或る男の決断

(前回までの話)

休憩室で辰実と話をしていた梓は、辰実が真実を話さないのは"大切にしている思い出を話さず自分の中にしまっておきたいから"だと知る。

一方、辰実は"彼女"を取るか"自分"を取るかの決断に迫られている。失った幸せを埋めるように生きてきた辰実の、今の幸せが崩れる事を怖がっていた。



 *


(私は、貴方に生きていて欲しいの。もし消えてしまいたくなっても、潰されてしまいそうになっても…、私は受け止めたいから。)


祈るように"思い出"の写真を開いたまま両手で握ったスマホ。うなだれる様子の辰実が思い出したのは、写真にはいない愛結の言葉だった。



"舘島事件"で負傷した辰実が暫くの入院を余儀なくされた時、愛結が身籠っていたのは双子の女の子だと分かったぐらいの時期である。やっとこさ退院し、くたびれた様子で家に戻ってくれば"話があるの"と神妙な顔つきで言われ"怪我は大丈夫なの?"等と色々な質問をされた後、そんな事を言われたのである。


腰の左側を日本刀で斬られた時の恐怖は、今でも残っていた。

斬るか斬られらるかの"瀬戸際"が、状況は違えど昔の事を思い出させたのかもしれない。


(貴女は、何て言うだろうか)

祈るような様子だった辰実は、思い立ったようにスマホをしまい立ち上がった。



 *


6時00分


辰実が最後に戻ってきた事で会議室に6人全員が揃う。

"揃ったし、時間が来たから話を続けるぞ"と、冷たい様子で宮内は話を始める。


「…さっきまでの話の通り、恩田に害を加えたんは恋人ではないと言うのは分かっとる。考え方によっては"恋人"はホンマは誰か?これを知っとるかどうかで当事者の人間関係やら、立ち位置が分かってくるとワシ等は考えとる。」


下向きに話をしていた宮内は顔を上げ、辰実をじっと見据える。



「改めて訊くぞ。お前は、"恩田ひかり"とどういう関係やったんや?」



辰実も、宮内を冷静に見つめ返していた。さっきまでの"疑われている"事に苛立っていた様子とは打って変わって、風1つ無い水面のように落ち着き払っていた。


「酷な話かもしれないけれど、"言いたくない事"でも正直に言わなければ潔白を証明する事は出来ないわ。…今言わなければ私たちは貴方を"黒"だと判断して詰めていくしかない。だから、正直に話して?」

「もし正直に話せば、もう今まで通りじゃいられなくなるとしても?」


7年前、"マネージャー"を交代させられた時から、辰実がどんな人生を歩んできたかぐらいの事は宮内も片桐も分かっているだろう。…勿論の事、それが崩れてしまう恐怖を分かっていながら辰実に選択を迫るとは酷な話としか言いようがない。


「少なくとも、今ここで貴方がいなくなる事は避けられるでしょう」

「では、後にそうなってしまった場合は?」


"その時はちゃんと責任を取るわ"と、緊張を底に沈ませて片桐は答える。"そんな事は誰でも言えるから誠意を見せろ"と言わんばかりに辰実は片桐を睨んだ。


「人を斬っていいのは、斬られる覚悟のある人だけよ」


片桐が自分の責任は自分でとる事を分かってはいたが、それでもこの先の話をするには"彼自身の言葉"を聞かずにはいられなかった。思い出を崩してしまいそうな恐怖と背中合わせの状況に、片桐が中途半端な状態でいるとなれば"絶対に話してなるものか"と意固地になりそうであったが、辰実はようやく心を開く事ができた。


「カマの掛け合いはこれで終わりや。黒沢、"正直に"質問に答えろ。」

「………」


言葉を返すまで一瞬の時間だったハズだが、辰実には長く感じる。


本当の事を話さなければ、潔白を証明できない。だがそうした場合、大事にしていた思い出がどこかへ消えてしまいそうな気がしていた。誰にも言わず、留めていたからこそ、それが大切にしていた自分自身のもとを離れ、二度と帰って来ないように思えて。


辰実がそんな表情で、心の隅にいた"彼女"に目をやると、切れた蛍光灯のように影が差していたからその表情を見る事ができなかった。"バチッ"と音を立てて白色の光が点くと、辰実の眼には愛結の栗色の長い髪と青い瞳が映っている。


"貴方に生きていて欲しいの"


悲しそうな愛結の表情が浮かんだ。引き剥がされたまま、失ったと思って生きてきた中で"彼女の遺した穴"を埋めてくれた愛結は、何処にも消えず辰実の傍にいてくれている。思い出を取るのか今を取るのか、そんな選択肢を突きつけながらも"私は貴方から離れないよ"と暗に選択を迫っているようだった。


愛結の笑顔が、彼女と被って見える。"今を取らなければ前に進む事ができない"と分かっていながらも、"思い出"を、自分の生きてきた過程を捨て去る事が、最後の最後までできない甘さを痛感している。


…だが、焦げ付いて消えない思い出を否定しながら生きていく事なんてできるのだろうか?結局"捨てきれない"と分かった時に、辰実の中で既に答えは出ているようなモノだったと言っていい。


(愛結の言う通り、俺はここで潰される訳にはいかない。…だからと言って"日登美さん"、俺は貴女を忘れたままでいる事はできない!)


思い出を捨てられなかったのは辰実の甘さではなく、"優しさ"であった。



「恩田ひかり、いや"織部日登美(おりべひとみ)"と恋愛関係にあったのは俺です。」



宮内と片桐でさえ、呆気に取られたような顔をしていた。駒田と重衛も驚いているだろう。梓だけは、まるで痛みを共有したかのように悲しみを黒紫の虹彩に浮かべていた。




「お前は恋人や、ちゅう事は犯人では無いという事か。」

「はい。…証拠もあります。」


この期に及んで辰実が嘘をつくとは宮内も思っていないが、ただ"証拠が無い"ためにその発言を信頼しきる事ができない。もしこれで"黒"であるならここまで捜査してきた人の苦労が報われない。


…それを分かって、"なら、彼女は神戸で何を買ったか覚えてる?"と片桐は質問をしてきた。勿論、辰実はそれに答えなければならない。


「限定品の、ブランド物のネックレスですよ。"偽物"に犯されても日登美さんはずっと着けてくれていた。」


ハーバーランドに一緒に行った事、その日はモザイクのステーキ店でランチをした事。"小腹が空いた"と日登美が言ったから南京町に行った事、その帰りに近くの商店街でホワイトゴールドのネックレスを買ってあげたのだ。



失ってなお忘れようとしても、焦げ付いたままでいるのだろう。その穴を埋めてくれたのが愛結の存在だとしても、片時も忘れ去る事はできなかった。


それ程までに日登美は、辰実の"大事な人"であったに違いない。



「そこまで言うなら、貴方は本当に"恋人"だったんでしょうね。」



彼が"白である"と判断されたその瞬間に、駒田と重衛はほっとした様子をしていたが、未だ梓は不安げな様子で辰実を見ていた。彼女だけが、辰実が大切にしていた日登美との思い出の"本当の重さ"を理解していたからである。



「だったら、責任を取らなければならないわね」


"白"だと分かったからである。潔白が証明された事に対し、片桐は何の反論も無く、あるがままを受け入れていたように静かな笑みを浮かべた。


「責任ですか?」

「そうよ。貴方を疑った事、それに貴方が最後まで言いたくなかった思い出を、無理矢理に言わせてしまった事。…言いたくなかった理由は分かるわ、幸せな今があるんだもの、そこからまた逆戻りになってしまいそうで怖かったんでしょう?」


"…捜査で貴方を犯人だと判断したのは私。だから私は償う必要があるわね"



「確かに責任は取ってもらう必要がありますね」


辰実は、その視線の切っ先を片桐へと向ける。冷静な様子で腕を組む宮内に、"これはマズいんとちゃうか?"と食いしばる駒田と重衛。"片桐さんを斬るんですか?"と、梓までもが潤んだ眼の水分で訴えていた。音を立ててまた点灯した白色光が、梓の眼に憂いの感情を乗せているみたいにも見える。



辰実は、片桐を斬るのか?

鞘から勢いよく刀を抜くように、その視線は鋭く片桐と宮内の両人に向けられる。


走る緊張が、辰実の一言目から繰り出される一閃を何秒にも長くしてしまう。



「今責任を取ろうとする事が、人を無理矢理巻き込んでおいてやる事でしょうか?俺にはどうしてもそれが"逃げ"であるようにしか思えません。…でしたら、俺は逃げませんでしたので片桐さん、ひいては課長にも"逃げずに"戦って頂きたいものです。」


抜き身の刀は誰も斬らず、その場に投げ捨てられる。


"誰も斬らない"という結果にほっとしたのは、その場にいる全員がそうだったのかもしれない。梓なんかは聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で大きく息を吐いていた。


辰実は、過去と戦う覚悟を決めたのである。


自分が愛した"織部日登美"と、理不尽に引き裂かれた気持ちを、無理矢理忘れようとして決着をつける事なく生きてきた事と向き合う事を。

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