1章 幕開けは奇抜とともに
第3話 1
ジリリリリリ!!と。
雑音と呼ぶにはけたたましすぎる音で、伊月修哉の意識は叩き起された。
「————、っ」
薄く瞼を開けて、予想外の明るさに顔を顰める。
何度か瞬きを繰り返し、ゆっくりと世界にピントを合わせていく。
「————ぁ?」
最初に感じたのは困惑だった。
空。雲ひとつない青空が視界いっぱいに広がっている。……壁紙?と寝起きの回らない頭で考えてみるが、それにしてはリアルすぎた。というか壁紙なら真上を鳥が横切って行ったりしないし、明け方の乾いた風が頬を撫でたりもしない。
と、そこまで考えて。
「………、あー……」
そう言えば家無くなったんだった、と遅れてやってきた記憶をげんなりしながら受け止めようとしてみる。受け止めきれなくて更に表情が渋くなった。
顔を射してくる朝日にすら笑われているようで苛立だしい。人が不幸の真っ只中にいるというのにどうしてこうも張り切った快晴なのか。少しは雰囲気とか心境というものを考えて仕事しろ。
「…………、しんどい」
とはいえ、そんなことを言っても仕方が無いのも分かり切っているのだった。はあ、と溜息を挟みながら伊月は身体を起こそうとして、
「重っ!?」
予想外の自重に潰れる。バフっと音を立てて少し砂塵が舞った。
いくら精神的に弱っているとはいえ、これはおかしい。まるで鉛の塊でも胸元に乗せられてるような感覚に彼は呆然と空を見上げる。そもそも、背中の感触からして妙だった。昨夜確かに敷いたはずのビニールシートではなく、妙に砂っぽい。
一体どうしてわざわざ作った寝床で寝ていないのだろう?と内心首を捻りながら昨夜のことを思い出してみる。
「……あ」
唐突に、背筋が小さく震えた。
脳裏で再生されるのは猛り狂った般若の顔。
そう言えば、昨日はなんか知り合いにあったような気がするし、家に誘われたような気もする。ついでにそれを断ったらプロボクサー並のとんでもない勢いでアッパーカットが飛んできたような気もしたのだが、その辺から記憶が曖昧だ。
「あの暴力女め……」
ということはさっきから鈍く主張する顎の痛みも気のせいではなかったということか。一晩経っても身体を起こせないほどの後遺症が残るとか、なんてバカげた力をしてるのか。
次会ったら絶対文句言ってやろうと決意を固めかけて、
「…………、うん。やっぱやめよう」
顎に手を当てて考え直す。喧嘩は良くない。大事なのは
それにあの美山とかいう女、よく思い出してみたら空手の全国大会まで出場するような猛者なのだった。なんかその手の賞状とか毎月のように貰っていると聞いた覚えがある。そんな奴が素人相手に本気のコブシとか出していいのかよ、と伊月は舌打ち。
というか、それはそれとして————、
「————ああもう!クソあっちい!!」
いい加減我慢の限界だった。釣り上げられた鰯よろしく天日干しなんぞやってられるかーっ!と渾身の力で勢いをつけて身体を起こす。
同時。
「?」
急に軽くなった胸元に、なんだなんだ?と首を傾げてようやく自由に動かせるようになった視界を自分の身体に下げてみる。
と、なんか白と黒の得体の知れないモノがあった。
伊月にしなだれかかるような格好で覆い被さるソレに「……ぬいぐるみ?」などと場違いな感想を持つが、もちろん伊月修哉はぬいぐるみを抱えないと寝られないようなお子様ではないし、この状況下でわざわざこんな等身大サイズのぬいぐるみが出てくる道理もない。
なので、よく見たらそれはぬいぐるみではなかった。
白い服を着た少女が、伊月修哉の上で倒れていた。
「……………………………………………………わぉ」
突拍子が無さすぎる展開に、もう一周回ってリアクションは薄くなった。
昨日から普通じゃないイベントが目白押しだとは思っていたが、ことここに至って完全に極まった感がある。人生何が起きるか分からないとは言うが、それにしたってこんなの予想できるわけがない。
少女は、眠っているみたいだった。日向で微睡む犬のような完全に脱力した格好で、規則的に寝息を立てている。
息を吸う度に少しだけ背中が上下して、かかっている長い黒髪が音もなく揺れ動く。
そして、
「……病人?」
彼女は病院服のようなものを着ていた。伊月はファッションとかへの興味が薄いので断言はできないが、上から下まで白一色の不格好な甚平っぽい服が『今期イチオシ!厳選カワモテ女子コーデ♡』とか言われてるイメージは湧かないので、恐らく私服じゃないんだと思う。
ピクリ、と少女の背中が震えた。
もぞもぞと芋虫みたいに体を丸めてから、緩慢な動作で頭を持ち上げる。寝起きで脳が回っていないのか、投げ出された伊月の脚を眺めて不思議そうに首を傾げ、のろのろと視線を上へ辿らせて来る。
(……うーっわ…………)
少女は、とてもという言葉を付けてもいいくらいに可愛らしい顔をしていた。綺麗、なのではないと思う。コケティッシュに小さく纏まった造形と、眉にかかる程度で切りそろえられた艶やかな髪。対比するかのように真っ白な肌は、やはり病人だからなのだろうか。
「…………?」
少女は開き切っていない黒い瞳でぼんやりと伊月の顔を見上げて、自分の寝そべっていた場所を見下ろして、自分の寝乱れた服装を見直してから、もう一度首を傾げて、
こう言い放った。
「……ちかん?」
「…………………………………………………………、は?」
ちかん?ちかんってなんだっけ、置換?
脈絡のない言葉に停止しかけた思考回路が意味のわからない変換を返してくるが、自分の身体を抱きながら後退る少女を見るにもっと物騒なニュアンスらしい。
「ちかんって……、ちかん?痴漢!?おい待てふざけんな!先に寝てたの俺!一晩中下敷きにしてた人間に対して雑に冤罪かけすぎだろお前!!」
「けだもの……」
「聞けよテメェ!」
「汚された……嫁入り前なのに……」
「もしもし?もしもーし?俺の声はナチュラルにBGM扱いですかこの野郎」
なんなんだこいつ。新手の当たり屋か?
だとしても公園で野宿するホームレス狙いとかあまりにも需要がニッチ過ぎる。衣食住すらまともに満たされていない貧乏人からこれ以上何をタカろうというのか。
本音を言えば、ものすごく逃げたい。いくら遊具の陰で道路からは見えにくくなっている砂場とはいえ、時間帯的にはそろそろ通勤通学ラッシュが始まる頃だ。ぎゃあぎゃあ騒いでいたらいずれ誰かに見咎められるのは想像に難くない。そして痴漢冤罪は冤罪をかけられた側が圧倒的に不利だということを伊月修哉は知っていた。
もう本当、すごくすごく逃げたい。
(……でもなあ)
伊月は猜疑心をこれでもかとぶち込んだ目で、わざとらしくすすり泣く被害者ヅラの少女を見てみる。
仮にここで逃げ出したとして、万が一にも本気で警察に駆け込まれたりしたら結局同じなのだ。
誤解だったと認めさせるまでには至らなくとも、最低ラインとして和解したという言質くらいは取っておかなければ気が休まらない。
心の底から重い溜息を吐いた伊月は、面倒くさそうな顔で口を開く。
「つーかお前こそなんなの?俺の主観としてはぶん殴られて目が覚めたら敷布団にされてたって認識なんだけど」
「……、あたし?」
「俺とお前しかいないこの状況で他に誰を指すんだ。そこらの野良猫に話しかけるほどメルヘンチックな頭はしてねーぞ俺は」
野良猫、という単語に反応したのか、縄張りを主張するかのように伊月たちの周りをうろちょろしていた三毛猫が不満そうに鳴いた。
少女はちょっと興味を引かれたようにそちらを見て、
「敷布団にしてたわけじゃないんだよ?」
「……掛け布団になってあげてたとか言うんじゃねえだろうな」
「?あたしは布団じゃないけど?君もしかして失礼な人?」
「…………、」
なんだろう。初対面の人間にいきなり冤罪吹っかけるような奴から礼儀知らず扱いされるのがここまで腹立たしいものだとは思わなかった。
だというのに少女は純真無垢な顔で首をかしげているのだから始末に負えない。なんだか怒る方がバカみたいだ。
伊月はガリガリと頭を搔いて、
「じゃあなんだって
自分のことは意識的に棚へぶん投げた上でそう聞いてみる。
大抵の諍いは相互理解の薄さから生まれる、と偉い人も言っていた気がするし、まずは相手の状況をよく知らないと誤解を解くことすらままならない。
と、そんな感じで頭よさげな論法をぶち上げてみる伊月。
……なのだが。
「にゃーん?」
「……おい。呑気に野良猫誘ってんじゃねえよ、目の前で途方に暮れちゃってる伊月さんはガン無視かコラ」
「……、あたし?」
「なあまたやんの?さっき全く同じくだりやったばっかなんだけどまたやんのそれ?」
本当になんなんだこの不思議少女。名指しで呼ばれないと話しかけられてることすら認識できないバカなのか。
そこまで考えて、そう言えば名前も聞いていなかったと気がついた。
「なあ、そこで猫と戯れてる推定女子中学生」
「……、あたし?」
「それはもういい」溜息混じりに少女の問いかけをいなして、「それで、結局お前はどこのなに子ちゃんなわけ?」
「……ちょっと何言ってるか分からないけど。もしかして名前を聞いてるの?」
「それ以外に何を質問してるように聞こえたんだ……?一言に一回はボケを挟まないと気が済まないのお前?」
もうなんか一周まわって怒る気すら湧かない。
げんなりと呆れ果てる伊月を尻目に、少女は「うーん……」と猫を撫でくりまわしながら困ったような顔をして、
「……忘れた」
「は?」
「そんな顔されても忘れちゃったものは忘れちゃったから仕方ないんだよ?だって、」
終始ぼんやりとしていた表情に、僅かながら不満げな色を混ぜて少女は言った。
「
「…………、」
寄せかけた眉間の皺が、中途半端なまま固まった。
「……む。そんなに驚くようなこと?」
少女は、それをなんとも思っていないみたいだった。
「別に名前がなくたって生きていけるし、そこまで大した話でもないと思うんだけどね」
虚勢でも、なんでもなく。
ぼんやりとした顔でそう口にする彼女の声は、本当になんでもない事を語るようだった。
「生きていけるって、お前……」
またわけのわからないボケなのかとも疑ってみるが、彼女はいたって真面目にそう言っているっぽかった。それはそれでわけがわからないのでどっちにしても困る、と伊月は困惑した表情を受かべる。
「……あ、なに?なんかあだ名で呼ばれてたとか、そういう感じ?」
「うん?んー……まあ、そんな感じ?あだ名っていうか、『被検体名』っていうほうが正しいかもだけど」
なんとか理解してみようと尋ねたら意味不明な新単語を出されて、一層わけがわからなくなる。『被検体名』ってなんだ。ちょっと前に流行した理系女子とか言うやつか?
野良猫に向かってお手を仕込もうとしている少女は、誰からも名前を呼ばれないなどというヘビー極まる事情を背負っているようになんて全然見えない。ていうか、少女の言っていることは本当なんだろうか?全部彼女の勘違いという方が納得できる。なにせ、自分が呼びかけられていることすら判断できない人間なのだ。周囲が名前で呼んでいてもボーっとしてて気づかないとか普通に有りそうだった。
「……まあなんでもいいけど。じゃあもうこの際『被検体名』?でもなんでもいいや、なんて呼ばれてたわけ?」
「害獣」
「ブッ⁉普通に悪口じゃねえかそれ!」
もはや人間扱いすらされていなかった。不穏すぎる名称に伊月は思わず咳き込む。急に派手な音を立てた彼にビビったのか、野良猫が逃げ出そうとしてとんでもない速度で少女に捕まえられた。さっきまでミャーミャーと可愛らしく鳴いていた猫がニギャッ⁉とか小動物としてどうなんだという声を漏らす。
少女の両腕に抱きかかえられ(婉曲表現)ながら、なんだかすごく恨めしそうな目でこちらを見てくるが、どっちかっていうとその目は少女に向けるべきなんじゃないかと伊月は思う。
「……いや、ていうかそんなことはどうでもいいんだ」ものすごく脱線した路線を強引に元へ戻してみる。「結局、害獣ちゃん?害獣さん?……とにかくお前はどうしてこんなとこで眠っていたわけ?」
「んー?」
なんとか逃げ出そうと暴れる野良猫を力尽くで抑え込みながら、少女は首を傾げる。
「どうしてと聞かれたら、行き倒れてたから」
「行き倒れ?」
うん、と彼女は軽く頷いて、
「殺されかけちゃったからね」
「…………、なんて?」
また突拍子もない不穏ワードを突っ込まれて、伊月の理解度はもう完全に置いてけぼりをくらった。
「だから、殺されかけちゃったんだって。背中からこう、グサッと一突き」
「……いや、そんな魚の捌き方みたいに言われても」
「あ、信じてないね?」
「……信じるもなにも、お前ピンシャンしてるじゃん」
座り込む少女を上から下まで眺めてみる。とんでもなく肌が白いことを除けば、健康体そのものといった感じだった。グサッと一突きどころか、かすり傷すら負っているように見えない。
…………。
なんだろう。やっぱりこいつ妄想癖の電波女かなにかなんじゃないだろうか。
「…………、ものすごくバカにされてる気がするんだけど、その顔」
「……ぃや、バカにするっていうかイタすぎて見てられないっていうか」
「あー、そういうこと言うんだ。じゃあいいよ証拠みせるから」
「……証拠だあ?んなもんどこにあるってんだよ、血塗れの包丁とか出して来るつもりじゃねえだろうな」
電波女扱いがよほど気に入らなかったのか、少女は鼻息荒く伊月に背を向けると、抱えていた猫から片手を外して背中にかかる長い髪を勢いよく捲りあげる。
「はいどーん」
「なっ、————⁉」
露になる後姿はシルエットを隠すような白い病人服を着ていてさえ、あまりにも華奢だった。触れれば折れてしまいそうなほど儚いくせに、完璧に均整が取れているシルエットはそれ自体が一種の芸術品のようだ。
だが、伊月が見ているのはそんな所ではない。見るべき場所は、その程度のものではない。
芸術品じみた背中。その中心。
心臓のちょうど裏側に当たる部分が、
「ぁ———、え?」
認識が、凍結する。
視界から届いているはずの情報は、しかし処理することを理性によって拒絶される。
それでも、本能がそれを先に理解してしまった。
視神経を辿り脳を侵す紅———それは、紛れもなく大量の血なのだと。
「…………、な、んだよ。それ」
冗談では済まされないその光景に、辛うじて発した声すら掠れていた。
しかし、
「ふっふーん、どう?これならいくら無礼な君でも信じる気になったんじゃない?」
「…………あ?」
正面からかけられた、状況にそぐわない調子の声で現実へ焦点が引き寄せられていく。
動揺が拭いきれないまま、ゆっくりと顔を上げる。
少女は、どことなく勝ち誇ったような顔で伊月のほうに振り返っていた。
「……って、どうしたの?幽霊でも見たような顔して」
「…………、その、傷は」
「うん?ああ、これ?大丈夫だよ、
少女は何てことなさそうにそう言った。
そんなはずがない。服を染める血痕はどう見たって致死量だし、仮にそうでなかったとしても素人治療でどうにかできるレベルなどとうに超えている。
「……嘘だろ」
けれど、確かに大きく破れた布地の隙間から垣間見える肌にはそれらしい傷一つない。いいや、そもそも、これだけの傷を負っておきながら傷跡すら残っていない。
「————、」
見えているものが見えている現象を否定するという矛盾。世界の摂理というものが正しく機能していないような理不尽。それが、伊月の背筋に言語化できない悪寒を覚えさせる。
殺されかけちゃったからね、と。
彼女は、なんの躊躇もなくそう言っていた。
伊月修哉は、彼女の事情なんて知らない。興味すらない。『殺される』ということをなんの躊躇もなく言ってしまえる境遇に、興味なんて湧くわけがない。表層をなぞっただけの今でさえ、妄想や虚言で片づけてしまいたい気持ちでいっぱいだ。
だけど、眼前に広がるたった一つの現実。
夥しい量の血を撒き散らしておきながら平然としているという、目の背けようがない現実がそれを許してはくれない。
だから、
「あっ、ちょ!待って‼」
と。クソ真面目にシリアス顔をしていた伊月の正面から、そんな声が聞こえた。釣られるように顔を上げて、彼は目にする。
片腕になって弱まった圧力から渾身の力で抜け出し、自由を求めて伊月修哉の顔面へ飛び掛かってくる野良猫の姿を。
本能を刺激された結果か、剥き出しになった鋭い爪を。
「は⁉ちょ、待て!少しは空気を読めクソ猫————‼」
額のあたりから、洒落にならない音がした。
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