灰まみれの手を

(前回までの話)

取調2日目、辰実に耳の痛い事実を突きつけ続ける饗庭であったが、更に突き付けられた事実は、槙村が"わわわ"に移籍するという話であった。


更に日登美への執着が消える事なく、同じようにシンデレラストーリーを歩いてきた愛結を"妻に迎えたい"という話については辰実も理解できないまま危険性を感じていたのである。



 *


「釈放やな」


悔しがるもせず、喜ぶもせず、辰実からの報告を静かに聞いていた宮内は低い声で言った。ここまでの話で饗庭も"脅されている"事から少しは被害者であると言っても良い上に、ここで"協力者"となった者を逮捕する訳にもいかない。


「分かりました」


片桐は低く返事をすると席を立ち上がろうとする。続いて駒田と重衛も立ち上がるのは、"何かあってはならないため、単独行動を避けるのは基本"という警察活動の基本に則った行動だろう。


更に席を立った辰実と梓の様子を見た片桐も、さすがにこう言うしか無い。


「2人は少し休んでなさい」

「饗庭の釈放ぐらいは俺が行きますよ」

「私も、まだ大丈夫です」


いつもなら、穏やかに2人の動きを見守っていただろう。しかし状況が違う今、片桐は少しでも心を鬼にして2人を制止しなければと考えていた。



「自販機でコーラでも買って飲んで来なさいな。上司が"休め"と言ったら休むのも立派な仕事よ、2人とも理解しなさい。」


辰実は、静かに深々と頭を下げた。梓も辰実の様子を理解したのか、辰実と一緒に引き下がる。自分だけで行動する訳にはいかないからだ、と思ったのは2人の間に確実な信頼関係ができている証拠だろう。


「分かりました、よろしくお願いします」


座り込んだ辰実の表情は、梓が今までに見た事が無いモノだった。動揺、怒り、奮起、この1ヶ月と数週間の間に"幾度となく"見てきた。そのどれとも違う顔色は、饗庭が伝えた事実からなる"痛み"だろう。忘れようとしても忘れられない程の苦痛が、また現実のものとなって彼を苦しめているのだ。


(黒沢さんは、痛みと戦っている…)


恋人を奪われた苦しさ、そしてそれを秘密にしていた事を明らかにされた苦しさ、やっと妻との安息が続くと思えば次は"妻と"同じように引き裂かれてしまう。まるでそれが運命づけられていたかのように、それでも納得はいかないだろう。


梓の中で知らず積もっていた気持ちが何であるか気づいたのは、その時だった。ただ"苦しんで欲しくない"という気持だろう、苦しい時は手を差し伸べ、いつだって自分の行く先を示す"明星"でいてくれる彼への気持ちを。



「休憩して来いや」


促されるまま、辰実は席から立ち上がると続いて梓も立ち上がる。歩き出すと立ち塞がるように前に立った知詠子に見せた様子も、どこか疲弊の感じがしていた。



「知詠ちゃん、悪いけど今はそっとしておいてくれないか?」

「…………」


捜査二課の手前上、そうもいかないと知詠子は思っているのだろうが、様子を察して辰実を制止する事なく見送ろうとするも、左腕を伸ばし梓の進路を塞ぐ。


不機嫌そうな梓の眼の奥を覗き込んでいた知詠子から、"斬られそうな緊張感"が感じられなかったと気づいた時に梓にしか聞こえない声で口を開いた。


"貴女だけよ、あの人は危なっかしいから一緒にいてあげて"


女傑が、本性を見せた。誰よりも尖っていて、それでもって誰よりも強いけど本当にいけ好かない女性は、本当は繊細で優しかった。


今までずっとぶっきらぼうな言葉を投げて、わざと避けるようなやり取りをしていたのは"誰にも見せたくない2人だけの事"があるのだろう。…でなければ"あの人"なんて言うだろうか?


(黒沢さんを危なっかしいと言う人は、共通点がある)


饗庭が言った事を"失礼だ"と思ってはいたものの、それが実は的を得た一言であった事に気づいた時には、知詠子が辰実を心配している事にも、自分が辰実に対して本当は何を思っているか、何をすべきなのか気づいてしまう。



…それが、辰実の"その先"が決まると同時に梓自身の"その先"を決めてしまう事であったとしても。



 *


自販機で缶のコーラを買ったのに、一向に口をつける事なく辰実は打ちひしがれるように俯いて座っていた。そんな様子に、タイミングなんて雰囲気なんて関係なかった。今ここで、彼がどうにか持ちこたえてくれる事が何よりの願いである。



「黒沢さん?」

「……………」


俯きながらも、梓に視線を向けた辰実。


まだ自分の声が聞こえる余地があった事に、安堵する。


「誰よりも勇敢で、いつも私の事を1人のパートナーとして見ていてくれていたのに、私はずっと何もできる事がありませんでした。」

「…………」


「もしかするとこれが、これだけが私にできる事かもしれません。…貴方が抱えようとしている痛みを、悲しみを、私にも抱えさせて下さい。」


まるで時間が止まったように、辰実は目を見開いて驚いた表情を梓に向けていた。



(私の本当の気持ちも、貴方の痛みや悲しみと一緒に持って行きます)



"すまない"とだけ辰実は低く声を出して答えた。


ただ目の前の状況に膝をつくしかできなかった辰実の表情は、繰り返されようとする不幸であり、悲劇でありに未だ痛みや悲しみを抱えている様子であったが、少しだけ和らいだようでいつもの余裕が出てきたように梓には見えた。


プルタブを起こし、辰実は缶のコーラを飲んでいる様子が、梓にも見える。


嘗ての恋人が灰まみれの地へ落とされたように、辰実も気づかないうちに灰まみれになっていた事を知詠子は気付いたのだろう。…そんな彼を救いたいと思いながらも

"立場上"何もできない事が分かっていたから、自分にできない事を託したかったのだ。本当は自分がそうしたかっただろうという悔しさが、あの一言に幾重にも隠されていた事に気づく。


その気づきが、辰実の"秘密"を欲した事に梓自身が無意識にも誘導されたのは、また数日経っての事であった。




 *



「…盗み聞きしに行かんでええんか?」


辰実の席に座り、辰実のPCを使って捜査二課への報告文書を作成していた知詠子に話しかける宮内。"コイツは女版の黒沢や"と思ったのは、少しこちらを向いた後、"別に行かなくていいです"とぶっきらぼうに答えたからであった。


(よう似とるな)


「今頃、黒沢が馬場ちゃん相手に捜査二課が揃って泡吹き出すぐらいの事を考えとるかもしれへんぞ?」

「ああ見えて黒沢は繊細な男です。…あの状態では持ち直すのが精一杯でしょう?」



"意外と脆い所があるから、あの男は危なっかしいんですよ"



相手がいくら立場が上だろうと容赦なく突き刺してくる知詠子の様子が、宮内には更に辰実と被ったように見えてしまった。


「知ったような言い方やな?」

「貴方がたよりも、私は黒沢辰実の事をよく知っていますので」


細長い指で、キーを乱打する音だけが聞こえる。



(…黒沢がこの女を"厄介"と言わんかった理由がまだワシには分からん。黒沢が水篠を信頼しとるのか、水篠がそれを読んで鵜川が"また"邪魔をしてくる足掛かりになるか、ように考えんといかんぞ。)

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