月震
(前回までの話)
各員の捜査が続く傍ら、饗庭と辰実の戦いは熾烈を極めていた。辰実が奮起すればそれを喰らうように強大になっていく饗庭。辰実も不退転の覚悟で攻め込むも饗庭を圧倒する事敵わず、依然として苦境に立たされていた。
…苦境の中逆転を狙いながらも、日登美との思い出や北村からの言葉を辰実は思い出し再々立ち上がる辰実が見せた"構え"が、勝敗を決するカギとなるのか…?
*
45階。
「ここまで来て、怪しいのが人っ子1人見つからないなんてね。」
偵察班として日下部や支倉、その関係者を探る手筈だった知詠子と駒田であったが、未だ怪しい者が1人も見つからない状況に苛立つ知詠子と、冷静にそれを見ている駒田の温度差が顕著に表れていた。
42階に入った辺りで鷹宮から、"日下部と支倉はテーブルで食事をしている"という連絡が入っていたが、他の協力者がいる可能性も考え、偵察を続けている。
「…時間的に考えれば、日下部は移動しとるんじゃろうか?」
「移動したなら、連絡が来ると思うけど」
客室が整然と並べられた通路の途中で、立ち止まってスマホを確認する知詠子。それを待っていたかのように、鷹宮からメッセージが来た。
「そんな事を言ってたらメッセージが来たわ」
知詠子は手早くメッセージを確認し、駒田に内容を伝える。
「日下部と支倉が、"2人で"移動を始めたそうよ。行先はまだ分からないって。」
「…"取引"が始まるという事と思ってええんじゃろうか?」
防犯対策係は、辰実と梓が商店街で録音した会話より"てぃーまが"のモデルが差し出される事を察知していた。今まさに嫌気の差すような事が起ころうとしている事に駒田はじわじわとこみ上げる苛立ちを自分の中に感じる。
(…なんじゃ、ワシも電話か?)
バイブ音を聞いて、"出なさいよ"とツンとした様子で促す知詠子に少し頭を下げ、電話に出る駒田。驚いた事に、電話の相手は宮内だった。
「駒田です」
『宮内じゃ。今夜、人身売買に出される"てぃーまが"のモデル、その居所が分かった。…ヒルズ45階の"4509号室"や、水篠と2人で出てくる所を張り込んで尾行してくれ!』
宮内から来た電話の向こうは車内だったのだろうか、やけに音がシャットアウトされたようであった。ふと思った事を"今考える事じゃなあで"と斬り捨て、駒田は電話の内容を水篠に伝える。
「4509号室…。エレベーターを上がったホールのすぐだったわね。」
先導をゆくのは勿論"女傑"と言わんばかりに知詠子は、エレベーターを降りたすぐにあった"ホール"と呼ばれる円形のラウンジスペースに戻り、窓際のソファーに腰かけた。"サロン"が開かれている40階を天井として、それから上の宿泊スペースは円筒状に伸びている。
「あれが、"ガーデンVIPルーム"のガーデンじゃな」
天井まで拡がる窓のため、上の階の様子までも首を楽に見渡せる。こちらに光があるためにか、はっきりと見えはしなかったものの、やっとこさガーデンに人影が2つ見えたぐらいではあった。
「戦ってるわね、アイツら」
「黒さんの事が、心配ですか?」
さっきまでキリっとした表情をしている知詠子であったが、きつく縛った帯が緩んだように、女傑の表情から憂いの様子を零していた。
「…別に。」
駒田じゃなくてガーデンの様子を見ていた知詠子の顔が、窓には映り込んでいたのにハッキリと見えない。"見せたくない"と言った方が正しかっただろう。
「馬場ちゃんに芋と言った時は、話をはぐらかしたじゃろ?」
"不機嫌そうに"知詠子は名刀の切れ味を持った双眸を駒田に向けると、すぐに窓の方を向いて、ガーデンの様子を眺めていた。話をはぐらかさず、キッパリと否定した所に、彼女の思う所と言う所に"ズレ"があったのを駒田は察した。
「危なっかしいのよ、アイツは…」
*
自分の呼吸と風の音だけが聞こえるぐらいに、饗庭から見た辰実の様子は"静"そのものであった。その様子に疲弊はあるものの、"眠れる獅子"が目を覚ましたような、そんなハッキリとした緊張感が肌を露わにした時の涼しさと共に伝わってくる。
満月を背に構える辰実は、風も空も、そして空気とも一体になっているように見えた程に集中が高まっている様子だった。
(何にせよヤバいってのは、よく分かる)
饗庭もここまで貫いてきたピーカブースタイルを、ここでも貫き通す。その構えが意味する"いないいないばあ"をやってくるのは恐らく辰実だろうが、逆に自分の拳でまた驚かせてやると、沸々した高揚感を饗庭は感じている。
…空耳だろう。それでも高揚感は、この静音の場所に打ち鳴らされる太鼓の音を響かせた。饗庭がさっきまで拳で奏でたリズム隊の重低音ではなく、民俗音楽のように戦や狩りの前に打ち鳴らし、心を静かに高揚させる"ウォークライ"のような、そんな音が脳裏を流れていく。
そして一瞬、月が震えた感覚が襲う。
呼び起こした眠れる獅子が、目の前にいる黒沢辰実という男が、追い込まれて自らの窮地だというのに見せる余裕が、月すら震わせた。それ程までに"危険"を自分は悟っているのだろうと饗庭は理解した所で、ボクシング特有のトントンとしたステップで辰実に肉薄する。
「小手先はナシだ、やられても文句言うんじゃないぞ!?」
最初からフルスロットル。ホットになりきった饗庭の、"鉄球をぶつけられたか"のような威力を誇る右ストレートが放たれる。
殆ど刹那の瞬間の話であるが、辰実はそれを"避けよう"とも先程までのように"捌こう"ともせず、ただそれを待っているかのように構えていた。
更に刹那の瞬間、饗庭の拳は弾かれた。内側から払うように手を当てられたのだろうが、それにしても"弾かれた"という感触が無い。まるで何かが歪んだかのように、右ストレートは空を殴らされた訳である。
そして、"弾かれた"と同時だろう。饗庭がジャブと"ほぼ同時"に右ストレートの重奏を響かせたように、辰実が饗庭の脇腹に右の正拳を打ち込んでいた。思わず喰らってしまった驚きと痛みに、饗庭は2ステップ下がり様子を見ながら構えなおした。
「饗庭こそ、やられても文句を言うんじゃないぞ?」
饗庭も辰実も、互いに構えを崩さない。まるで激流と静水のように反する2人の構えの間で、2人だけに分かる緊張が走っている。…しかし、その緊張を破るかのように饗庭がくつくつと笑い出した。
「面白いと言うのも、今になって俺も分かる」
「分かってくれたのか。…なら俺とお前は今でも"友達"なんだな。」
7年越しに会った2人なのに、ここまでの"本気の戦い"を通じて、友情すら感じている。二度とこんな高揚感は無いだろうと、だからこの気持ちをくれた相手に感謝しようと…。それでも、名残惜しくも決着をつけなければならない。
(日登美さん、必ずや…)
自分の戦いではない、あくまでも"日登美のための"戦いなのだ。これ以上に高揚感や緊張感をくれる1戦であろうと、辰実にとっては"番犬"との戦いに過ぎず、これに勝利しその先の本丸を叩き潰すという目的が残っている。
分かっているから饗庭もまた肉薄し、ハードロックの重低音を拳で幾重にも響き渡らせた。静かに迎え撃つ辰実は、先程のようにその悉くをその場で感触を残さずに弾いていく。反撃も饗庭にガードされつつあるが、ドアを破る前までの"劣勢"はそこに無く、本気を出している饗庭と対等に戦えている状況であった。
均衡を破る手立てがあれば、確実に優勢に傾くだろう。そのためには、饗庭の"ボクシング"をピーカブースタイルごと打ち破らなくてはならない。
鉄壁の構えに、霞がかかったようなウィービングにも動じず、ただ饗庭が自分めがけて必殺の拳を打ち出す瞬間を辰実はずっと待っている。
…ただ、辰実も饗庭の攻めをじっと待っている訳では無い。
先程まで饗庭の攻撃を弾き続けた"静"のまま攻撃に転ずる。1発を霞に当てても、もう1発を確実に饗庭へとヒットさせる。勿論、殴り合いで饗庭に分がある事は分かっているからこそ、繰り出される鉄拳の数撃を意にも留めず体で受け止めていた。
辰実も攻撃が決まれば、饗庭にも攻撃が決まる。まさに"互角"の状況は2人の体力を同じように削っていった。…この勝敗は、先に底をついた者が敗北という、野蛮かつシンプルで明快なものだろう。
それを理解した瞬間に、辰実の戦法は変化する。
今までインファイトで饗庭に対抗していたが、先程の構えを基本としつつ、攻撃をした瞬間にもう"引き"の体制に入るというものだった。ヒットアンドアウェイとも言うやり方だろう、前に出て一発、そして後ろに退き反撃に備えるというやり方で、饗庭のパンチの届く範囲から瞬時に逃れていた。
前に出て蹴りを打ったり、正拳を打ち込んだりと、"読めない"攻めを展開する辰実。元より出てくる手足が2と4では先読みのしやすさに大きく差が出る。蹴りを打たない饗庭に対しては、両手を警戒するだけで充分だろう。
辰実が前に出て左の中段蹴りを打てば、饗庭は右腕でガードして左拳で反撃を狙う。…が、空いた方の拳が飛んでくるならそれを警戒し、右脚で強く地面を蹴って後ろに回避をとりながら、饗庭の左腕を内側から弾く。防いだ方の腕とは反対から反撃が来る、基本的にはそれを警戒し捌ききれば問題ない。
…しかし、饗庭も同じ戦法に黙ってやられ続ける男では無く、ガードした右腕で更に攻撃してくるという力技もやってのける。さすがに防いだハズの腕ですぐ攻撃されるとなれば辰実も避けようがなく、折角の戦法も破られる。
続けざまに攻めに入る饗庭も、乱射するようにワン・ツーを打ち込んでいくが集中の切れていない辰実に全て弾かれ、体力だけを消耗している状況になっていった。
(結構もたなくなってきた。これ以上防ぎきれるかどうか…)
(まどろっこしいが、そう何発も消耗できねえ)
互いに平行線の状態を、だらだらと続ける訳にはいかない。そう思った2人の間には"そろそろ次で決着をつけなければならない"という気持ちが浮かぶ。
最終局面に入った時の構えを、再度とる2人。
暫くの静寂が過ぎた所で、辰実はとある事に気づいた。
トン、トン、トン、と饗庭が何かを計るように奏でるリズムである。ボクシングのステップやワン・ツー、更には避けと、この格闘技の"脈拍"ともなっているこれを、辰実はやっと気づく事ができた。
饗庭の動きは、全てが一定のリズムに則っている。鍛錬を重ねてきた者ほど戦いの基本に忠実なのだ、何千何万何億と戦いがなされてきた歴史の上で確率した"土台"をそう簡単に打ち壊す事は出来ない。
だから次の攻撃も必ず、リズムに則って繰り出されるのだ。
打たれる脈の間を縫って仕掛ける、難しい事ではあるがそれが饗庭のピーカブースタイルを打ち倒す、ひいてはボクシングを破る方法である事に辰実は辿り着く。
…勿論、簡単にできる事では無い。失敗すれば辰実の負けだろう、それが分かっているから饗庭も必ずボクシングの基本に寸分の狂いも許すことなく、拳の重奏をまた響かせにやって来るだろう。
この局面になって幾度も続いたように、饗庭が辰実に肉薄する。
最後の最後までボクシング、そして基本に則ったワン・ツー。左のジャブを辰実は内川から弾き、重低音が響くような衝撃を受けながらも、右のストレートを内側から弾道を逸らしていく。…更に繰り出された下からのアッパーを上体を反らして回避し、隙を見せた所で左の掌で腕ごと饗庭を押し込んで後退させた。
饗庭のリズムに合わせて攻撃を弾く、避けるのは体が慣れてきたため容易にはなってきている。問題はここから、打たれる脈の"隙間"を打って一撃を与えなければ饗庭を倒す事ができない。
恐らく、これが最後のチャンス。
結局、最後まであの手この手で食い下がってやっと"互角"だったぐらい饗庭は強い。戦うと口にするも、勝つと口にするも、その言葉にどれほどの重みがあったか今更になって辰実は自覚する。この先またこれ以上に瀬戸際の戦いが待っているかもしれないが、今ここで饗庭の関門を通らなければその先に行く事も出来ない。
…今なのだ、今こそ惜しみ無い全身全霊をつぎ込む。出し惜しみなどという事をしでかして、日登美に鼻で笑われるような事があってはならないのだ。
饗庭の右拳が、先に動き出した。
全身全霊の右ストレートが、辰実を崩しにかかるのだろう。まともに喰らえば粉微塵でも大げさじゃないような威力の一撃が奏でる重低音だけが、辰実の脳裏に聞こえている。ここまで集中してやっと、饗庭の戦いの脈拍を聞き取る事ができた。
脈拍さえ分かれば、どのタイミングで打ってくるかは分かる。更に言えば不規則な曲線でも拳が描いていようものなら、確実に威力は落ちる。…しかし、全力の一撃をそんな事で棒に振る事は無いだろう。
眉間、もしくは水月、腹部を確実に狙ってくるハズである。
極限まで集中し、饗庭の攻撃を見極める。次の"トン"という重低音が聞こえるのは、攻撃がヒットした時だ。今まで散々に攻撃を喰らい続けてきたからこそ、体はそのリズムを確実に覚えており、規則的な律動を"絶対に"外れない事も理解している。
…だからこそ、不可能では無いのだ。
辰実は、饗庭の右ストレートを額で受け止めた。まるで頭に隕石でも落ちたかのような衝撃が走るが、気力が意識を繋ぎ止める。
"ワン・ツーは殆ど同時に打ち込まれる"
右が止められれば、"左が"確実に来るだろう。戦う人間の執念とはそういうもので、奥の手が破られようとも更に奥から知恵や経験をひねり出し、またまた奥の手や何やらを勝利目掛けて伸ばしてくるのだ。
そんな事だって、辰実には分かっている。だが殆ど"勘"と言っていい。
隕石の如く右ストレートが額に着弾した瞬間に打ち込まれた左フックを、辰実は右手で握り受け止める。利き手で受け止められる分、何とか受け止める事ができた。
額と右手に、両の拳が防ぎきられてしまった饗庭は、ゆっくりとその場に膝から崩れ落ちる。…"防ぎ切られた"事に戦意喪失した訳では無い、饗庭の両拳を防いだ瞬間に、辰実が放った"左"の正拳突きが、ガラ空きの腹部を打ち抜いていた。
とうに底が見え、足を着きかけていた2人だ。一撃でもちゃんと当たれば勝敗は簡単に左右すると言っても良い。
"勝負は決した"
辰実はそう思うも、少し後ろに退いて饗庭の様子を見ていた。
膝をついて、更に手を地面について倒れる寸前の状況から、執念深く起き上がろうとしている。…ここから殴ろうと思えば殴れる状況でも辰実は無かった。もう、先程の正拳突きを放てるような体力も気力も残っていない。
(…まずいな、こっちはもう一撃でもって言われても難しいかもしれないのに)
先程のような全力の一撃を、もう受けられるような状況ではない。…そんな事を想像してしまうと、辰実の脳裏に"恐怖"が焦げ付いていく。
単に試合に負ける程度の話ではない、これで負ければ命の終わりが来てしまうような…。"舘島事件"で犯人に左腹部を斬られて生命の危険を感じ、拳銃を犯人に向けた時のような純粋に"危険"が塗り込まれた"恐怖"だった。
「まだ終わって…ねえ……」
起き上がろうとした饗庭が、再度崩れ落ちた。
うつ伏せに倒れて、呼吸だけをしたまま暫く起き上がって来ないのを見届けると、ようやく辰実は構えを解く。
…そのまま、気の抜けたように座り込んだ。
極度の緊張と危機感が、死に体を支えていたのだろう。勝負を決してそれが無くなった瞬間に、支えが無くなり倒れてしまうのは自明であった。
(しかし、勝負は決したぞ…!)
己の命運を分けるような一線、これがプロの格闘家どうしの戦いならば、"世紀の対決"と呼ばれるぐらい歴史に残るような名勝負だっただろう。…少なくとも長年の間格闘技にのめり込んできた辰実にとっては、饗庭以上の強敵はまずいなかった。
それなのに、自然と叫び出したいような達成感は無い。"勝負は決した"という事実だけが、辰実の認識にあった訳である。
「負けたのに、何でか悔しくねえ」
仰向けに転がり、暗い宙を見上げながら饗庭はぽつりと言い零した。
「俺もそうだ、何故か落ち着いている。」
饗庭と顔を見合わせる辰実。…するとこみあげたように、何が可笑しいのかも分からず、2人は声を上げて笑い出した。"とんでもなく充実した試合"だったハズなのに、いざ終わってみれば呆気ないと、そんな無常を感じた事に笑ったのだろうか?それとも、戦いの中で本当に親近感が沸いたのかと気づいた事に笑ったのかは、2人だけの知る所だろう。
「…約束だぞ、ちゃんと話してくれるんだな?」
「この期に及んで約束を破るなんて惨めな真似はしねえよ」
辰実は、自分が脱ぎ捨てたスーツの上着やカッターシャツとネクタイ、インナーがまとめられたのを拾い上げ、右腕に抱える。更に近くにあった饗庭のそれを左手で拾い上げ、歩み寄って彼に渡した。
(……全く、とんでもない奴だったな黒沢は)
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