女傑

(前回までの話)

仕事に饗庭にと、立て込む一日を過ごし帰ってくれば夜の11時。いつものようにリビングにいた愛結と話をしながら、燈がこねてくれたハンバーグを口にした。


…そして、饗庭と会っていた事を話した辰実は"貴方の昔の事を知らないわ"と言った愛結に、"てぃーまが"にいた時の事と、日登美が恋人だった事を伝えた。



 *


T島県警察本部、捜査二課


「饗庭と日下部の逮捕状、請求が却下された」


捜査二課に所属し、2人の逮捕現場にも臨場する予定であった水篠知詠子(みずしのちえこ)が班に所属する同僚からこの話を聞いたのが朝の7時40分であった。



「どういう…、事でしょうか?」


使い古された事務用の椅子に座っていた知詠子が、焦った様子で報告しに来た男の目を覗き込むように見ている。鈍く光る宝石のような瞳が自分に光を向けた瞬間に、刀が鞘から抜かれる瞬間すら見えない"神速の居合"を喰らったような感覚に襲われる。


"女傑"


捜査二課の面々は、水篠知詠子をこう称している。捜査二課で唯一の女性であり、若いながら歴戦の捜査員と遜色の無い働きを見せる彼女を、いつからかそう呼ぶようになっていた。


滑らかに墨を塗ったようなワンレングスの長い髪に挟まれた両の瞳は、業物の切れ味と宝石の美しさを併せ持っている。座っているから感じる事は無かったが、スレンダーで長身の彼女が"高嶺の花"として思われているのも"女傑"たる所以と言っていい。



報告をしに来てくれた中年の男は、知詠子より階級が1つ上で堅物そうながら気さくな一面もある。学生時代は相撲部だったそうで、恰幅が良かった。


「饗庭の"証拠"に難癖がついたみたいだ。色々と"賄賂"の裏に饗庭がいた証拠があったハズだが、その信憑性が無くなったって話だよ。」


眉をしかめる知詠子。相手の男、鷹宮(たかみや)はまたまた居合の一閃をその身に受けてしまったように錯覚してしまった。そんな時は大体、知詠子は何か腹に据えかねている所が見受けられるのだが、今回に至っては鷹宮もその気持ちは理解できる。


「…若松のカフェに爆弾仕掛けられた事件、あっただろ?」

「"しだまよう"とか言う迷惑配信者のカメラマンが犯人だった事件ですか?」


爆弾が仕掛けられただけでも大事である。勿論の事、"地蔵ボンバー事件"の顛末はニュースでも取り上げられ、新聞の一面も飾った。


尚、この事件に関しては捜査二課は一切関わっていない。


「その事件も、饗庭が唆したという話だったんだがな。その"唆した"っていう饗庭が偽物だったんだよ。…新東署の"防犯対策係"が犯人が饗庭の顔も知らなかったという事から発覚したらしい。」


知詠子は、脚を組んで考え事をし始めた。"ちょっと怖く見える所はあるけど、モデルにいたっておかしくないような美人なんだよなー"といらぬ事を考えている間に、次の言葉が発せられる。


「防犯対策係、ですか…」

「見つけたのは、今年になって防犯対策係に配属になった奴らしい。若い男なんだが中々に知恵の回る男で、"しだまよう"もソイツが返り討ちにしたらしいな。」


出来る男は嫌いでは無いが、捜査の足を引っ張る事をしてくれた事に知詠子は怒りを感じずにはいられなかった。


「饗庭はダメでも、日下部の逮捕までダメになるという事は…」

「いいや、日下部もダメ」


鷹宮は、梅干しのように顔に皺を寄せて言った。知詠子のように目の奥に怒りを光らせる事も無く、穏やかに話を続けてくれている。


「偽者の可能性、ですか…」

「まあ、そうなるわな」


"気になりますね"と言って席を立とうとした知詠子を、鷹宮は制止する。事の仔細を尋ねに"キャップ"と言われる捜査の陣頭指揮を執る男の所に行くのだろうが、まだ次の話がある事を伝えると素直に知詠子はこちらを向いてくれた。


「…その事で、8時に来るようにと呼ばれている。」

「鷹宮さんがですか?」


「俺だけじゃない。水篠、福江、坂崎、埜村の5人だ。」



そんな話をしている間に、時計は8時を回っている。部屋の奥にある"キャップ"の席に鷹宮は知詠子を連れて移動を始める。それを見て合わせるように、スーツ姿の3人も席を立ち、奥の方へと歩き始めた。


「集まったか」


捜査二課で、今回の作戦で日下部、饗庭の逮捕について、指揮を執っていたのが"キャップ"と呼ばれる鵜川(うかわ)であった。捜査二課の第一係のトップを務めている男で、階級は"警部"と言われれば所轄では課長クラスの人物である。


日本の警察官の殆どが、巡査(巡査長)、巡査部長、警部補の3階級で構成されている事を考えれば"警部"という存在がいかに大きなモノか分かる。鷹宮、知詠子含む呼ばれた5人にはそれ相応の緊張が走る。



「若松町における爆破事件の饗庭が教唆した事が、本人によるものでは無かったと聞きましたが…」


鵜川は、険しい顔で煙草を吸っている。緊張に圧され、気まずい様子でゆっくりと流れていく紫煙の奥に、荒鷲を思い起こさせるような鋭い眼光と、やや白髪の混じったオールバックの髪型が5人の目には映っている。


「その通りだ。逮捕状は請求されず、その証拠を集めていた奴らは今、監察や他の連中に色々と問答をくらってやがる。…今、まともに動けるのがこの5人だよ。」


橙色の火が、燃えている煙草の一本とともに急降下し、灰皿でもみ消された。


「まともに動けると言われましても、令状が紙切れになってしまっては…」

「いえ、まだ捜査二課が日下部と饗庭を引っ張ってくる方法があります。」


鷹宮をはじめ、正立している男4人がこぞって消沈している状況で、たった1人口を開いたのは知詠子であった。



「無くても防犯対策係に問いただして、捜査の指揮を奪ってやればいいんだが」

鵜川がそんな事を言えるのも、本部ならではである。"デカい事件は本部"の畑と考えれば、所轄の生安、しかもよく分からない5人集団のために天下の捜査二課様が気を遣う事なんて一切ないのだ。


"女傑"が掲げる御旗は、鵜川の高慢ちきで染まってはいない。あくまで知詠子は"この時点で逮捕状が却下されてもまだ逮捕を諦めていない"状態であって、鵜川のように腹いせじみた権力の使い方をしようと考えているのとは大きな違いがあった。


だから、"正義は我にあり"と言わんばかりに"引っ張ってくる方法がある"なんて事を言ってのけた訳である。


「捜査の結果では、"支倉"という男が日下部、饗庭から受け取る賄賂、その橋渡しになっていたハズです。」


"支倉か…"鵜川はそう呟いた。


「水篠。お前は"サロン"に支倉が来る可能性はあると思うか?」

「可能性は高いと」


大多数の集まる会合を隠れ蓑に、何らかの取引があってもおかしくはない。


「まあ、高くても高く無くても、この5人には動いてもらわねばならんのだが」


鷹宮が知詠子の方に目をやると、いつもの様子で真剣な目をしていた。仕事熱心なのは良い事であると思いつつも、場の雰囲気が彼女の一声に引っ張られそうになっている事に恐ろしさを感じる。



「邪魔された分は、きっちり返して差し上げるようにな」


少し間を置いて出た指示は、いやらしく笑む鵜川の口から出された。返事をし素早くその場を辞す5人、ばらける一同であったが、鷹宮は知詠子の後を追って話しかける。



「…水篠、何か考えでもあるのか?」


知詠子の長い黒髪が揺れた。


「私はまず、"防犯対策係"を当たってみようと思います。」

「1人でいくのもアレだろう、俺も行こう。」

鷹宮があれこれと気を遣っている間も、知詠子はすぐに出る準備をしている。"言ったら聞かない"ように見えて他人の話は聞いてくれはする。


「…話を聞くだけですので、私だけでも十分ですよ?」


"お構いなく"ではなく、"鷹宮さんのお手を煩わせる程のものではありませんよ"と知詠子は笑顔を見せた。ツンツンした美人よりも笑顔のある美人、と言うのは的を得ている話で、この差が知詠子にも好感を持たせていた。



「新東署の生活安全課だろう?…あそこの課長は曲者なんだ。」


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