悪夢を奏でる

(前回までの話)

饗庭と日下部、支倉を確保するため、捜査二課とともにアイランドヒルズに潜入した防犯対策係。出だしからトイレに行っていた辰実と駒田は"一敗"の話からいつもの調子を取り戻し、知詠子とともに40階へと向かう。更に駒田、知詠子の2人と分かれた辰実は単身、饗庭のいるガーデンVIPルームに足を踏み入れた。


"7年前の過去"、"舘島事件"、全ての真実へ向かうための決戦が始められる…



 *


「いい部屋だろう?…せっかく来てくれたんだ、ゆっくりしてけよ?」

「済まないが人を待たせてるんだ、ゆっくりする余裕は無い」


ガーデンVIPルーム


ベルベットの淡い色が美しい絨毯、そこに置かれたソファーとテーブル。高級感のある革製のソファーにどっかりと座っていた饗庭は、辰実と目が合うなり笑ってそんな冗談を言ってみせた。


勿論であるが、この状況で辰実にはふざけた話に付き合う余裕は無い。


「日下部と支倉のために時間稼ぎがしたいなら、俺はもう知らん。」

「知らん、って何だよ」

「ゆっくりする余裕は無いと言っただろう?話をする気が無いのなら、日下部と支倉を俺は探しに行く。もし2人が捕まりでもしてみろ、君の立場はどうなるか?」


いつもの愛想が無い表情でも、"冷徹に"話を運んでいく様子だけは違った。


「成程、注意喚起って訳か。」


今にも炸裂しそうな様子の双眸が、"そうだ"と言っているように饗庭には見えた。


「まだ長い方の針が2時の方向に行く前だろう?…日下部さんが支倉と"取引"をするのは9時だ、まだまだ時間があると思ったんだけどな。」

「だったら俺の所要時間も9時までだ。それまでに決着がつかなければ俺は二度と口を割らん。」


"成程、そう来るか"


さっきまで辰実を半ば挑発する様子であった饗庭だが、今までに無かった"あからさまに相手にしないぞという反応"を見せられ、ふと真剣な目になる。


「御託を並べてないで、さっさとかかってきたらどうだ?」


明らかに挑発と言うべき。黒沢辰実という男がそのような言葉を吐き並べるなどという想像がつかなかった饗庭であるが、プライドは傷つく。怒りの感情を笑みで覆っているが、それすらも叩き割ったのは辰実の次の言葉であった。



「何だここに来て屁っ放り腰か?とんだチキン野郎だな。…腰の引けた木偶の坊など相手にする暇は無いから俺はさっさと別の仕事に行っていいんだな。」


矢継ぎ早に罵倒の文言を、いつものぶっきらぼうな表情で並べていく辰実。御託を並べて時間を遅らせるなど許さない、"俺は殴り合いをするために来たんだ"という期待と目的意識が言葉の裏に透けて見えた時に饗庭は辰実の意図を察する事ができたが、辰実はそれを許しはしなかった。



「それとも、饗庭はいつぞやのデブより弱いのか?」


遂に、饗庭は立ち上がる。挑発に耐えてはいたがもう我慢ならないと見開いた両の眼が語る。"やる気"をやっと見せた饗庭を、先程の知詠子を鼻で笑った時みたいな表情で迎える。


奥に見える壁一面に作られた窓。ガーデンを綺麗に見せるために、エントランスを広くとっている。窓の真ん中辺りには木製の壁とドアがある所を見れば、そこが出入口なのだろう。視界全てを繋ぐために、この部屋は広い。


「行くぞ」

「さっさと来い」


饗庭と辰実が、互いの正面に立つ。合図をする事もなく、まるでこの瞬間が予定調和であるかのように2人が同時に動き出した。


この瞬間を、"戦いの火蓋が切り落された"と言うのだろう。


既に始まった一合目は、饗庭の右ストレートを辰実が左の回し蹴りで受け止めた所から始まる。"右が来る"と分かって瞬時に合わせた、素人目で無くとも驚くべき芸当であるが平然とやってのける事が辰実の実力を裏打ちする。



「なんだ、やるじゃねえか」

「見くびらないでもらいたい」


肘は脇を離れず、それながら脱力し"一撃"に備える。一般に言う"ボクシング"の構えであるが、これだけでも十分に饗庭の恐ろしさを辰実は知ってしまう。


計算を超えた世界の上に成り立つ、緩やかな左右の揺れと膝の動きによる柔軟な緩急が、次の一手を予測させてくれない。辰実も迎え撃つように、左手を前にし構えを取っているものの饗庭の拳はそんな事などお構いなしだろう。


饗庭が今やっているのは、"ウィービング"と呼ばれるボクシングの防御法であった。これは頭や状態を上下左右に動かす事で的を絞らせない方法である。…今しがた"防御法"と言ったのだが、これは常識の話だろう。しかし饗庭は常識を超えた怪物なのだ、このウィービングをただの防御法と見てはならない。



饗庭から繰り出される鋭い左のジャブ、このタイミングを辰実は読む事が出来なかった。まるで霞を体現するようなウィービングが"攻め"に活かされていて、出だしの分かる攻撃であれば対応できるが、分からなければ対応できない事に加え、過去とはいえ実力のあるプロボクサーを1ラウンドで沈めた男なのだからただのジャブでも相当の威力を誇る。


"正面から攻撃を受け止めてはならない"


身長差もあれば、体格差もある相手と戦う時の鉄則とも言っていい。普通に考えれば自分よりもパワーのあると考えられる相手に対し、パワーで戦うというのは非常に頭の悪い選択と言っていい。


先述の通り、饗庭のジャブですら危険性の高い一撃なのだ。正面から受けず、辰実は斜め横から"捌く"ようにして饗庭の左拳にトンと右手を置くように触れる。


"受け止める"ではなく、"軌道を逸らす"。


しかしながらこの動作の問題は、あくまで"ジャブ"に対するものだけだった。時間にして、ジャブと"殆ど同時"と言ってもいいぐらい早く繰り出された右のストレートまでを辰実は右手で捌けない。咄嗟に反応できた事が幸いか、辰実はジャブを捌く為に使った右手で饗庭の左拳を押すと同時にステップを取り後退する。


(気づくのが遅ければ確実にやられていた…)


メートルも無い距離から、ノーモーションで全力投球される鉄球。例えるならそれぐらいの威力と恐怖があった。…勿論の事、まともに思考が働く人間であれば"当たれば確実に無事では済まない"という答えを出すだろう。辰実もそう考えている。


そして一度感じた恐怖は、確実に脳裏に焼きつく。ジャブとほぼ同時に繰り出された饗庭の右ストレートを警戒しながらも、"確実に"ダメージを与えていかなければならない。いくつかの事を意識しながら戦うというのは集中を要するのだが、相手が相手だけにそんな腰の引けた事を言えない。


(しかし、逃げて勝つ事は不可能だ)


距離にして1間、約1.8メートル。警察で実施される対人訓練では、"少なくとも3メートルから4メートルは距離を取りなさい"と教育されるにも関わらず、辰実が取ったのはそれよりも短い間合いであった。


それでもボクサーとしての戦い方を貫く饗庭からは、十分に距離を取っている。パンチの威力を落とさないために移動は短いステップに限られるだろう、この1間もその2つを何とか回避できる距離であり、饗庭をそれを分かっているのか辰実がバックステップを取った後に無暗に攻め込んで来ていない。


ボクシングの基本に倣った、ピーカブースタイル。顎の下に拳を近づけ、相手の様子を覗き見るスタイル。辰実もネットの動画で観たマイク・タイソンの試合でこのスタイルの存在を知ったが、改めて実物を見ると饗庭がどれだけ研鑽を積んできた男なのか、その積み重ねで得た強さに驚かずにはいられなかった。


ピーカブースタイルの弱点として、胴が空く事が挙げられる。ボクシングであれば"胴を狙う"という行為は成功すればダメージを稼げるものの、その分に見合った隙もあるという二面性があった。それを補うのが先程の"ウィービング"である。


ボクシングを極めた饗庭は、忠実にピーカブースタイルを崩さず最小限のウィービングで辰実に的を絞らせない。その不規則ながらも緻密な動作、加えて当たれば"死"を覚悟する程に凶悪な拳打はまさに"キリングマシーン(殺人機)"を体現していた。


…一方で空手を極め、柔道や逮捕術と、様々な武道のエッセンスを得た辰実も間違いなく"キリングマシーン"である。饗庭の隙を突き、ピーカブースタイルの弱点を突く方法に気づき、すぐさま間合いを詰める。



(殴り合いとは言ったが、"拳の戦い"では無い!)


辰実が狙ったのは、饗庭の右の脛。拳闘ではなく、"空手"に為せる居合の如き蹴り。狙ったのは脛なのだが、実際当てる部分は筋肉のある脹脛であった。硬い部分に攻撃を当てては逆に自分のダメージになりかねないから基本的に相手の体にダメージを加える時は"骨"を狙わず"肉"を狙う。


脹脛を蹴られた饗庭は、一瞬ウィービングを止めるが構えは解かず上体をやや前に屈める。それでも"隙ができた"には十分で、間髪入れず脹脛に蹴りを入れた左足で饗庭の脇腹にガードした腕ごと鋭い蹴りを見舞う。


鞭のしなりに居合の鋭さ、拳の戦いでは劣るとも"足"でそれを補うのが辰実の戦い方であった。"しだまよう"の時には見せる必要が無かった、これが辰実の本気と言ってもいい。



饗庭の表情には若干の苦悶が浮かんだ。ガードはされたもののダメージはあるのだが、そこは簡単に倒れる相手ではない。すぐさま反撃の右ストレートを繰り出され、ギリギリで辰実は左の前腕で饗庭の右手首を弾いた。


更に止まらない、"悪夢の重奏"。左ジャブ、右ストレート、ウィービングが無限に派生していく。右ストレートが来たら"ほぼ同時に"左ジャブが来る、そして左ジャブが来て"右ストレートが来る"と思えばウィービングで警戒をかき乱される。


隙を見て正拳を打つも基本から崩れないピーカブースタイルが壁となる。繰り出される反撃のジャブを捌き、"隙"を見てもまるで予定調和だったかのように、脇腹を狙ったミドルキックも前屈みから二の腕で防がれる。


左ジャブを右手で捌こうとした瞬間に、右ストレート。これを左手の甲で弾いたと思えば弦を弾くように繰り出されたのは左のフックであった。反応間に合わず辰実は件のフックを両手で受け止め、またバックステップで間合いを取った。



連撃と言うより"打ち鳴らす"と言っていい。捌く為に正面とは別の角度から触れただけでも、重低音の衝撃をかき鳴らす。


ドコドコと伝わる衝撃に、重低音が響くような感覚。精密な計算の上に、計算を打ち壊した"圧倒的強さ"は、饗庭が歩んできた人生を、自分の持ち続けていた信念を、その全てがハードロックに乗せて語られているような…


久しく忘れていた、"自分がやられるかもしれない"という瀬戸際が見せてくれる光景に、バックステップを取った辰実は少しだけ笑って見せる。生命をすり減らし律動する饗庭の重低音に"ありがとう"を言うが如く、辰実は構え直して相対した。



「面白えのか、やられるかもしれねえってのに?」

「それぐらい危機感があった方が面白いだろう」


間合いを詰める辰実、鋭い右の蹴りは寸前で防がれる。すかさず右の正拳、饗庭から反撃に放たれる左のボディーブローを体を捻って躱すと、隙を狙って腹に正拳を打つ。この一撃は饗庭に当たったものの、相打ちで辰実も饗庭の右拳を顔に当てられてしまった。


鉄球を顔にぶつけられたような衝撃、思わず辰実はよろめきながら後退してしまう。無慈悲にもその隙を突こうと眼前に迫る饗庭に、防戦一方の状態まで押し込まれていた。"本当にこの状況が面白いのか?"と問われているように、両の拳が不規則な速度と威力で阿修羅のごとく打ち出される。


クリンチ(相手に抱き着くような行為で、ボクシングでは相手のパンチを無力化するのと呼吸を整えるのにつかわれる)に逃げる事すら許さない無慈悲な大小のビートを辰実は何とか捌けるものもあれば、無理矢理に受け止めるしかできない事もあった。


寸前で受けるのにも、体力を要する。


痛みで体力を削られないものの、捌くではなく受け止める事にも体力を消費してしまう。一撃を体に当てられなくとも、"受け止めて防ぎ"続ければ確実に辰実に限界が来る事は分かっているだろう、それでも防戦一方で何も手を打てない。


シンプルなワン・ツーで繰り出されるジャブと、余力を残したストレートの繰り返し。ハードロックのリズム隊が繰り出すように重厚な響きで辰実を追い詰めていく。


7回目のワン・ツーを凌いだ所で集中の低下を意識されられる程度に体力を削られ、上手く捌く事もおぼつかない状況にまで辰実は追いつめられる。未だ余裕を見せる饗庭が、ここぞとばかりに打ち出した右ストレートを辰実の左肩に打ち込む。


防御もできず、左半身を吹き飛ばされる。


鈍い痛みに襲われるも、無慈悲に次も右ストレートの恐怖を打ち付けようとする饗庭であったが、すんでの所で堪えた辰実は打ち出された饗庭の右腕にしがみつく。


その状態から右腕は掴んだまま体全体を勢いよく左に捻る。自分の体が半回転する辺りで右脚を開いて深く落とすと、捻りで重心を崩した饗庭がそれに引っ掛かり勢いよく背中を地面に叩きつけられた。


柔道の"投げ"。上半身は背負い投げをしながら、下半身は体落としを極める。実際に柔道でもよく使われる投げ方で、背負い投げで前向きに踏ん張られそうな時に足を引っ掛ける事でダメ押しをする。


硬い床に投げられれば、否が応でも体に鈍痛が走る。背中が床に叩きつけられる感触と共に、苦悶の声と相を発した饗庭からは"確実に"ダメージが入ったと伺える。しかし反撃に成功したとはいえ辰実も消耗しており、饗庭を投げてすぐに後ろによろけ、荒れた呼吸をしていた。



「甘く見てたぜ、それだけ本気って事か…」

(さすがにタフだな)


「しかし黒沢よお、いつもスカシこいてたお前が、ここまでなり振り構わず来てくれるなんてな。俺は嬉しいぜ?」


饗庭の喋る様子からも、確実にダメージが入っている事は分かる。…にも関わらず"まだ余裕だけどな"とまで言いたげにゆっくりと起き上がる。


「面白えなあ。ボクシングの選手やってた時も色んな奴と戦ったけど、今のお前はソイツ等より確実に強い!やりがいがあるじゃねえか。」

「…できれば今ので倒れて欲しかったんだが。本当に驚かされるよ。」


辰実も、本気である。

そして饗庭も、本気である。


今この状況でも大分"ヤバい"のに、ここからはもっとヤバい攻撃が来るのだろう。辰実もなりふり構ってられないのであれば、それを投影するように饗庭もなりふり構ってられないのあった。



(そう…なりふり構ってられないのよ、私)

7年前の思い出が、頭をよぎった。辰実がマネージャーになって日も浅い頃、"恩田ひかり"としての日登美から彼女の生い立ちや境遇を聞いた事があった。雑念がよぎった訳では無く、脳裏に浮かんだ彼女の悲しそうな表情は辰実に戦いの意味を問いただす。


―――この戦いは、何のための戦いか?


辰実の知っている日登美は、"モデル"という仕事に必死であった。弟を病気で亡くし、父もまた病弱で"風前の灯火"という状況であった彼女は、仕事にすがるしか逃げる道が無かった。…それだけに後の無い人間が必死である事も分かる。


では、辰実はどうだろうか?饗庭はどうだろうか?


この戦いに決着がついても、人生は続くかもしれない。しかし負けた側に"後はあるのか?"と聞かれれば"無い"と言うべき状況だろう。



(日登美さん、今ここで俺は貴女の悲しみを知りたいんだ)


饗庭のその先の、"真実"に触れる事が日登美の事を知る唯一の手掛かりと言ってもいい。引き裂かれた、それ以上に目をそらしてしまった事に対する償いをしたい。


今更ながら、辰実は答えを今ここで悟る。


その答えが、覚悟が果たして本物であるのか?それが分かるのは、目の前にいる饗庭の"本気"とぶつかってみてからだろう…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る