決壊

(前回までの話)

激戦の末、辰実は饗庭との戦いを制した。…しかし、この作戦は饗庭に勝つ事だけでなく、日下部と支倉の"人身売買"の証拠を抑え、逮捕する事までなのだ。


既に疲労困憊の状態でも、辰実は行かなければならない!



 *



「約束は約束だ。…と言いたい所だが、今何時何分だ?」


2人とも、息が整って話ができるぐらいにまでなった所で、饗庭は上着の裏からスマホを取り出し、時間を見る。


「8時50分を少し過ぎた所か…」

「何か、マズい所まで来てるのか?」


"ああ"と苦い顔をして答えるからには、こうやって殴り合いをしていた間に相当切羽詰まった状況になっていた事に違いない。"もっと早く勝負が決まっていれば"と思うが、そんな短時間で饗庭を倒せるのであれば"この交渉"自体に意味が無かった。饗庭の最も得意とする分野でないと、確実に約束を出来なかっただろう。


「日下部さんが、支倉に"差し出す"時間だよ。」


そうなると、話を聞いている時間など無い。


激戦を制した意味が無くなる分、饗庭をここで逃がす事になるのは非常に惜しい。…しかし"人身売買"が行われるとなれば、警察としても売られる女性の身柄が大事なのだ。戦った所で無駄、とは言わないが話を聞けば2人を抑えられない、2人を抑えに行けば饗庭を放置する事になる。理不尽な2択に苛立つしかできなかった。



「…俺は、今から出頭してやるよ。」



辰実の苛立つ様子を見かねたのか饗庭はふっと鼻を鳴らし、してやったり顔で笑いながらそんな事を言っている。それを聞いて、辰実は更に眉をしかめた。


「約束だからな。…信用できないなら人質みたいなのを渡しといてやる。」


恐らく、ちゃんと約束は守るのだろう。それでも担保として"スマホ"を渡してきたのは、饗庭なりに義理を通す証明をちゃんとしたかったからなのかもしれない。


「"あの方"とのやり取りの証拠が、中には入ってるぜ?」


約束を守らなければ、そのデータを使って自分の事を好きにしろと言うのだろう。わざわざ自分の股肱を握らせるような事をする男の事を、好きにしてやろうという気にならない程に辰実は真っ直ぐな男では無かった。


(…俺に、どこまで疑われてると思っているんだ)


少なくとも、日下部や支倉であれば首根っこを掴んで、抵抗するのであれば動けなくしてでも覆面パトカーに引きずり込んだだろう。体力的な話もあるが、饗庭はねっからのフェア精神で戦うスポーツマンである。野蛮だが決して反則を良しとしないクリーンファイトで戦ったのだ、それだけでも辰実には信用出来ていた。



「…さて、時間がねえな。よく聞け、このガーデンの奥にある階段から、日下部さんと支倉が取引をする"ブラックVIPルーム"に行ける。このスマホのカバーにカードキーを挟んであるから、それを使えば中に入れるから絶対に落とすな。」

「ああ」


「と、いう訳だな。今から俺は出頭するから確認したければ今聞いとけよ?」

「構わん。」

「そうかい。ところで出頭だが、新東署でいいのか?」

「ヒルズの入り口に、覆面パトカーが待機している。そこにグレーのスーツを着た団子頭の子がいるハズ、その子に聞いてくれたら大丈夫だ。」


"へえ、団子頭"と少し楽しそうな顔をする饗庭を、"遊びに行くんじゃないんだぞ"と視線でたしなめる。


「黒沢、最後に1ついいか?」

「どうした?」

「お前の腹の傷、何があったんだ?」


「"舘島事件"だ」


"そうか"とだけ答えると、納得の行ったように饗庭は歩き出した。この様子であれば辰実を裏切る事なく"確実に"出頭してくれるだろう。


(馬場ちゃん、重、後は任せた)



 *


45階。


部屋の近くで"モデル"が出てくるのを待っていた知詠子と駒田。"まだ来ない"と思った所で、部屋のドアが開き、パーティードレス姿の女性が緊張した様子で現れた。


("てぃーまが"の栗原アキナよ)

(モデルの子じゃな?)

(ええ、確かまだデビューしてそんなだった記憶が)


"新人を差し出すのか"と駒田は静かに怒りを覚えた。そもそも差し出す事そのものが問題なのだが、"あの子はどんな事を思ってモデルになったんじゃろうか"と考えてみると、そんな純粋な夢が今ここで潰されようとしている事に憤りを感じずにはいられない。


2人は気付かれないよう尾行し、ミントカラーのパーティードレスにそれ用の結われた黒髪に猫目の女性、栗原アキナがエレベーターに乗る所まで確認した。


「47階で降りたわね」

「追いかけますか?」

「追いかけましょう」


そんな話をしたタイミングで、駒田のスマホが振動する。辰実からの連絡であった。


『黒沢です。』

「黒さん!?勝負はついたんじゃな。」

『ええ、勝負はつきました。饗庭から"人身売買"の場所を聞き出せましたのでお伝えします。』

「ほう、どこじゃ?」

『"ブラックVIPルーム"という所です。片桐さんには俺から伝えておきますので、駒さんは水篠と先に向かっていて下さい!』


"了解"と言い、駒田は電話を切る。


「取引の場所が、分かりました。」

「どこよ?」

「"ブラックVIPルーム"だそうじゃ」

「なら、エレベーターで49階まで行けばいいわね」


すかさずボタンを押し、エレベーターに乗り込む知詠子。流れ込むように駒田も広めの箱に入り、49階のボタンを押した。そして重力に逆らう感じで、少しだけふわっとした感覚に包まれたのも一瞬、エレベーターは急に"47階"で停止する。


(こんな事あるんじゃな)


ドアが開いたと思えば、黒いスーツを着た厳つい男の集団が臨戦態勢で待っていた。Vシネマとか、海外のマフィア映画でしかこんな光景を見た事は無いが、それが現実目の前にあると分かった所で、自分がいる状況がいかに"相手にとって都合が悪い"か知詠子と駒田は理解できた。


人海戦術でエレベーターになだれ込もうとしてくる、黒スーツの男達。そんな事をされてはたまったものでは無いと、駒田は先頭にいた男が殴りかかろうとする瞬間を見計らい、男の頭を引っ掴んで黒スーツの人だかりに投げ飛ばした。


「…乗ろうとしたら、何としてでも止めにかかってくるでしょうね。」

「全員のした方がええっちゅう事じゃな」


知詠子の言葉を合図に、指を鳴らしながらエレベーターを降りる駒田。極上の料理を目の前にしたかのような笑みで、集団が戦慄しているのが知詠子には見える。


「何人かは任せるわね」

「わし1人で十分じゃが?」

「安心なさい、私も戦えるわよ」


水篠知詠子が"女傑"と言われる理由の1つがこれである。異常な程の格闘センスで警察学校時代から男どもを逮捕術で軒並み制圧した事もあるのだ。


(ちなみに、黒沢は"女と戦う事はできない"と言ってたから、どちらが強いかなんて分からないわ。…まあ、空手をずっとやってて柔道も大学の時に経験あるみたいだし、普通に強いんでしょうけど。)



「じゃったら、早う終わりそうじゃな!」


早速、ハンマーでも振り回したかのような強烈パンチを、集団の1人にお見舞いする駒田。これにたまらず吹っ飛んでしまった男が1人、仰向けに倒れたままこの場から意識を旅立たせていた。


組み付く者は宙を舞い、掴みかかる者は頭突きを喰らう。決して洗練された格闘術ではなく、体格と筋力の計算式による純粋なパワーであるが、まるで遊んでいるかのように襲い掛かる数人を一気に叩き伏せてしまっている。


「大人しくしやがれ…!」


怒り心頭に、特殊警棒を取り出してきた男がいたものの、平然と駒田は相手の警棒を持っている右手首を左手で掴む。目には見えずとも、万力の握力が骨まで砕く想像を容易にさせてしまう。


「いだだだだだだ」

「そんな物騒なモンはしまっとけ」


そのまま掴んだ左手を勢いよく振り回すと、羽のように男の体は舞い始めた。よく見ると筋骨隆々の大男に片手で振り回されている事には気づくのだが、最早それが恐怖でしかない。


「化け物だ……!」

「元レスキュー隊なめとったらいかんのう」


数では圧倒的に有利なハズなのに、数名が瞬く間に叩き伏せられる様を見た黒スーツ達の残り者数名は、尻もちを着く者や逃げようとする者と、各々の戦慄っぷりを見せてくれる。…しかし一方で、"まずは女からやっちまえ!"と非ジェントルマン的な行為に走る事を恥とせず、警棒を持って知詠子に襲い掛かる者もいた。


右腕とともに振り上げられる警棒、それを見越したように駆けだした知詠子はその右肩に手を掛けると、まるで鉄棒で逆上がりをするかのように空を駆け上がる。


…更にその回転の勢いで、男は警棒を振り上げただけで地面に投げ飛ばされる。背中から叩きつけられた衝撃で泡を吹いて倒れている男を見届けるかのように、知詠子は華麗に着地を決めた。


この動きに、駒田も黒スーツ達も一瞬、時を奪われた。この間に駒田が隙だらけの1人をチョップでやっつけたのはどうでもいい。


乱闘騒ぎの雰囲気は、"知詠子の色"に染まっているのだから。


(集団で来る奴も、同時にかかってくる訳じゃないから。早く来た奴から狙う!)

警察官になって教えてもらった、"対集団"の戦い方である。多勢を利用し襲い掛かるのであれば、先に出てきた者から仕留めるのだ。


半円が押し寄せてくるように知詠子を襲う集団。すかさず自分から一番近い男に蹴りを入れる。蹴りが腹部にめり込んでうずくまった男の背中を踏み台にし、高く飛ぶと2人目の首に唸る蛇のような蹴りを当てる。


着地した知詠子を背後から襲う男を、後ろ蹴りで怯ませる。そして前屈みになった男の肩に手を掛け、跳馬のように飛び越えた。しつこく警棒を振り下ろし知詠子を襲う男に対してはバック転の要領で蹴りを入れ無力化させ、油断ならない2人目が警棒を振り下ろそうとした瞬間に腕を取り、一本背負いで投げ伏せた。


…柔道ならここまでで終わりだが、警察の"逮捕術"は違う。相手を逮捕制圧する事が目的であり、投げた後も離さない手はそれを意味していると言っていい。


掴んだ右手を引き上げ、反対側に回り込むように相手をうつ伏せにする。そして後ろに手が回るようにし、左膝を落とし相手の紋所(首の付け根と肩甲骨の間ぐらい)を抑えつける。正直なところ、これがじわじわ痛いのだ。


警棒をまだ握りしめたままの、男の右手を知詠子は空いた左手で包み込むように握る。親指に力を入れ、相手の小指を抑えつけるように回そうとすると、どんなに握力がある相手でも簡単に手を開かせる事ができる。


実際に右手で拳を作り、その小指に親指を当てる感じで握り込んでいくと、どんなに右手を力強く握っていても難なく手を緩められるのである。コツは横から握るのだが、これを知っていれば力の差があろうと相手の武器を奪う事が可能になるのだ。


「やっ!!!」

「おわたっ!」


知詠子が、後ろに回した腕に力を入れ持ち上げようとすると、男は情けない断末魔をあげて気絶した。


(人間離れしとる。わしが見とるんは現実のハズじゃが…)

あまり駒田には言われたくない事であるが、驚きすぎて言葉を失うぐらいに、知詠子は柔軟性を活かした動きで黒スーツ達を叩き伏せている。



「…強そうなのが来たわね」

「戦いはガタイじゃないけえ」


"駒田さんに言われても説得力無いわね"とツッコミを入れられながらも、増援でやって来た大柄の男2人がやって来た事に警戒の視線を送っている2人であった。


「藤谷兄弟ね。兄は相撲で、弟はレスリングやってて強かったらしいんだけど2人とも相当のワルだったみたいよ。」


双子の兄弟で、大柄でゴリゴリした刈り上げの男2人を見てもどちらが兄でどちらが弟か分からない。いかにもガラが悪そうで頭も悪そうな雰囲気をしているぐらいにしか駒田にも認識できなかったが、先程の有象無象より確実に強い事は分かる。


「黒さんとこの双子は、あないな悪党にならんよう育って欲しいですわ」

「夫は抜けてるけど奥さんがしっかりしてるから大丈夫よ」


合図も無く、駒田は正面にいた刈り上げツインズの右側と取っ組み合いを始める。たまたまではあるが、レスリング経験者の弟と対峙する事になった方が都合は良かった。レスリングのように、"組み"を得意とする相手であれば細身の知詠子よりもパワーと体格で圧倒的に勝る駒田が適任だろう。



「俺はこっちの姉ちゃんで楽しませてもらうぜ」

品定めをするような舌なめずりが、知詠子に不快感を走らせる。


「とびっきりの美人じゃねえか?"恩田ひかり"とヤラもらった時の事を思い出すなあ…、何をしてるのか知らないけど俺と遊ぼうぜ?」

「残念だけど、バカそうな人は好みじゃないの。」


「いいさ別に、いつも通り無理矢理にひん剥いて弟と一緒に楽しませてもらうぞ!」


不快極まりない笑みを浮かべたまま、刈り上げツインズ(藤谷兄弟)の兄は待ったなしの突進で知詠子に向かってくる。交差するように斜め前に回転し突き押しを知詠子は回避した。追い打ちのようにやって来た転回してからの突進も、同じように回避。


(組み合う状態にはなりたくないわ、分が悪いし…)


立って構えを取った時に、知詠子は後ろに"あるもの"の存在に気づく。駒田と藤谷弟との取っ組み合いは続いており、ちょうど知詠子と駒田は背中合わせで向かい合っている。


「駒さん、背中借りるわよ!」


知詠子の声に気づき、"何事じゃ!?"と駒田が気づいた時には、背中と肩をテンポよく踏まれた感覚だけが残っていた。さっきからパワーで勝るも技術で劣り、ロックアップを外せない駒田は同じ体制のまま力比べを続けている。


駒田の背と肩を使い跳躍した知詠子は、迫りくる藤谷(兄)の肩に手を着いて、真っ直ぐな倒立でバランスを取る。丁度2人は同じ方向を向いている状況から、知詠子はつま先の向きに勢いをつけ半回転、振り子の要領で藤谷(兄)の金的を蹴り上げた。


"ふぐぁ!?"と情けない声が聞こえると、股間に手を当て涙目で前屈みになっている情けない男の姿が見えるだろう。しかし、そんなモノに興味は無いと言わんばかりに知詠子は藤谷(兄)と距離を取る。


あちら側の拮抗が、そろそろ崩れようとしているのだ。


肩がぶつかり合って形になったロックアップは、その形のまま駒田が藤谷(弟)を持ち上げている状態で綺麗なスクラムを保っている。…組み合いもまた、考えればラグビー部であった駒田の得意とするところであった。


「しゃあああああああ!!!」


雄叫びと共に、真後ろに放り投げられた弟は勢いよく兄にぶつけられ、兄弟仲良く重なった状態でノックアウトされる。重さもある分、ぶつかる方もぶつかられる方も相当なダメージだろう。



「全く、野蛮極まりないわね」

「力こそ身上ですけえ」


驚いて逃げた残党は放っておき、知詠子と駒田は急ぎ49階へ向かうべくエレベーターへ乗り込んだ。



 *


ブラックVIPルーム


「済まないなアキナ、今日はわざわざ来てくれてありがとう。」


先程、部屋にやって来た栗原アキナを、日下部は迎え入れて支倉と対面させる。


「県議の方の秘書をされている、支倉さんだ。モデルの活動をしていく上で、今後お世話になると思うから失礼の無いようにな。」


栗原は、緊張を織り込んだ一礼で支倉に挨拶する。


「最近は"てぃーまが"もレベルが上がってきましたね。日下部さんも頑張ってますし、饗庭も良い子をよく見つけて来てくれる。」

「いえいえ、これも偏に支倉さんや"あの方"の力添えがあっての事です!どうかこれからも私共をよろしくお願いします!」


頭を下げて白々しい事を言っている日下部は深く頭を下げているためか、栗原にその表情は見えなかった。…ただ、"媚びを売っている"ようには感じた。



「分かりました、これで日下部さんが捕まっても何とかするよう、手を回すよう話しておきますよ。」


"ありがとうございます"


ごくごく普通の、謝礼の言葉。その言葉がある種の黒い感情に乗せて吐き出されたのを、栗原は支倉の表情から察知した。"挨拶"と聞いていたにも関わらず、ただこれが挨拶というだけの場で無い事が分かり、不安そうな表情で下を向く。


そんな彼女の不安を直に見て楽しもうとせんとばかりに、支倉は顎を押し上げて表情を覗き込んでいる。


「"恩田ひかり"という子は、泣いていたんですが気にしないで。僕はアキナちゃんを絶対に悪いようにする訳じゃないんだから。」


日下部は、下を向いている。これが確実に"挨拶"では無い事は分かっていたのだろう。せっかく親族の反対を押してモデルになったと言うのに、いきなりこんな事があるんだなと、栗原は心の中で少しずつ絶望していった…。


(モデルなんて、ならなきゃ良かった)


部屋の奥で、鍵が開けられた音。饗庭が渡していたカードキーでドアを開けたのだろうと、日下部も支倉も思っていた。


…しかし、入ってきたのはまた別の男である。黒いスーツに青のカッターシャツ、そして暗い茶色の無造作な短髪の、ぶっきらぼうな表情をした男だった。


「…日下部さん、あなたの部下ですか?」

「いえ、このような男は…」


2人が少し慌てる様子を見て、入ってきた男は懐からあるものを取り出して見せた。



"巡査部長 黒沢辰実"


茶色い革の2つ折り、上にはその男の写真と階級や名前、下には"警察"のマークが象られている。ここまで説明すれば、それが"警察手帳"だと分かるだろう。


「く、黒沢!?何でお前が?饗庭はどうした、饗庭は!?」

「饗庭なら俺にカードキーを渡して出頭しましたよ?」


饗庭のみ入って来れるハズの入り口から辰実が入ってくる事を想定しておらず、慌てふためく日下部に、辰実は冷たく言い放った。


「日下部さん、これはどういう事でしょう?饗庭は裏切ったという訳だ、その上司である貴方の信用も疑われますが…?」

「いえ…、私は無関係です!!!これは饗庭が勝手にやった事です!!!本当に申し訳ありません、何と詫びを入れたら良いか…!」


声を上げ、涙目で土下座をしている情けない姿の日下部を一瞥もせず、辰実は支倉の方へと歩み寄って行った。日下部への怒りをむき出しにし、汚い獣性を帯びた瞳で覗き込まれて、顎を押し上げられたままの栗原は今にも泣きそうな表情である。


(日登美さんも、同じように痛めつけられたんだな)

辰実は一瞬だけ栗原を哀しそうな表情で見つめた後、支倉を斜めから見据える。


「アンタか、支倉と言うのは?」

「礼儀の悪い奴だな君は?手帳ぐらいで自己紹介したと思って…」


辰実は、少し力を入れれば肉ごと首をもぎ取ってしまいそうなぐらいの握力で支倉の首を掴む。言いかけた言葉は文字にならず、ただ彼の苦しそうな声だけが聞こえる。



「"恩田ひかり"の、マネージャーだった男だよ」

徐々に締め上げる握力に、支倉は何も言えないまま驚いて目を剥くしかできない。


「…アンタはこうやって女の首を絞めるのが好きだったな。自分がやられる気分はどうだ?」


指が肉にめり込む握力のまま釣り上げられた支倉は、その場に投げ飛ばされのたうち回る。苦しさのあまり咳き込む支倉を無視し、部屋の入口に行って開錠しドアを開けると、待っていたように駒田と知詠子もやって来た。


「支倉は?」

「今あそこで転がってるのがそうだ。」


"身柄は抑えときます"と言い、駒田は素早く支倉を引き起こし、手を後ろに回し拘束した。何かに怯えているような表情をしているのは、辰実の逆鱗に触れたからだろうと駒田は納得する。


"捜査二課の知詠子が確保しないのか?"と思う人もいるだろうが、栗原アキナを保護する必要がある時に(状況的に、参考人として署に来てもらう可能性もあるのだが)知詠子が適任なのだ。


警察官の職務を執行するにあたり、余程の事情が無い限り"女性に触れる"事や"女性のプライバシーに関わる"事があった時は女性警察官が対応する事となっている。そのため知詠子では無く駒田が支倉を確保した。



「日下部さん」


支倉が拘束された瞬間に、土下座をした姿勢のまま日下部は悔しそうな、それでもって今までいた場所が決壊していく事を認識させられた絶望も混じった表情で辰実を睨んでいた。


「そこにいるモデルの女の子は、アンタの姪っ子でしょう?」


(姪っ子を売るなんてとんだ外道よね…。でも、間に合って良かったわ。)

日下部に気色の悪い感情を向けながらも、今回この場所で栗原が売られずに済んだ事を知詠子は安心する。栗原の表情を見るに、多少のケアは必要であるだろうが。



「…本当に堕ちた所まで行く前に、何とかできて良かったです。」


辰実を睨み続ける日下部、食いしばる歯が何よりも心の内を映し出していた。


「ですけど、今までやった事の償いはして下さい。…警察に来てもらえますか?」


日登美が同じような事をされた怒りもあるのだろう、引き裂かれた愛に対する哀しみもあるだろう、辰実はその全てを腹に抑え込んで、ただ哀しそうな表情をして日下部を説得しようとする。


辛さを汲み取るように、知詠子は栗原と共にその様子をじっと見つめていた。



「…えに、……にが分かる…?」

地面に両肘両足をくっつけたまま、日下部は搾り出す。



「黒沢ぁぁぁ!お前に、お前に何が分かるってんだ!?ぁあ!?」


負け惜しみのようにも、悲痛な感情を吐露するようにも見えるその叫び。涙を流し、嗚咽を漏らしながら声を張り上げた日下部の意思を、感情の決壊を、辰実は少しずつ理解する事となる…。

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