第5話 3

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………、なあおばちゃん」

「なんだい」

 昼時。

 伊月はドシリアスな顔で食堂のおばちゃんと対峙していた。

「物は相談なんだが……この牛丼、あと五円まけてくんないかな?」

「ダメにきまってんだろう」

「なあ頼むって!俺とおばちゃんの仲だろ!いいじゃんか五円くらい‼」

「あたしゃ、たかが五円をまけてくるような奴と縁を結んだ覚えはないよ」

「この……っ、こっちは全財産五二五円一本勝負で明日をも知れない身なんだぞ!情とか慈悲とかねえのかクソババア‼」

「アラフォー女性目の前にしてあんた今なんつった‼」

 バチバチに火花を散らす二人の横を、伊月と同じ制服を着た生徒たちが暖かな湯気を立てる料理とともに通り過ぎる。やたらと美味そうな香りが鼻孔をくすぐって、伊月の空腹感は加速度的に煽られていった。

 若干引き気味に距離を取りながら奇異の目を向けてくる女生徒が持つヘルシーランチセット五八〇円をガン見しながら伊月は再度口を開く。

「…………、よし。じゃあこうしようおばちゃん」

「…………なんだい」

「世の中には出世払いって言葉があるの知って、」

「ダメだね」

「せめて最後まで言わせろよ!食い気味に否定しやがって、なんだってそう冷たいわけ⁉」

「あんたが出世する未来が見えないから」

「テメェ!俺がたった五円分も出世できねえつったか今!」

「そのたった五円が払えていないのはいったい誰だいクソガキ‼」

 ああ言えばこう言うクソババアめ……っ!と伊月は融通の利かない食堂のおばちゃんを睨みつける。たかが寸胴鍋と大容量ジャーで大量生産してる味もへったくれもない牛丼一杯でなぜこうもデカい顔ができるのか。

 ……実際ああ言えばこう言って難癖付けまくっているのはどちらかと言えば間違いなく伊月の方なのだが、昨夜から何も腹に入れていない極限状態の彼に冷静な判断とかできないのだった。

 こうなればテイクアウトで税率変えてでももぎ取ってやる、と伊月は(無駄に)諦めない不屈の炎を心に宿して再戦を試みるため頭を高回転させ、

 カチン、と。

 横合いから伸ばされた手が音を立てた。

「————ほい、五円。これでええ?」

 見ると、いつの間に寄ってきていたのか、中途半端な金髪の男が立っていた。

「…………、何のつもりだよ、お前」伊月はウザそうな顔で声をかける。

「助けてあげたってのにご挨拶やなあ」男はそう言って苦笑した。「ウチはただ困ってるしゅーやを見るに見かねて善意の施しをしただけやっちゅーのに」

「…………、」

 何が善意の施しだよ、と伊月は表情を苦らせる。

 ちょっとイキってみたいけど生活指導は怖いからギリギリ地毛で押し通せそうな程度にして下さい、とか世界一ダサい注文の仕方で染めたらしいこの中途半端な金髪男のことだ、どうせ五円の貸しをかさにまた面倒ごとを押し付けてくるに違いないのだった。

 終業式を終えた直後であるこのタイミングを考えるに、大量の宿題を代行させてやろうという魂胆か、とアタリをつけてみる。ただでさえクソ面倒臭いのに、何が悲しくて自分から貴重な夏休みを真黒く染め上げなければならないのか。いくら極限の飢餓状態で判断力が鈍っているとはいえ、そんな不平等条約など結ぶわけがない。

 わけがない、のだが。

「…………、ちくしょう……」

 気づけば、伊月は食堂の机で突っ伏していた。

 彼の前には安っぽい丼に盛られた牛肉がどっしりと鎮座している。いかにも作り立てですとでも言いたげに湯気を立てているのがかえって皮肉だ。

 立ち上る醤油と肉の香りを眺めながら伊月は思う。

 ごめんね、平和な夏休み。

 やっぱり食欲には勝てなかったよ。

「どしたん?食べへんの?」

 と。闇に葬られた夏休みちゃん(一七歳。美少女)を偲んでほろりと涙を零す伊月のことなど全くお構いなしに、能天気な声をかけられる。

「……いや、なんか。これ食ったらもう後戻りできない気がする」

「?金払っちゃった時点で後戻りなんかできへんやろ。何言うてんの?」

「…………、」

 至極真っ当な正論を叩き込まれ、伊月は沈黙した。その正論を言っているのが目の前で満腹ランチセット九八〇円を無造作に頬張っているエセ金髪じゃなかったら素直に頷けるのに、と彼は思う。

「それより、しゅーやはなんだってそんな金欠なん?」

 学食でも一番やっすいやつやんかそれ、と金髪は握った箸で牛丼を指す。

「……言えない。言わない。言いたくない」

 その顔からしてただの純粋な興味なんだろうが、ここでバカ正直に「実は家がなくなっちゃって……」なんて言うには昨夜の傷が深すぎた。どうせ話したら待っているのは美山京子バリの爆笑に決まっている。

 わざわざ自分から見世物になってたまるか、と伊月は牛丼をかきこむことで拒否の姿勢を表してみる。

「まあ大体想像つくけどな」

 その姿に何を勘違いしたのか、金髪は分かってますよとでも言いたげな顔でニヤリと笑った。

「どーせ夏休み前のハイなテンションでゲーセンとかハシゴしちゃったんやろ。分かるでー、ウチも昨日は意味もなくソシャゲ徹夜周回かましちゃったしな」うんうんと金髪は一人で頷いた。「おかげで終業式とか全部寝くさってもうたし。校長デブの話とか一言も頭に入ってへん」

 ……なんかとんでもなくバカな方向性で納得されてしまったらしい。

 普段なら一緒にするなと吐き捨てるところだが、こと今回に限ってはそっちの方がまだマシに思えたのでもうそのままにしておくことにした。

「あー……、まあ。そんな感じ」

「せやろー!やっぱウチって洞察力あるわ!」

「…………、」

 勘違いしてくれていたほうが都合がいいと分かってはいるが、無意味にはしゃぐ金髪を見ているとそれはそれで苛立たしくて、伊月はげんなりとする。

「けどしゅーや、あんまりハメ外しすぎてもあかんで?最近センセーも厳しいらしいから」

「……あん?」

「ほら、深夜徘徊とか。見つかったらすぐ補導されるんやって」

「…………、お前、そんなことばっか気にしてるからいつまでたっても中途半端なんだと思うぞ。人工金髪」

「んなっ⁉人工金髪とか言うなや!これは地毛だって言ってるやろ‼親父イギリス人のハーフやねんウチは‼」

「年中タンクトップでうろつくバーコードがイギリス人な訳がねえだろ。全英国紳士に土下座しろバカ」

「おま、お前っ!人の親捕まえて何言うてんねん!意味もないのに毎晩育毛剤塗ったくってる健気なウチの親父に謝れや‼」

「うるせーバカ」

 なんやと⁉と勝手にヒートアップしていく金髪を無視して、伊月は牛丼のつゆでふやけた白米を口に運ぶ。

(……親父か)

 そう言えば、俊介は一体どうしているのだろう、と彼は思う。

 あっちはあっちで大変そうだ。

 他人のことに気をまわしている余裕なんて彼自身あるわけではないが、流石に身内ともなればそうも言っていられない。あんなバカでも、一応長年共に過ごしてきたのだ。心配する程度の情はある。

 他人にとんでもない額を踏み倒されて一家離散に追い込むような奴なのだ、下手したら消費者ローンとか闇金とか危ない方面に手を出しかねない。それも無自覚に。

 もはや簡単に想像がつきすぎて、伊月は溜息を吐く。そもそも他人に二〇〇〇万などという大金をポンポン貸してしまうその思考回路が根本的に理解不能だ。あまりにも人を疑うということを知らなさすぎる。

 子供に心配される親ってどうなんだ、と思わなくもないが、それが伊月家なのだから仕方がない。

(……心配、ね)

 そんなことを考えて、自分の思考回路を彼は笑った。

 どうやら伊月修哉という人間はどこまで行っても利己主義者であるらしい。

 世界を自分かそれ以外かでしか見られない独善のフィルター。自分の周囲で誰かが傷つくのを見過ごせるほど冷血でもなく、かといって自分から誰にでも手を伸ばすほど博愛でもない。

 結局は自分が可愛くて仕方がないのだ。

 善悪より好悪。正邪より利害。

 本質、誰かが傷を負うことが嫌なのではない。

 故に伊月は、自らに関係のない誰かになど興味もない。

 そう、例えば。

 一瞬交差しただけの血塗れの少女だとか。

「…………、」

 その人間性が醜いと、そう言われれば伊月にそれを否定する言葉の持ちあわせはない。

 だが、そもそもの話。

「……バカらし」

 嘲笑うように、彼は呟く。

 そもそもの話、そう声高に批判する連中は人間が美しい物だとでも思っているのだろうか。

 そんな訳がない。人間が綺麗なものであるなど、ひどい妄想だ。

 醜く、浅ましく、独善的な、世界の何よりも劣悪に作られた生命体————それが人間。

 だから彼ら彼女らは、それを直視させる存在を許さない。人間が美しいという論説を否定する存在を許さない。それを非難し、批判し、糾弾することを躊躇わない。

 その姿こそ、人間の醜さそのものであるというのに。

「……あのう?しゅーやくん?」

 などと、ちょっと詩的に世界をぶった切っていた伊月へ遠慮がちにかかる声。

「あん?」

 胡乱気な視線を向けると、金髪が伊月を見ていた。

 さっきまで一人で盛り上がっていた様子はどこかに消え去り、どこか心配そうな表情を浮かべている。

 というか、気づけば金髪の満腹ランチセットはとうになくなっていた。

「なんか黄昏てるところ悪いんやけど、食堂ココ閉まるまであと五分もないで?」

「……は⁉嘘だろお前!」

 慌てて食堂の壁にかかっている時計を見上げる。時刻はきっかり〇時五五分を指していた。

 で、伊月の前にはすっかり存在を忘れ去られ半分以上残っている冷え切ってしまった牛丼。

「バカお前なんでもっと早く言わねえんだ!」

「ええー⁉そこでウチにキレるの⁉」

 うるせえ黙ってろ!と伊月は叫びながら慌てて箸を取る。全財産はたいて手に入れたエネルギー源なのだ。時間切れでお残しとか認められるわけがなかった。

「……あ、やばい!喉、喉つまった!死ぬ‼」

「なにしてんねんなお前!」

 こうして、伊月修哉は今日も平和な日常を過ごしていく。

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