼えたてる。

 けれど、

「どういうつもり、ですか」三条は、ほんの一欠片すら動じていなかった。「事ここに至ってその発言とは、いやはや。思考放棄されているのか、単に判断能力が欠如しているのか。まあ、未成年にそこまで求めるのは酷でしょうかね」

 まるで、録画していた映画が予想より面白くなかった時のような、軽い失望の溜息。

「別に複雑な話でもありません。貴方はそこの女を引きずり出すための餌に使われ、彼女がそれに食いついた。ただそれだけの話です」面倒くさそうな声で、

「私もね?貴方のような一般人を巻き込むのは不本意ではあったんですよ?そもそも、一度交差しただけの他人を救うために彼女がわざわざ出てくるかも分かりませんでしたし。……けれど仕方がない。彼女ソレの血の匂いはこの場所で途切れていましたし、唯一情報を持っていそうな貴方も彼女ソレの行方は知らないときた。であれば————?」

 一息の澱みすらなく、朗々と語る。

 凍てつく夏夜、三条のその姿だけがあまりにも場違いで。

 脳髄を燃やす炎すら、凍りつかされそうだった。

「詳しいことは何も聞いていなさそうな貴方の様子からして、彼女は貴方を巻き込むことを嫌っていたようですし。いずれかのタイミングで様子を見に戻ってくるかもしれない、という予想は立った。……それなら私は貴方を巻き込むように動けばいい」

 単純な話でしょう?と小首を傾げる三条は、夕暮れの中で語っていた時と同じように、ただただ静かな微笑を浮かべていた。

「…………ふ、ざけんなよ」

 堪えかねたように、伊月は呟く。

 バキリ、という。

 凍えた炎が砕かれる音を、確かに聞いた。

「っざけんな、ざっけんなよテメェ!!」低声は怒声へ、怒声は咆哮となって、溢れ出す。「そんな事のために!たかがこいつを誘い出す、そのためだけに!のか!!」

 気づけば立ち上がっていた。

 指先一つ、髪の毛の一本でも触れれば全身を燃やし尽くしてしまいそうな程の怒りを纏い、伊月は真正面から三条秋峯を睨みつける。

「はは。この状況で尚も自分本位の怒りですか。いいですね、人間的で実に良い」

 けれど、三条はさらりとそう返した。微塵も、欠片も、動揺なんてしていなかった。

「ですが、たかが、とは言ってくれますね。これでも私の肩には、『世界平和』なんていう大きな物が乗っているんですが」

「世界、平和……?」意味がわからない。

「ええ、そうです。世界の平和。正義の味方、ってヤツですよ」三条は吐き捨てるように笑って、「そもそも、私が『感染者』だと分かった時点で思い至らなかったんですか?……いくら感染力が低くても、伝染うつる可能性は、ゼロじゃない。彼女を野放しにするということは、この世界にということと同義です。事実『IPウイルス』が寄生している遺伝子は血液にも含まれる。もし仮に、粘膜や傷口から『感染者』の血液が入ったら?————ああ、そう言えば貴方。先ほど彼女の血を大量に浴びていましたが、大丈夫ですかね?」

 心配する体を装った言葉は、その実、寒気がするほど愉快そうだった。

 けれど、自覚できる体の変調はまだ何も無い。

『感染者』は同類の匂いが分かる、と三条は言っていたが、嗅覚が捉えるのは未だ消えることの無い血の臭いだけ。『異能』などという狂った能力チカラが芽生えたような気配もない。

「その様子では伝染ってなさそうですね。……可哀想に、私達と同じ側であれば殺す必要も無くなったものを。ああ、なんなら今からでも感染してみます?まあ、どちらにせよ死期の先延ばしにしかなりませんが」

「ころ、す……?」

 伊月は愕然とする。これだけの状況、伊月修哉の生きる世界というものをもう既に殺戮し尽くしておいて、今この男はなんと言った?

「ええ、殺しますよ?」感染者は、当たり前のようにそう言った。「まさか貴方、彼女が釣れた今なら見逃してもらえるとでも思ってたんですか?そんなわけないでしょう。彼女が釣れたところで、貴方の記憶に焼き付いた『IPウイルス感染症』という言葉が消えてなくなるわけではない。むしろ、こんな光景まで見せてしまったんです、口封じするだけの理由には十分じゃありません?」

 正義を名乗る男は、穏やかな口調でどこまでも身勝手な理論を押し付けてくる。

 謳うように、踊るように。

 倫理も、感情もなく。

 ただひたすらに傲慢な自己都合だけを、押し付けてくる。

「あ。誰にも言わないから見逃せ、なんていう陳腐な命乞いはやめてくださいね。時間の無駄ですし。口約束なんて曖昧な物が通用するのは小学生の指切りまでですから」

 伊月には、世界の重さなんてものは分からない。それがどのくらい大きいものかなんて見当もつかない。

 正義にしたってそうだ。その言葉がどれほど優先されるのかも、まして、どこまでの正当性を持つのかも知らない。

 けれど、

 そんなよく分からない物を理由に、自分が殺されるという。

 その理屈に、血管という血管が、ブチ切れた。

「テ、メェ————何様だ!!」

 切れた血管から流れ出るナニカへ煮え返る怒りが引火。

 爆発する勢いそのままに、右腕を振りかぶる。

 おあつらえ向きに、拳は固く握りしめられていた。

「ほう。自ら死にに来ていただけるとは、協力的で実にありがたいことです」

 呼応する三条は、静かな水面のように、変わらない微笑みを浮かべていた。

 伊月修哉相手には表情を崩すまでもない、とでも言うように。ダラリと腕を下げたまま、なんの気負いもない自然体で。

 そのニヤケ面が余計に炎を煽り立てて、伊月は奥歯を噛み潰す。既にこれ以上ないほど強く握られていたはずの拳が、ミシリという音と共に硬度を増す。

 やることは単純明快。

『異能』などという訳の分からない能力チカラを使われるより速く。

 確実に。全力を以て、このクソ野郎を殴り倒すだけ。

「では、ありがとうございました。————今度こそ、さようなら」

 体感的に遅くなった世界の中、三条が何かを言って、ゆっくりと手を動かす。

 だが遅い。

 その手が伊月へ届くよりも、振り下ろす拳が三条を捉えるのが遥かに先————!

「ダメ————!!」

 その直前。

 響く声と同時、視界の外から

「————!?」

 完全な、意識の外。

 伊月と三条の間を割るように突き込まれた細く長い腕に、振り下ろした拳が阻まれる。

「……おや、残念。起きるのはもう少し先だと踏んでいましたが……、もうですか」

 シュウシュウ、と水分が蒸発していくような音。

 伊月の拳よりコンマ数秒分近い距離に迫る、大人の頭程の拳をなんてことないように受け止めて、三条は伊月の足元を見ていた。

「…………、」

 釣られるように、視線を下げる。

 そこには。

 上体だけを辛うじて持ち上げる少女がいた。

 辛そうな顔で、自らの血で衣服を染めている少女は、それでも必死に手を伸ばしていた。

 いや。手を伸ばしていた、というのは正確な表現ではない。

 なぜなら、


 伸ばした、手の先。

 手の平から、人の身長ほどもある腕が生えているのだから。


「————、」

 絶句。正しく絶句だった。

 ありえない異形。起こりえないはずの現象。

 今まで見てきた世界というものが、根底から崩れ落ちていくような衝撃が伊月を襲う。

『異能』————作り物フィクションじみたその言葉が、突然実体を持って生まれ落ちたような。

 感覚が、震えた。

「……その、人に……触っちゃダメ」

 たった一つの挙動で世界を塗り替えた少女は、しかしその事には一切触れず、ただ真っ直ぐに伊月の顔を見てそう言った。

「触れば。もう……戻れなく、なる」

 ボタボタ、と。

 未だ傷口からは血を垂れ流したまま、それでも。

「……、へえ」

 答えたのは伊月ではなく、三条の声。

「気づいていたんですね。まあそれだけ何度も体を抉られていれば、気づくのも当然と言えば当然ですか」

 水が蒸発していくような音は消え、代わりに乾いた木が弾けるような、指鳴りと似た音が響き出す。

 その発生源は、ゆらりと上げられた三条の右手。その手が掴む、小さな拳。

「私の『異能』は少々ピーキーでしてね。体表面の高温化なんて能力、持っていたところで大抵ろくなことがないんですが————まあ、こういう場面では役に立たないこともない」

 言葉の、直後。


 ボッッッ!!!!!!!!!と。

 天を突くように伸び上がっていた腕が、一瞬にして燃え上がった。


「づッ、あ!?」

 弾かれたように拳を引く。

 脊髄によって成される反射、そこに生まれるタイムラグはコンマを更に下回る。

 だと言うのに、

「冗談じゃ、ねえ……」

 神経を直接炙られる痛みに、思わず視線を向ける。

 拳をかたどっていた右手は、溶けた飴細工のように、

 でろり、と。皮がめくれていた。

「…………、」

 その惨状を正しく認識するまでに、時間は要らない。この期に及んで空白の生まれる隙間も、混乱を装う余白も、白熱する思考回路には残っていない。

 だからこそ。その可能性に思い至る。

(……ちょっと、待て)

 右拳の痛みを強く自覚する。

 たった一瞬にも満たない接触。その代償ですらこれだ。

 ならば、

 

「なるほどなるほど。生み出すだけではなく切り離すことも出来る、と。……自切とは、いやはや。まるでトカゲのようだ」

 ボトリ、と。腕だったものが、焼け落ちる。

 切り取るのではなく、抉り取るのともまた違う。見たことも無い皮膚の削られ方をした肉塊は、血と脂肪を撒き散らしながら地面へ転がる。

「…………、ぅ」

 至近距離で炎熱を浴びた少女は苦痛の色を更に強めながらも、無傷で膝をついていた。

「これは初見でしたが、うん。そうなると少々厄介ですねえ」三条は面倒くさそうに頭を掻いて、「そこの少年は別として、君を殺してしまっては本末転倒ですし……君、大人しく私についてくる気とかありません?」

「……、やだ」

 浅い呼吸を繰り返しながら、少女は首を横に振った。

「ですよねー……はあ。これは私も痛いので、あまりやりたくなかったんですけど」

 異常が吹き荒れる空間の中で、なんの気負いもないその声だけが浮ついていた。

 目まぐるしく押し寄せる状況を処理するので手一杯の伊月は、言葉を発することすらできず、ただ呆然と三条を見つめる。

 よいしょ、と三条は億劫そうに立ち上がって、

「とはいえ、手足の二、三本でも持っていけば大人しくなってくれそうですし」

 独り言のようにそう呟く。

 その手が握っているのは、空になったコーヒー缶。

「ねえ、伊月さん————」

 ポンポン、と。片手でを弄びながら、

「————テルミット法って、聞いたことあります?」

 グシャリ、と缶の潰れる音。

 問いかけに伊月の思考が追いつく間すらなく。

 三条は、握り潰した缶を軽く放った。

 立ち尽くす伊月とくずおれている少女、その中間へ。

「ま、ダメ学生はどうせ知らないか」

 苦笑混じりの声が聞こえた気がして、


 瞬間。

 伊月修哉の視界は、

 爆炎に埋め尽くされた。

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