第4話 2

 伊月修哉は、満身創痍のボロ雑巾みたいになってシクシク泣いていた。

 その隣で荒めの呼吸を繰り返す少女は、こちらもまたほつれたり破けたりした服を砂塗れにしていた。特に襟元のあたりが酷く、うっかりすると彼女のささやかな膨らみが覗いてしまいそうで、非常に危うい格好になっていたりする。

 で。

 その惨状を引き起こした主犯格である野良猫はと言えば、

「……フニャア」

 呑気にあくびとかしちゃっていた。しかもこのクソ猫、ありえないことに伊月の頭の上でどっしりと腰を落ち着けてしまっている。何度も追い払ったのだが、気づけばいつの間にか戻ってきているくらいには気に入られてしまったらしい。全然嬉しくない。

「…………、なんでシマウマは君にばっかり懐いてるの?あたしが捕まえようとするとすごい勢いで逃げてくのに。理不尽」

「…………、知るか。理不尽とか言う前にまずテメーとクソ猫の鬼ごっこに巻き込まれてボロボロになってる俺に謝れバカ。……あとシマウマってなに?まさかとは思うけど、猫の名前じゃねえだろうな」

 キョトンとした表情で首を傾げる少女。その顔に「そうだけど?」とバカでかく書いてあって、伊月は頭が痛くなる。

 どう考えたって純正日本産キジトラに付ける名前じゃない。似てるのなんてカラーリングだけじゃねえか、と絶望的なネーミングセンスにちょっと引く。

「……はあ。まあ別になんでもいいけど」頭の上でふんぞり返っている猫を掴み上げる。「ほら、名前付けたんだからコイツもうお前のモンな」

 そう言って差し出すと、どことなく不機嫌そうだった少女は一転して嬉しそうに手を伸ばしてくる。なんだか誕生日プレゼントを貰う時の小学生みたいな笑顔だった。

 ちなみに、プレゼント扱いされた野良猫は『貴様ー!俺を売ったな鬼畜クソ野郎!!』とでも言いたげにジタバタ暴れていたが、所詮は小動物。あえなく少女の両腕にガッチリホールドされ、全てを諦めたようにガックリと項垂れた。

「……?君、どこか行くの?」

 その光景を尻目に立ち上がり、学生服に着いた砂を払い落とす伊月を見て、少女は不思議そうにそう聞いた。

 伊月はポケットにしつこく残る砂を掻き出しながら、あー?と答える。

「俺の格好見りゃ想像つくだろ。学校行くんだよ、学校」

「学校……」

 ポツリとそう繰り返した少女の声は、微かに寂しげな色が混ざっていた。

 それを聞き流しながら、ついでなので尋ねてみる。

「つかお前こそ警察とか病院とか、行かなくていいわけ?」

「……ん、いいんだよ」

 行ったってどうにもならないしね、とよく分からないことを言って少女は苦笑した。

 彼女の話が仮に全部本当だとして、心臓ぶち抜かれたような状況は普通に警察沙汰だし救急搬送が一般的な対応だと思うが。

 まあ、意味の分からないことに傷は綺麗さっぱり塞がってたみたいだし、別にいいと言えばいいのか、と伊月は髪に付いた猫の毛を払いながら思い直す。それでもなお、と強制するような義理や権利なんて彼は持っていないのだし。

「ふーん……、何だっていいけど」払った猫の毛が鼻孔を刺激して、くしゃみが出る。「……、あークソ。風呂入りたい……」

 むず痒さを主張する鼻を啜って、顔を顰める。

 よく考えてみれば、昨日から意味もなくハードなイベントに巻き込まれてばっかりなのに、風呂とか飯とか人間の基本的生活イベントは全部すっ飛ばしちゃってるのだった。全身汗だの砂だの猫の毛だので気持ち悪い。

 こんなことなら美山の家に泊めてもらったほうがまだマシだったかもなあ、と伊月は遠い目で後悔してみるが、きっと泊まったら泊まったでそっちもろくな展開にならなかったであろうことは目に見えていた。

「……まあ過ぎたこと言っても仕方ないけど」

 結局どっちだって一緒だ、と伊月は溜息を吐く。

「おいそこで猫いじくり回してるお前」

「ん?」

「お前もいい加減どっか行けよな。いつまでも居座られたって迷惑だし」

「……居座るって、ここ君の家なの?」

 少女はそう首を傾げ、周囲を見回してからもう一度伊月に視線を合わせる。訝しげなその目が「何言ってんだこいつ」と言外に語っていた。

「うるせえな、いいだろ別に。とにかくこの場所は俺の寝床なの。行き倒れだかなんだか知らねえけど、やるなら他の場所で勝手にやってくれ」

「ふーん?」少女はさして興味なさそうな感情の載っていない声で、「うん、わかった」

「……なんか、物分かり良すぎて逆に怖い」

 意外にもあっさりと頷いた少女に伊月は眉をひそめる。大人しそうな割にナチュラルな自己中心さがある彼女だ、納得させるまでにもう二つか三つクッションを挟まなければいけないと思っていたのだが。

「うん?別にそんなのじゃないんだよ?」

 少女は完全に生気を失っている猫の前脚を万歳させながら、

「最初からそのつもりだったし。いつまでも同じ場所にいると、見つかっちゃうからね」

「……見つかる?って……誰に?」

「うーん、誰だろうね?研究所か、『感染者』か……とにかく、、かな」

 少女は、笑っているみたいだった。

「『匂い』を辿られるのも時間の問題だし」

 君を巻き込んじゃうわけにもいかないからね、と。

 本当に。何の感情も混ざっていない顔で。

 透明に笑いながら、彼女はそう言った。

「…………、」

 伊月修哉は考える。

 殺そうとしている、という言葉の意味を。背中を染める夥しい紅の奥を。色のない笑顔の裏を。

 伊月は、未だに少女の抱えている事情なんて何も知らない。少女が語った言葉の意味だって、ほとんど理解できていない。そもそも、その言葉が真実なのかすら疑わしいと思っている。

 それでも、彼女の背負う紅黒い血痕だけは本物だった。

 普通なら死んでいたっておかしくないほどの傷を受けていたということだけは、疑う余地のない事実だと理解できた。

 だから、


「あっそ。じゃあ、なおさら早くどっか行ってくれ」


 だからこそ、伊月は彼女に背を向ける。

 自分には関係ないと。そんな非日常に関わるつもりなどないのだと、その後ろ姿は語っていた。

「……うん、そうする」

 振り返ることのないその背中を、少女は微笑って見送った。

 硝子のような、どこまでもどこまでも透明な微笑で、見送った。

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