第7話 5
「あの……大丈夫ですか?」
「……あん?」
頭上から投げられた声に、伊月はノロノロと顔を上げる。
心配そうに覗き込む男と目が合った。
ハッと苛立たしげに短い吐息をこぼす。
「大丈夫なわけあるかよ。紛らわしいことしやがって、精神的にボロボロだっつの」
吐き捨てるようにそう言って、差し出されたペットボトルをひったくるように受け取る。
場所は変わって、公園内のベンチ。
思いっきり仲間意識を裏切られ『テメェふざけんな!思いっきり同類だと思ってたのに!慰謝料よこせ!!』と凄まじい勢いで逆ギレをかました伊月によって半ば強引に自販機へ走らされ、訳も分からないまま水を買わされた男が首を傾げながら戻ってきたところだった。
「……ていうかなんであんたはコーヒーとお茶なんていう意味不明な和洋折衷まで持ってきてるわけよ。なに?それもくれんの?」
「いえ、これは自分用に。コーヒー好きなんですが、喉渇くので」
「なんだそのブルジョワジー理論。貧乏人への当て付けかよ」
まんま水分補給の意味合いでしかない五〇〇ミリリットルの水一本勝負を前に嗜好品ときた。これだから金持ちは、と伊月はジト目を向ける。
そこに奢って貰った感謝とか欠片もない。人間衣食住が満たされないと心が荒むのだ。
「隣、失礼しますね」そんな伊月に苦笑しながら、男はベンチに腰掛ける。「それで、あなたは……ああ、失礼。お名前を伺ってませんでしたね」
「あん?……ああ、伊月修哉。普通の学生」
伊月はペットボトルのキャップを捻りながら、どうでも良さそうにそう答えた。
「私は
「……どうして、っつーか」
そう聞かれてもどうしたものか。伊月は水を口に含みながら考えてみる。
ホームレスやってます、なんてこんな見ず知らずの奴に言いたくはない。世間体的にも自尊心的にも傷がつくのは目に見えている。
だが、まあ。
実際問題、勘違い(というより、ハメられたと主張したいが)を発端とした先程の会話でもう喋ってしまったも同然といえば同然なのだった。微妙に口ごもった三条の口振りからしてもある程度事情は察せられてると思った方が良さそうだし。
しょうがないか、と伊月は溜息を吐く。
「どうもこうも、家無くなったから。あの砂場が今の俺の家なの」
「家が無くなったって、どうしてそんな……」
「そこまで話す義理はねえ」
追及を断ち切るようにペットボトルへ口をつける。そのまま一息に半分ほど飲み干して、
「それよりお前こそ、寝床探しじゃないなら
渇き切った体に水分が染み渡る。ひりついた喉が潤っていく感覚に人心地つきながら、伊月は尋ね返してみた。
「空き巣ではないんですけどね」
「じゃあなんだよ、十年前に埋めたタイムカプセルでも探してたんか」
「…………、まあ、似たようなものです」
冗談のつもりで言った伊月は、思わず三条へ目を向ける。
「探してたのはタイムカプセルじゃありませんがね」
三条はそう言ってまた苦笑した。
スーツの胸ポケットへ手を入れて、手のひらサイズくらいの何かを引き出す。
「ちょうど伊月さんに声をかけられる直前で見つけたんですよ」
そう言って三条が見せてきたのは、小さな布切れだった。一見ハンカチのようにも見えるが、その割に布切れは歪な形をしていて、まるで無理矢理破り取られたかのようみすぼらしい。ついでにそれは面積の半分ほどが紅黒い染みで覆われているし、残った半分も砂に塗れた薄汚い白色だし、
「……ん?」
と。そこまで考えて、伊月はその布切れに見覚えがある気がした。
「もしかして、それ。あいつの、か?」
脳裏に浮かんだのは、透明な笑顔の少女。彼女が纏っていた病人服は確か白一色だった。そして布切れの染みも見ようによっては血痕————少女の背中に染み付いていたものと同じ色に見える。
「なんでそんなもんが……」
落ちていたんだ、と。
首を傾げかけて、はたと気づく。
そう言えば。あの少女、野良猫とド派手に鬼ごっことかしていたような。
ついでに。暴れる野良猫は鋭い爪で彼女の服を引っ掻きまくっていたような。
そして。別れ際の少女はあちこち破れたボロボロの危うい服装をしていたような。
「……あー」
妙に納得。あの怪獣大戦争みたいな騒ぎなら、どんなに頑丈な服でも布切れの一つや二つ落としたってなんの不思議もない。
というか、冷静に考えてみればなんだったんだあの騒ぎ。野良猫相手に戯れるとかいう次元を超えているだろう。
呆れて空を見上げる彼の隣で、三条が小さく呟く。
「……やはり」
「…………、あん?なんか言った?」
今朝方の大乱闘を思い返して遠い目をしていた伊月は反応が遅れた。
「いえ、なんでも」三条は曖昧に微笑した。「それより、伊月さんはどうして彼女のことを?」
「…………いや、別に。朝起きたら痴漢の押し売りをされただけ」
正直、あの記憶の引き出しは開けるだけで疲れるから、あんまり触れたくはない。苦労して開けた割には中身は何もなかったし。必然、伊月の説明も雑になる。
「?」
要領の得ない説明に三条は首を傾げるが、だるそうな伊月の雰囲気でそれ以上の補足が得られなさそうだと悟ったらしい。
缶コーヒーのプルタブを起こしながら、静かに問いかけてくる。
「彼女、その後どこに行ったかご存知ありませんか」
「さあ?別に大して話もしてねえし。なんか追われてる?とかなんとか意味わかんねえこと言ってたけど」
「……、大まかでも構いません。本当に心当たりはありませんか?」
「だから知らねえって。つか何?やたら拘るけどあいつがどうかしたわけ?」
しつこく食いつく三条に首を傾げる。
あんなハタ迷惑な不思議系電波少女のことを掘り返したところで生産性なんかないのに物好きなことだ、と伊月は眉をひそめかけて、
「……そう、ですか」
三条の軽い嘆息を聞いた。
まるで、テレビの星座占いが当たらなかった時のような。そんな諦め混じりの落胆。
三条はコクリと小さく缶を傾けて、細く長い息を吐く。
「彼女『追われている』と言っていたんですよね」
「?……ああ、言ってたけど?」
いきなり巻き戻った話の筋に、伊月は少し首を傾げてそう答える。
三条は「そうですか」とまた苦笑して、
こう言った。
「それ、私のことなんですよ」
「……はあ?」
今度こそ。伊月の眉間には盛大な皺が刻まれた。
一体全体、何を言い出したこの男。
私のこと、ってなんだ。まさかあんな厨二病真っ最中みたいな女の与太話が本当だとでも言うつもりか?
というか、仮に本当だとしても、こんなセールスマンのサンプルケースですみたいな男が義務教育も終えていなさそうな少女を追いかけ回す経緯が見えない。どこを切り取っても意味不明だった。
「……うわ。欠片も信じてませんね、その顔」
眉間の皺が深くなる一方の伊月に、三条は苦笑のままそう言った。
「ですが、冗談を言っているわけではありません。————そうせざるを得ないだけの理由もある」
「……理由?」
音もなく苦笑を引っ込めた三条は、平淡な真顔だった。
感情の波というものが消え去ったその表情に、伊月の目が少し細められる。
「……伊月さんは『感染症』という言葉に聞き覚えありますか?」
三条は、脈絡のない質問を発してきた。
「……まあ、そりゃ。普通に生きてたら誰だってあるだろ」
訝しみながらも、とりあえず答えてみる伊月。
ですよね、と三条は真顔のまま頷いて、
「端的に言って、
「……はあ」
伊月は気が抜けたような声で相槌を打つ。
なんだか真面目腐った顔で言い放った三条には申し訳ないが、浮かぶ感想は「……だから?」以外の何物でもない。
感染症、とか言われても思い当たるのなんて風邪とかインフルエンザとかその辺りが精々だ。そもそも、今時病の一つ二つ抱えている人間なんて掃いて捨てるほどいる。その程度の事でわざわざ少女を追いかけ回す、なんてのもおかしな話だった。
「……あ、もしかしてあんた医者とか?」
だとすれば納得もいく。放浪癖のある入院患者が脱走して大騒ぎになった、とか割とそういう業界では日常茶飯事だとどこかで聞いた覚えがある。
それならあの少女が着ていた病人服にも説明がつくし、と伊月は思ったのだが、予想に反して三条は首を横に振った。
「いえ、そういう訳ではないんです」
「じゃあなんでだよ」
あっさりと否定され少し不満げに聞き返した伊月へ、三条はどことなく疲れたような微笑を向けて、
「そもそも『感染症』とは、なにかご存知ですか?」
「なにって……
「ええ、そうです」三条は小さく頷いた。「では、感染症と呼ばれる病はこの世界に何種類あると思います?」
「……一〇〇くらい?」
「いい線いってますね」
計らずも正解を言い当てた生徒を褒める先生のような微笑をする三条。
その表情のまま、彼は言う。
「正解は『数え切れない』です」
「全然当たってねえじゃねえか!」
何がいい線いってるだ。『数え切れない』ということはつまり無限ではないか。一〇〇と無限をニアミスで済ますのはいくらなんでも無理がありすぎる。
というかそもそもそんな答えアリか。一+一は?と聞いてきたくせに、答えは整数ですとか言われるくらい理不尽だった。
つい真面目に考えてしまった自分がバカみたいだ、と不貞腐れる伊月。
「まあまあ、ただのクイズみたいなものですから」三条は面白そうに笑って、「とにかく、『感染症』と一口に言っても色んな種類があるわけなんですが……彼女が患っているのはその中でも少々特殊でして」
「……実は人に伝染りません、とか言うんじゃねえだろうな」
「流石にそこまでは言いませんよ。まあ確かに、並大抵のことで感染したりはしませんが」
さっきの今で疑心暗鬼に陥った伊月の視線を、三条はサラリとかわす。
肌を刺すような夏の夕陽と手の熱で汗をかき出したコーヒー缶をお茶のペットボトルと持ち替える。その横顔は穏やかで、その目は笑顔の形に細められたまま。
どこにでもいそうな男は、どこでだって見られそうな表情のまま、ポツリと。
「————『IPウイルス感染症』」
「……IP?なんだそりゃ。パソコン?」
「いえ、意味合いとしてはInternet ProtocolではなくInprideですね」ペットボトルのキャップを捻って、「直訳すると『黙示』とでも言いますか。————それが、彼女の背負う病」
夕暮れ時。落ちた呟きは、住宅街の微かな喧噪に揉まれて消えそうな声だった。
「……そもそも『感染症』というのは、どうして
「…………、知らねえけど。ウイルスがどうとかって聞いた覚えはある」
「そう。では、」一口。三条はペットボトルの中身を口に含んで、「ウイルスというのは、なんですか?」
「…………、」
重ねられる質問は専門的な話になってきていてよく分からない。伊月は顔をしかめることで理解不能の意思を告げてみる。
「簡単に言ってしまえば、寄生虫のようなものです」元から答えは期待していなかったのか、大した間も置かず三条は語る。「人間の細胞に寄生し、増殖し、体を内側から食いつぶす。それがウイルス」
「……はあ」
なんだか生物の授業みたいになってきた。なんだってこんな場所で学校の延長線上みたいな話を聞かされているんだろう?と伊月は疑問に思う。
微妙に話についていけていない顔の伊月を、三条は横目でチラリと見て、
「伊月さん、授業とか真面目に受けていないタイプでしょう」ははっ、とおかしそうに笑う。
「……うるせえな。ほっとけ」
「その様子だと、細胞の核とか質問しても意味はないですよね」
「…………、」
微妙にバカにされている気がするのだが、確かに聞かれたって分からないので黙るしかない。
不機嫌な表情で口を曲げる伊月をまた笑う三条。
「細胞の核となるのは、遺伝子です。……遺伝子、という言葉に聞き覚えは?」
「いくら何でもそれくらいは知ってる。いちいちダメな子扱いすんな」
「これは失敬」
本格的に不機嫌が表へ出かけた伊月の様子に、三条は軽く両手を挙げる。
こうもあっさり降参されては怒るに怒れない。さっきからのらりくらりと掴みどころのない奴だ。前世ウナギかなんかだろこいつ、と伊月は鼻を鳴らす。
いくら真面目に授業を受けていないダメ学生だったとしても、十数年生きてて『遺伝子』という言葉に聞き覚えがない人間なんてそうはいない。
遺伝子とは、確か『人間を構成する最小単位』とかだったはずだ。遺伝子をもとに細胞が作られ、細胞が幾億も集まることで人間の体は成り立っている。設計図のようなものをイメージすれば分かりやすいか。
「ええ、その認識で間違っていません」
どこで聞いたかも覚えていないうろ覚えの知識をつらつらと並べた言葉に、三条は頷いた。
「さて、では」一度言葉を区切って、「その設計図に、デタラメな落書きを付け加えたら?」
「……それは」
「
「……………………、いや。ということですとか言われても」
一人で結論付けてしまっているところ悪いのだが、話に全然ついていけてない。なんでこいつ今の説明で理解が得られると思ったんだ。自分が分かっていることは他人も分かっている前提で話進めちゃうタイプの説明下手か?
「もしもし?もしもーし?なんか一人で大気圏突破しちゃってるとこ悪いけど、伊月さんはまだ成層圏より下ですよ?」
「え?」
「え?じゃねえよ、え?じゃ。分からない俺が悪いみたいな顔するな!大体さっきから黙って聞いてりゃIPウイルスだのなんだの当たり前みたいに専門用語ぶち込みやがって。いいか、説明ってのはド素人でも分かるようにするもんなんだよ、そこ分かってんのかこの頭でっかち野郎!」
「…………え、あ。はい、すいません」
とうとうというか、もはや限界ぶっちぎってしまった不機嫌ゲージそのままにまくしたてる伊月。どこで息継ぎしてるかも不明なマシンガントークが展開され、流石の三条もちょっと引いたらしい。得意のウナギみたいな受け流しも忘れ、素の表情でペコリと頭を下げる。
そう素直に謝られたら謝られたで調子が狂うので、なんだか釈然としない伊月だった。
「ええと……そうですね、例でも挙げてみますか」
ややあって顔を上げた三条は、そんなことを言った。
「……はあ?例?」
「ええ。例えば」脇に置かれていたコーヒー缶を手に取る。「このコーヒーをウイルス。こちらのお茶を遺伝子だとします」
「?」
「で、これをこう」
「ちょ⁉」
ダバー、と。
あろうことか三条はコーヒーをそのままペットボトルにぶち込みやがった。
真っ黒の液体が澄んだ茶褐色へ拡散し、全体を濁った色に染めていく。頭のおかしい和洋折衷がここに爆誕。絶望的に反りの合わない異文化交流が強制される光景に、思わず伊月も「うっ」となる。
「さて。今ここにはコーヒーとお茶の混ざった液体があるわけですが」
それなのに、当の三条は全く何も思っていないようだった。
ずい、と彼はフラットな表情のままペットボトルを伊月へ差し出して、
「ここからコーヒーだけを取り出してみてください」
「……は?何言ってんのあんた?」
自分で混ぜておいて今度は分けろとか、一体何がしたいんだと首を傾げる。
「いいからいいから。できますか?」
「…………、いや。普通に無理だけど」
「ですよね。知ってます」
「なんなんだあんた!喧嘩売ってんのか!」
あっさり頷く三条の意図が読めない。というか例え話したところでおちょくられている気しかしないのだが。
やっぱりこいつバカにしてるだろ、と伊月のこめかみに青筋が立ちかけて、
「つまり。それが『IPウイルス感染症』です」
静かに続けられた声が、沸騰する思考を断ち切った。
「設計図たる遺伝子に混ざり、拡がり、設計図そのものを歪めてしまう。このお茶だった液体が、お茶でなくなってしまったように。————そういう病なんですよ、これは」
「…………、」
「そして、繰り返しますが。間違った設計図からは間違った物しか生まれない」
この液体をご飯にかけたところで、それをお茶漬けとは呼べないでしょう?と。
そう言った三条は、笑っているみたいだった。
「それと同じです。変質してしまった遺伝子からは、変質した体しか生み出せない。そう、例えば」
酸素が毒になってしまう体とか、と。
本当に。
風が吹いただけで砕けて散ってしまいそうなほどはかなげな顔で、三条は笑っていた。
「酸素が致死量に至る限度は、もって十年」
淡々としたその声に、感情らしい起伏はない。
だけど、
「皮肉な話ですよね。生きるためには酸素を取り入れなければいけないのに、それが命を喰っていくっていうんだから」
そう零した三条の手は、白くなるほど握りしめられていた。
「…………、」
伊月修哉は、考える。
人でなくなる、という言葉の意味を。砕けてしまいそうな三条の笑みを。
人は生まれた時から死ぬことが定められている。人生に永遠などというものはなく、命はやがて朽ちていく。それは誰しもに課せられた宿命で、世界へ平等に与えられた唯一のシステムだ。
だが。
その終わりを突き付けられたまま生きていくというのは、一体どんな気持ちなのだろう。
人が人として正常を保っていられるのは、いつか来る死という終わりから目を逸らせているから。いつか来ると分かっていても、それがいつ来るのかなんて考えることもなく生きていられるからだ。
では、そのいつかが明確に定められてしまったら?
きっと、人は壊れる。終わることを明確に意識してしまえば、終わるために歩いているのだと知れば、きっと正常なんて保ってはいられない。————否、正常を保つことになんて何の意味も感じられなくなってしまう。
「…………、ああ」
確かに、それは地獄だ。
その、地獄。
そこに生まれる苦悩はいかほどか。その事実が孕む狂気はどれほどか。
伊月には想像もできない。想像しようと考えるだけで、心が罅割れてしまいそうになる。
そんな感情を、そんな苦しみを、眺めることすらおぞましい。
それでも。いや、だからこそ。
伊月修哉は問いかける。
「…………なあ。お前が追ってる彼女ってのは、そいつに感染してるんだよな」
「……、はい」
「そうか」
伊月は、なんてことないように頷いた。
話の流れからしても、そこに疑う余地はない。分かり切っていたことだ。
だから、これはただの確認作業。少女が『感染者』だと断言されたところで、なんの感慨もない。
あの少女がどんな苦悩を抱えていようが、どれほどの狂気を抱えていようが、そんなもの
伊月が聞きたいことは、そんなことではない。本当に問わなければならないことは、
「教えろ。それは、俺にも
たった一つ。重要なのは、
少女と伊月は既に一度交差している。少女の体を蝕んでいるのが『感染症』と名の付く病である以上、接触した伊月に伝染っている可能性は嫌でも頭に浮かぶ。
もしも、そうだとするなら————、
「え?いや。それはないですけど」
だっていうのに、三条はキョトンとした顔でそう言った。
「え?……え?待って待って。今俺ちょっとっていうか、かなり悲壮な感じで覚悟決めてたんだけど……え?そんなあっさり風味で否定とかしちゃっていいの?こう検査とか……そんな感じのなんか、ないの?」
「いやいや、大丈夫ですって。言ったでしょう?並大抵のことでは感染しませんって」
「…………、」
驚くべきことに、三条はナイナイと手を振って笑いやがった。
「第一、もしも伝染っていたらあなた自身がそれに気が付くはずですし」
「……どういう意味だよ」
「うーん……、まあ感覚的な話なので説明するのも難しいんですが」ちょっとだけ困ったように、顎へ手を当てる。「『感染者』の体が普通のそれと違う、というのは先ほど言いましたけど。それの副作用ですかね、『感染者』には同じ『感染者』の匂いが分かるんですよ」
伊月さん、自分の匂いって分かります?と三条は聞いてきた。
「匂い……っても」伊月は自分の左腕あたりに鼻を近づけてみる。「……なんか、汗臭い」
「まあ夏ですしねえ」
はっはっは、と三条は笑った。
「でも、それ以外の『匂い』はしないでしょう?なら問題はありません。あなたは伝染ってませんよ」
「……そっ、か」
自信ありげにそう断言されて、ようやく強張った体の力が抜けた。
ふー……と空に向かって息を吐く。
赤く染まっていた空模様は、夕暮れと夜の中間のような暗さになっていた。
「そっかあー……」
薄暗い空へもう一度。安堵を込めてそう呟く。
自分が無事なのだと分かれば、もう何も問題はない。張りつめていた神経の糸が切れたからなのか、いきなり空腹感を覚えた。
そういえば昼以来何も腹に入っていないのだった。ていうかその昼食で金も使いきっていたので、腹減ったとか言ってもどうしようもないではないか。
「…………、」
チラリ、と。不味そうにコーヒーとお茶の混ざった劇物を飲んでいる三条へ目を向ける。
この男、確か財布の中に結構な数のおっさんを匿っていた。水を奢ってもらった時のように、なんとか飯もたかれないだろうか、と伊月は下種な顔で考えてみる。
(……なんつーか、勢いで押したらいけそうなんだよなー。話聞いてやった礼とか言って)
と。そんなことを思って、ふと疑問が頭をよぎった。
「……あれ?なあ、おっさん」
「私ですか?……あの、まだアラサーに入ったばかりなので、できればおっさん呼びは勘弁していただけると……」
「んなプライドはどうでもいいから」微妙な抗議を伊月はバッサリ両断する。三条はちょっと悲しそうな顔をした。「確認するけど、その『IPウイルス感染症』ってのはそう簡単に伝染るようなモンじゃねえんだろ?」
「……?ええ。感染している細胞をそのまま取り込む、なんてことでもしない限りは」
「じゃあさ」
伊月はそこで一度、首を傾げて。
すっと三条の顔へ指を向ける。
「あんた、どうしてあいつを追っかけてるわけ?」
最初は三条が医者で、病院を抜け出した彼女を追いかけているのだと思った。だが、それは彼自身が否定している。
だというのに、三条は『追っている』と言っていた。めったに感染もしない感染病に罹っているというだけで必死こいて追いかけ回す必要はないだろう。『理由がある』と言った割には、一連の会話でその理由とやらに繋がるような情報はなかった気がする。
「……ああ、確かに。話していませんでしたね」
空になったペットボトルのキャップを締めながら、今思い出したというような顔をする三条。
「……でもなんか、言っても信じてくれなさそうなんですよねえ、伊月さん」
「あん?いや別に。訳わかんねえ病気の『感染者』だの、そんな話より突拍子ないのもそうないだろ」
というか、伊月自身が無一文で路上生活とかいうかなり信じられない状況に現在進行形で陥っているのだ。大抵のことでは驚かない自信がある。
むしろ、ここまで話しておいて今更渋る三条の方が不可解だった。
「まあ、それなら。信じてもらえなくても問題ないと言えば問題ないですし」三条は頬を掻きながらそう言った。「実は『IPウイルス』によって起こる変化というのは、酸素が毒となることだけじゃないんですよ」
「……へえ」
伊月は神妙に頷く。既に分かっていることだけでもかなりヘビーな状況なのだ。それに追加ともなると、なかなかに雲行きの怪しそうな話だった。
説明している三条の方が、かえってなんでもなさそうに、
「超能力者になっちゃうんです」
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。
「なんて?」
「まあそういう反応するだろうな、とは思ってましたけど。実際されると、ちょっと心にキますね」
「…………、」心にキますね、じゃないが。「……え、なに?もしかしてまた専門用語?『ちょーのーりょく』って病気があるとか?」
「分からないことを全部専門用語で片付けようとしないでくださいよ」
困ったような苦笑を浮かべる三条。
「世間一般的な意味での超能力ですよ、超能力。テレビとかでもあるでしょう?スプーン曲げたりするアレです。まあ、私達は『異能』と呼んでいますが」
「ええー……」
こんな時だけ噛み砕いて説明されても、と伊月は思う。
だって『ちょーのーりょく』だ。
確かに大抵のことでは驚かないと言ったが、それにも限界がある。いくら飽食時代日本でド貧困ホームレスやってる伊月修哉と言えど、流石にファンタジーな世界の話までされてすんなり受け入れられるわけが無い。
「……いやいや、無理。超能力は無理だって。ホラ吹くにも限度があるって言うか」
ないない、ありえない。とかもはやちょっと笑いながら手を振る伊月。
「……本当に、そうでしょうか?」けれど、三条の顔は至って真面目だった。「例えばですが、コウモリは人間の可聴域外の音でも聞き取ることができる。フグは人を殺す程の猛毒を体内で生成している。それも一種の異能とは呼べませんか?」
「いや、それはそもそも人間じゃねえ————」
し、と。呆れながらツッコもうとして、はたと思い出す。
————人でなくなる。
三条は、『感染者』のことをそう呼んでいた。
「…………、」
「ええ、『感染者』も同じですよ。『IPウイルス』によって作り変えられた体を持つ『感染者』は
人の尺度で測れるものではないんですよ、と。
暗く落ちた街の中、そう呟く三条の顔だけが街灯の明かりに照らされて浮かび上がっていた。
「……じゃ、じゃあなんだよ。あいつがその『異能』ってやつを持っていたとして、なんか悪さでもするっての?」
「さあ、それはどうでしょう?するかもしれないし、しないかもしれない」
「さあ、って……」
よしんば、百歩譲って『異能』なんてものがあるとして、それを使って犯罪でも起こそうとしている、というならまだ追いかける理由もわかる。
だが、住宅街の明かりを見つめる三条はそれすらも否定した。まるで、そんなことはどちらでもいいと言うように。
「分かりませんか?」遠い目をしたまま、三条は言う。「これほど異常な病気が、なぜ世間で一度も取り沙汰されていないんだと思います?」
「…………、」
「隠しているんですよ、この国自体が」
まだ蒸し暑い日没直後。その声だけが、真冬のように凍てついていた。
「十年で必ず死ぬ体に、人間の領域を超えた
だからこそ、彼女を野放しにしておくわけにはいかない。
感情の死に絶えた声で、男はそう言った。
『害獣』
自らのことをそう呼んでいた少女を思い出す。
人ではない。害悪の獣、と。
「……そういう、ことかよ」
伊月は歯噛みする。
非日常だと?いいや、違う。これはそんな言葉で済ませられる程度の話ではない。
正真正銘の、異世界。
自分の住まう世界とは、何もかもが違いすぎる。同じ空間を共有するだけのおぞましい異界だ。
「…………、」
伊月は無言で立ち上がる。
もはや一秒だってこんなモノに関わってなんていられない。寝る場所を失うだとか、そんなことを憂う余裕なんてない。
これ以上深入りしたら戻れなくなる。
理性ではなく本能が、そう全力で警鐘を鳴らしていた。
だが、
「————どこへ、行くんです?」
背中へかけられた声が、縫い止めるようにその動きを止めた。
ギギギ、と。
得体の知れない怖気が全身を駆け巡っていくのを自覚しながら、伊月はゆっくりと振り返る。
「一時間と三五分。……まあ、これだけあれば流石に居るでしょうね」
三条と名乗っていた男は、真冬の声で、
ただ告げる。
「ねえ、伊月さん。どうして、私は
「…………、」
「この世界は広い。こんな中で、手がかりもなく彼女一人を捜索するのは不可能に近い。————そう。手がかりがなければ」
トン、と。
男は自分の胸ポケットを指で叩いた。
そこにしまい込まれた、
「……テ、メェ」
その仕草一つで、理解するには十分だった。
————『感染者』には、同じ『感染者』の匂いが分かるんですよ。
なぜ、三条はこの場所に彼女が訪れたことを知っていたのか。
なぜ、『感染者』のことにこれほど詳しいのか。
なぜ、伊月修哉が『感染者』ではないと断言できたのか。
その全てに、たった一つの可能性だけで説明がつく。
つまり、
「……お前も、『感染者』ってわけかよ……ッ!」
「ご名答」
白々しい拍手の音が響いて、
「さて、それではボーナス問題です。————秘密を知ってしまった一般人は、その後どうなるのがお約束でしょう?」
「……自、分から話しといて、それは。卑怯なんじゃねえのかなあ……」
苦し紛れに笑みを浮かべようとして、強ばった表情筋がそれを阻害する。
出来損ないの表情の裏、忘れていた記憶が走る。
————殺されかけちゃったからね。
————背中からこう、グサッと。
そう言った少女の背中は何で染め上げられていた。
「すみませんね。できれば、この方法は取りたくなかったんですが」
上っ面だけの微笑を向けてくる三条。その両手。
ダラリと下げられたそれから、伊月は目を離せない。
「まあどの道、今か後かの違いでしかありませんので気負わずに。……まあ、私としては今死んで貰わない方がありがたいのですが」
下げられた手が、静かに動く。
直線で揃えられたその実態は、五指を装った鋭槍か。
「あるいは、さようなら————願わくば釣れてくれますように」
ドグシャッッッ!!!!と。
血を抉る水音が爆ぜ響いた。
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