勝利の前の一敗

(前回までの話)

饗庭と日下部に請求された逮捕状を打ち消した防犯対策係の下に、知詠子をはじめ捜査二課が現れた。"偽物"の饗庭の説明とともに、辰実と梓が入手した"日下部と支倉の取引の約束"を証拠として提示した所で、状況は一転する。


知詠子の口からは、辰実も予想だにしなかった"共闘戦線"の提案がなされ、防犯対策係と捜査二課、計10名による逮捕作戦の決行が決まったのであった。



 *


アイランドヒルズ1階ロビー


黄金色の照明が白色に模様の入った大理石を照らしているために、大広間は豪勢なシャンデリアだけが白金の輝きを放っていても、壁には黄金の輝きが映し出されていた。そしてダークブラウンの床石がヒルズの高級感に一役買っている。



「こういう場所に来ると、緊張してしょうがないんじゃ」

「こんな場所とは普通、縁が無いですからね。」


3手に分かれて"サロン"に突入したはいいものの、辰実と駒田が真っ先に駆け込んでいったのはロビーにあるトイレであった。


作戦の内容としては以下の通りである。


第1班(鷹宮含む捜査二課4名と片桐)はサロン会場へ潜入。第2班(駒田、知詠子)はサロン会場となっているヒルズ40階より上(VIPルーム)付近の偵察、そして第3班(辰実、梓、重衛)は辰実が饗庭の確保、残り2人がヒルズ入り口前にて待機(覆面パトカーで饗庭を護送する算段)であった。


辰実との約束をしている饗庭は確実に遭遇する可能性があるとして、他の2人をひとまず探し出すというやり方。勿論の事、最低限の人数で行っている。


…にも関わらず、早速2人がトイレに走っていったのであった。



「饗庭との決戦にトイレは持って行きたくないですからね。」

「試合中にもよおすと面倒なんじゃ」


"トイレに行きたかったから饗庭に負けました"なんて言ったら、示しがつかないどころか人生の汚点にまでなってしまう。原因は防犯対策係4名と知詠子が一緒の覆面パトカーに乗り合わせた事である。


"完全に防犯対策係を信用した訳では無い"という事なのだろう。司令塔の片桐を切り離し、他の4人に対する"お目付け役"という形で知詠子を配置していた。それ程までに"女傑"の威力は防犯対策係の脳裏に焼きつけられているのだ。


「…この前科捜研に行った時、黒さんの高校の先輩じゃ言う人に会ったんじゃ。」

「高校の先輩ですか?」


小便を済ませ、辰実と駒田は手を洗いながら会話をしている。正面の鏡に映っている自分の顔は、いつもの仏頂面に重みがあったように辰実には見えた。


「名前聞いとらんかったんじゃが、"空手部の先輩"で細長くて青白い、眼鏡の人じゃった。陽気な人じゃいうんは覚えとります。」


「ああ、北村さんですか。」


北村元気(きたむらげんき)の事は辰実もよく覚えている。"俺ってこんなに貧弱そうなのに、元気って名前なんだよー"とふざけた事を言う、気さくな先輩だった。


「ちょっと手前味噌な話なんですけど、俺は高校の時、空手部の1つ上の先輩達には練習試合含めて1回しか負けた事無いんですよ。」

「黒さんが強かったという話は、わしも北村さんから聞いとります。」


「…その1回、負けたのが北村さんでした。」

「ほう、あの人が。お世辞にも強そうには見えんのじゃが。」


それはそうである。189cmもあって車の助手席ですら収まり切ら無さそうな駒田からすれば大体の人が強そうには見えないのだが、そんな色眼鏡を外しても"強そうには見えない"のが北村元気である。


「その時もね、結構痛いやられ方をしたんですよ。…今朝方の水篠みたいに。」


辰実と駒田は知詠子が提案した"共闘戦線"の流れを"負け"として認識していた。


宮内が考えていた作戦ではあったが、それを察して知詠子が提案に一枚噛んでしまった事で捜査二課にも"有利な状況"と言うのができてしまっている。いつものように辰実が変な事を考えて駒田がそれに乗っかる、宮内の指示があって片桐のGOサインが出るという"ペース"を崩された事は間違いないと言っていい。



「…………」

「背が高いからリーチはあるんですけど、突きの速さも蹴りの速さも、反応の速さも俺の方が圧倒的に強かったんですよ。一本勝負でいつもみたいに攻めて勝とうとした所を、上手い具合に上段蹴りを貰っちゃいまして…」


駒田は、そんな話をする辰実の表情をじっと見つめていた。


「駒さん、どうかしましたか?」

「お…、ああ。黒さんが昔の話を笑いながらするんは珍しいと思ったんじゃ。」


気が付いたように、おぼつかない返事をして駒田がそんな事を言ったものだから辰実も"駒さんの中で俺はどれだけ重い過去を背負ってる男になってるんですか?"と笑いながらツッコミを入れる。


「そういうんは、よう覚えとるモンです。」

「ええ、高2の総体の直前だったからよく覚えてますよ。」


辰実が"直前"と言った辺りで、駒田は何か思いついたような顔をする。


「そう言えばわし、緊張しとるとさっきまで思うとったんじゃが、実はそんなに緊張しとりませんでしたわ。」

辰実は、そんな駒田の様子に思わず"駒さんにしては珍しく分からない事を言いますね"と答えた。話の核心は次の言葉ぐらいで出ると期待して。


「勝ちが続けば、そりゃあ勢いに乗る事もあるけえいい事なんじゃが。…それでも、その分の緊張ってのはあるけえ一概にいい事とも言えん気がするんです。」

「ほう、その心は?」


えらく哲学的だ、と思いながら辰実は駒田の話に興味を示す。


「黒さんは、今緊張しとりますか?」

「無いと言ったら嘘になりますが、さほど。」

「それは、防犯対策係がさっき"女傑"に滅多打ちにされて来たからじゃ。」


負けた事で緊張がほぐれたと言いたいのだろう。しかし駒田がこんな場で自分をなじる男では無いと分かっているから、その言葉に辰実は"思い当たる節"を探してみた。



「負けたら負けたで、総体は何でか分かりませんけど緊張しなかったんですよね。」

「わしも今思ったんじゃが、それで全部ほぐれたんかと。地に足が着けば気が楽になる、そういうモンじゃけえ。」

「…成程、今この状況も大事な"一敗"って事"ってですか。」


先程から念入りにハンドソープで手を泡立てて洗っていた辰実は、センサーに反応した蛇口の水で泡を洗い流し、ハンドドライヤーで水滴を丁寧に落とす。


「ですが駒さん、俺は水篠に感謝はしませんよ!」

辰実は駒田に正面切って語気を強める。それは威圧の強め方では無く、また別の方向の、奮起と言える強め方であった。


「勿論、わしもです。」

「あの女の泡食った顔を楽しみにしてて下さい」


"この様子じゃったら大丈夫じゃ、黒さんは絶対饗庭に勝つ"

そんな気持ちで笑みを浮かべる駒田に背中を向け、辰実はトイレを後にする。更にその後ろを駒田はスーツの襟を正しながら歩き出した。



 *


「貴方達は、いつもこんな風に緊張感が無いのかしら?」


辰実と駒田がトイレに駆け込んだ一方で、ロビーで2人を待っていた知詠子は、腕を組んだまま不機嫌そうな顔をしている。他の捜査員は既にエレベーターでサロン会場に潜入した事から、早く行きたいのだろう。


「そんな事は無いと思います」

切れ味の鋭い刀の、しかも切っ先を眼先に突き付けたような緊張感を擦り付けられながらも、不機嫌そうな様子の知詠子に対して重衛は答えた。


「…ここまで人と足並みを揃えようとしない人も、中々いないわよ?」


事の次第を考えれば、捜査二課にとっては"正念場"だった。その正念場が出足を挫かれた上に、更に足を引っ張ってきた人員が"共闘戦線"と言いながらも好き勝手して協力の意思が見えない。



「すまない、待たせた」

呑気に帰ってきた辰実と駒田に、知詠子の瞳の切っ先は向けられる。


「とても饗庭に1人で戦いに行く人の様子には見えないわね」

「どこかの女傑様が色々とやってくれたから、自分の底が見えそうになってな。…人間、自分の底が見えそうだと思った瞬間が面白いんだよ。」


「貴方はいつになっても屁理屈しか言えないのかしら?」


食ってかかられ呆れ顔の知詠子を、辰実は鼻で笑う。腹いせでは無く、"俺は捜査二課を信用しちゃいないぞ?"と遠回しに意思表示したものであった。



「どこぞの女傑様のように、ちゃんとした理屈で物事を進める事が出来ないものでな。…そもそもうちの課長に理屈が通用すると思ってるのか?」


知詠子は宮内の顔と、鷹宮が言っていた"防犯対策係の課長は一筋縄じゃいかない"という言葉を思い出す。…この話には続きがあって、"上司が上司なら部下も部下だろう"とも鷹宮には言われていた。その意味が今まさにこの状況である。


「成程、よくできた忠犬よ」


知詠子の"御挨拶"にも、辰実は眉一つ動かさない。こういう話は自分の十八番だから、せめて意味が無いまでも"あまり偉そうな態度をとるんじゃないぞ"という最低限の牽制にはなるように効いてないふりだけをしておこうとしていた矢先である。



「何か言いたい事があるの?」


知詠子が向いたのは、重衛と梓のいる方であった。思わずビクッとなる重衛と梓であったが、辰実と駒田にはその前の一瞬に梓がどこか不満そうな表情をしていたのが見えていた。それなら知詠子にも分かっていたのだろう。


「あんたじゃない、そっちの団子頭の"お芋ちゃん"」


"女傑"が示しておきたいのは、まずこの事件が"捜査二課"の追っている事件であり、その邪魔をしたのが防犯対策係であるからちゃんと尻を拭えと言う事なのだろう。恐らく、それをちゃんと示すようにしなければ今後、組織のメンツが立たないので片桐の部下4名に釘を刺している。


"芋"という単語に、梓はまた一瞬だけ不満そうな顔をした。


「芋じゃない、俺の部下だ」

知詠子は辰実に背を向けている状態であったが、まるで獲物を前にした狂犬のように彼が殺気立っていた様子を見抜く。"どっちでもいいわ"と話をはぐらかした知詠子を無視するように辰実は数歩動いて梓と重衛の前に立って笑顔を見せる。


「すぐに饗庭をそちらに寄越す。…馬場ちゃん、署まで連れて行くのは今回任せた。重にも手伝ってもらうから大丈夫だろう。」

「分かりました」

「了解っす」


辰実の指示で、先程まで緊張感の無かった防犯対策係4名は一気に"仕事の顔"になる。"遅いのよ"と知詠子の言っている声が聞こえた気はしなかったが、今ここで女傑が4人に目を光らせている事などどうでもいい様子であった。


「すいませんが駒さん、重をお借りしますね」

「分かりました。」


"さて、俺達も行きましょうか"と言われればたちまち駒田と知詠子はエレベーターに乗り込むために後について行く。いつもの辰実の様子であったが、それは嵐の前の静けさだろう。



 *


40階にエレベーターが着くまでは、短い時間であった。こういう時の緊張は時間を長く感じさせるにも関わらず、それほどの時間を感じなかったのは心に余裕があるからだろうと駒田はふと思う。


「このフロアの奥にエレベーターがまたあるけえ、それを使って48階まで行って、更に通路を行けば饗庭のおる場所ですわ。」

「それはまた中々の手間ですね。」

「手間に加えてお迎えも来ませんじゃろ」


"不親切な友人でしょう?"と辰実は皮肉めいて笑った顔を駒田に向ける。"男じゃったらそういう気遣いの無いんは当たり前じゃけえ"と駒田も笑った。


サロン会場の大広間を前に2手に分かれている通路、辰実は1人影の差した右側の通路へ走っていく。饗庭と決着をつける前の辰実は大きく見えなかったが、それでも飾らない辰実の様子であったために駒田は心配する事なく左側の通路へ向かう。


(黒さん、健闘を祈ります)


通路の奥にあったエレベーターを昇って48階に移動。重苦しい自動ドアが開けば、目の前には三叉の通路だが、"真ん中がガーデンVIPルームですよ"とでも言いたげに広い。左右の通路は普通ぐらいの広さで先に部屋はあるだろうが、真ん中の通路を行った先の部屋程の高級感は無いのだろう。


迷う事無く、辰実は真ん中の道を行く。


歩を進めるたびに心拍数が上がり、心臓の音が耳を殴打するだろうと思いきや心臓をはじめ血液の流れすら静かに事の顛末を見守ってくれているようだった。


高級感のある白い壁と敷き詰められた紅色の絨毯。天井の照明があるから通路は暗くない、そんな意匠を見て楽しむだけの落ち着きがある。…しかし現実はそれを許さず、辰実を通路の奥にある大扉へと動かしていく。


大きな扉。片方だけ開けるのだろうか?そんな事も考えず辰実は両の掌で押しながら、全身の力で扉をこじ開ける。



「待ってたぜ」



"VIPルーム"と言うに相応しい、天井にはセピア色の照明にシャンデリア。敷き詰められた柄物の絨毯や、インテリアを見ればその高級感はどんな目利きじゃなくても分かるだろう。そんな部屋の入口を開け、目の前に置かれていたソファーとテーブル、L字型をしていたソファーの端に饗庭は座っていた。


開けた扉の鍵を閉める。これは辰実の"逃げない"という覚悟で、"2人だけ"という饗庭との、すなわち友人との約束を守るという意思表示に他ならない。



(さあ、もう戻れないぞ)


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