寝相の悪い妻
(前回までの話)
饗庭からの誘いを受け、商店街に立地するホテルレストランに向かった辰実。宮内の提案により"舘島事件"の話を餌に饗庭を揺さぶるが、両者とも一向に譲る気配が無く苛立っていた状態であった。
辰実の誘いに乗るか、"あの方"との関係を続けるのか?揺れていた饗庭に辰実は"勝てば全て話す"と言った事で当日会って殴り合いをする事による解決となったのである。
*
帰宅すれば夜の11時である。
リビングの電気が点いているから、愛結はまだ起きているのだろう。今日すべき
家事と、チビ達と遊ぶ約束を放ったらかして仕事と饗庭に費やした穴埋めの話をしなければと思いながら、辰実は玄関の戸を開けた。
「お帰りなさい」
不機嫌そうな顔をせず、いつもの笑顔で愛結は迎えてくれた。寝間着姿のシャツ一枚でソファーに座ってティータイムを楽しんでいる。
(…こういう時ぐらい、不機嫌そうな顔をしてもいいのに)
そうで無いと、穴埋めの話をしにくくなる。ここで不機嫌そうな顔をしてないから逃げ切ろうとしても、後で不機嫌そうな顔をする事は無いのだ。
こういう時に限って、"良い妻を得た"と思ってしまう。本当はもっと我儘を言ってくれたっていい、娘の分を差し引いてもまだ辰実には受け入れられるだけの度量があるとは思っていた。
「すまない。仕事の後、いきなり知人に呼ばれていたんだ。」
「…そんな事だろうと思ったわ。」
辰実がダイニングテーブルに座って、置かれている夕食のラップを剥がすと丁寧に焼かれたハンバーグが現れた。傍らで愛結は冷蔵庫から先日に辰実が作っていたチョコレートムースを2カップ取り出し、ダイニングテーブルに持ってきた。
「燈が、ご飯作るの手伝ってくれたのよ」
7歳で辰実は家の手伝いをしていただろうか?少なくとも9歳下の妹、華佳が産まれるまではしていた記憶が無かった。施設でも手伝いをしていたのだろうと思うと、急に居た堪れない気持ちになってしまう。
「うん、よくできてる」
あの小さな手で、冷たい肉を何回もこねたのだろう。味も良いがそれよりも"燈が家族として頑張ってくれた事"の方が嬉しい事実であった。そして冷めきっていないハンバーグの方が、高い所で食べたステーキよりも美味しい。
付け合わせで置かれていた、小松菜のおひたしと人参を2口で片づけ、輪切りのフランスパン1切れで口の中をリセットした後はデザートのチョコレートムースであった。今回はザッハトルテ風に仕上げたから多分美味しいだろう。
「埋め合わせは別にいいの。こうやって2人で話ができるだけでも幸せだから。」
「…そうか。でももっと我儘を言っても良いんだ。」
愛結は、首を横に振る。
チョコレートの味に隠した、ブルーベリーの味がほんのり生きている。ジャムの有る無しで変わる事に、辰実は自分でも驚いてしまった。
言いたい事を言ってくれている事はよく分かっている。それよりも"埋め合わせ"がしたいと思って辰実はそんな事を言ったと思えば、分かったのは1つの答え。
(いつも、帰ってくる事が分かってるからなんだな)
どんな事があったって、辰実はちゃんと帰ってくる。寄り道はするけど、自分以外の女性と道理を外す事は無いし、いつだって自分の事を一番に考えてくれていると分かっているから愛結は"この場では"何も言わないのだろう。
(明日の結果次第では、何があるか分かったもんじゃない)
…そう思った時に"何か話しておかないと"と思ったが何を話していいのか分からない。お互いに、帰って来るのが当たり前だと思っていた所はある。
気まずくなって、"風呂に行く"と言って2階の夫婦の自室に行き寝間着を取った後にまたリビングを経由して風呂に行く。服を脱いだ時に、左の脇腹に残った傷痕を眺めていたが、自然と日本刀で斬られた時の恐怖は思い起こさなかった。
(愛結との沈黙は、苦じゃないんだが…)
珍しく、言葉が出ない事に筆舌に尽くしがたい気まずさがある。シャワーを済ませるまでの間、何を話そうか考えてはいたが何も思いつかず、ただ明日で何かあったらと思って"何か話さないと"と焦っていただけであった。
風呂を出ると、寝間着のパーカーが無くなっている。"持ってくるのを忘れていたか?"と思いながら寝間着のシャツとスウェットを着てリビングに戻ると、置いていたハズのパーカーを愛結が着てソファーに座っているのだ。
「何だそこにあったのか」
実は、結構嬉しい。これが分からない読者の方には是非、妻か彼女にパーカー1枚姿になってもらって欲しい。
(日登美さんも、イタズラで俺のパーカーを着たりしたんだよな)
そんな事をふと思い出しながら、冷蔵庫にコーラを取りに行く。"人の家の冷蔵庫に勝手に置かないでよ"と日登美には怒られた事も思い出した。
愛結の隣に座り、缶のコーラのプルタブを起こす。炭酸を口に含んだ後で、辰実は今日あった事を話し始めた。
「"てぃーまが"の饗庭と会ってきたんだ」
「饗庭さん、知り合いなの?」
そう言えば、そんな話をした事も無かった。"てぃーまが"にいた事は話をしていたが、饗庭の事も日登美の事も話をした事が無かった。
「俺と饗庭は同期なんだ。」
"そうなの?"と言って、愛結はいじらしく微笑んだ。何か良からぬ事を考えるような笑顔をしていたから、辰実は少しだけ焦ってしまう。
「俺は何か、変な事でも言ったか?」
「辰実が"てぃーまが"の話をちゃんとするの、初めてだと思って」
"明日、何があるか分からない"という気持ちが、自然と辰実をこの話に導いたに違いない。ちゃんと帰って来たいと思うが、"どうなるか分からない"と焼き付いている事が、饗庭の選択だけでなく辰実の選択も"危険を伴った"ものだと言っていい。
「仲が悪かった訳じゃないんだ」
「分かるわよ。饗庭さんと辰実はちょっと似てる所があって仲良くなれそうだし。」
「…辰実は、何の仕事をしていたの?」
明日への不安が、自然と辰実をこの話題に導いたなら愛結のこの質問も導かれたものだろう。"明日、何があるか分からないんだからちゃんと話しておいた方がいい"と何かが後押しするような、そんな感覚に辰実は背中を触られる。
「"恩田ひかり"の、マネージャーだったんだ」
大学の卒業論文で、公共図書館の利用実態を調査するための事例研究で地元に帰ってきた事、その時に"てぃーまが"で撮影の手伝いやイベント設営のアルバイトをしていた時に"恩田ひかり"と知り合った事、それで"てぃーまが"に就職しマネージャーとなった事を、辰実は淀みなく話をする。
愛結はその話を、コーラを飲みながら聞いていた。
(パーカーもコーラも取られるなんて、どれだけ注意散漫なんだろうか)
"でも君だからいいんだ"と思いながら、辰実はいつものぶっきらぼうな表情で愛結からコーラを取り返した。そんなに飲まれてはいない。
「あの人の彼氏さんも、辰実は知ってるの?」
日登美の"恋人"であれば通常は"彼女にありとあらゆる性的虐待を加え、堕胎までさせた"張本人と考えるだろうか?グラビアアイドルになってから日登美とは親交のあった愛結も勿論の事それは知っているハズである。
「…その彼氏さん、いつぐらいの時の?」
「辰実が"てぃーまが"にいた頃だよ。」
間を置くように、辰実はコーラを喉に流し込んだ。
「その"彼氏さん"、俺なんだよ」
時間が止まったように愛結は、辰実を笑顔で見ている。また"変な事を言ってしまったのか?"と思ってしまうけど、事実なのだから嘘のつきようが無い。
数秒経って、愛結は羨ましそうに目線を下に向けた。
「…辰実は私が"日登美さんにあんな酷い事をしたのに、自分から言ってくるなんて"とか思ってると思った?違うよ?」
「………」
辰実は、険しい顔をして愛結を見ている。
「あんな事になってしまう前に、聞いた事があるのよ。そしたら日登美さん、"愛想は悪いけど私の事をとても大事にしてくれて、それでいて誰よりもカッコいい"だって。…その時に凄く幸せそうな顔をしていたから、その彼氏さんがあんな事をしたって信じられなかったの。」
「そう思うのが普通だ。」
「私は、辰実が酷い事をしたようには思えない。貴方は日登美さんが言ってた通りの人だし、私も貴方の事を良く知ってる。あんな事をして平気でいられる訳無いもの、もし平気でいられるなら、犯人を射殺した事を今でも隠してるわ。」
引っ掛けるように弁明をする愛結の姿が、どこか日登美と被って見えた。日登美の"彼氏さん"と愛結の"恋人"は同じだったが、日登美と愛結は違うのに。
性格が違うハズの2人も、どこか似ている。もしかしたらそんな事を無意識のうちに"見ないようにしていた"のかもしれないと今更気づく。
「日登美さんの事は、今でも忘れられない?」
「…そうだな。」
"でも、もう元には戻らないよ。今はもう愛結の事が好きだからな!"と焦ってまくしたてる辰実の様子を、愛結は子供を見つめるかのような笑顔で受け入れていた。
「あの人の事は、忘れないであげて。こうやって忘れないでいた貴方のそんな優しい所が、私は好きなの。」
真っ当な理屈とも、変な理屈とも言い切れない事を言われた辰実は、何かを言うに困って、缶のコーラを空にしてしまった。それでもただ、"本当に良い女性と結婚できた"という事だけは言える事だろう。
「…恥ずかしい話はやめて、もう寝よう」
空になったコーラの缶を洗った後、またソファーに戻ってきた辰実は、不意打ちのように愛結をお姫様抱っこして持ち上げた。驚いた愛結は"ちょっと、恥ずかしいからやめてよ!"と言って頬を赤らめる。
「これでおあいこだ」
「意地悪」
日登美と愛結のよく似ている所が1つあって、"2人とも寝相が悪い"。そしてよく見るとそんな事が"可愛いな"と思えてしまう所が辰実にはあった。…それで恥ずかしい話をしたせいか、そんな妻の姿を早く見たくて無理矢理に寝る事にした訳である。
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