1日目・布石
(前回までの話)
燈と梓の協力により、"しだまよう"の突撃を許しながらも何とかこれを撃退できた。…その後の報告では"わわわ"での突撃にオフィスの非常階段が使用され、防犯カメラに映っていないルートを選択している事が考えられる事が片桐の口から明かされた。そこで彼が考えたのは"突撃させて"逮捕する作戦。その提案がなされた所で、防犯対策係の1日目が終わる。
同日夜、饗庭が商店街のジムに向かうと、"しだまよう"からの挑戦を叩きつけられたが乗り気の無い饗庭に代わり対戦相手を名乗り出たのは辰実であった。彼は"偶然"居合わせたのかそうでないのか?そして居合わせた意図とは?
*
「…とりあえず3分3ラウンド制で。顔と金的はダメよ。」
道場破りと体験入会者の"イレギュラーな"対戦は、一応のルールに則って行われる事になった。"おじさん俺の顔も金的も容赦なくやっちゃっていいぜ?"とさっきからしだまが辰実に対して挑発を行っているが、"アレは言っても黙らないからボコボコにされてくれた方がありがたい"と思ってしまったためにオーナーも口を出さない。
(金玉は潰してやりたいが、あの脂ぎった汚い顔を殴りたくはないな)
"これはアンタに当ててやるぜ"と拳で虚空を打つ肥満体の男の挑発を、汚物を見るような視線で辰実は一瞥する。家族を散々な目に合わせた報いをこの場で受けさせてやりたいが、格闘技に青春を捧げた辰実にとっては"俺の私怨で武道を汚す訳にはいかない"という冷静さが視線の元には隠れていた。
「ファイッ!!!」
小気味良いゴングの金属音が鳴る。プログラムタイマーの赤いデジタル文字が2:59を示したその瞬間を、遠い過去のように辰実は懐かしく感じていた。
"1分でKOしてやる!"と意気込んだしだまは、すぐさま辰実に襲い掛かる。
10数秒の間、辰実はパンチを当てられながら後退し、からがら反撃のジャブをかますが当たるも全くダメージにはなっていない様子であった。その後もパンチを打たれるも辰実は"全て反応し"後ろに退いている。
「ありゃ黒沢さん、押されてるじゃない。」
「…………」
先程からやる気のなかった饗庭が、今は真剣な顔をして試合の様子を見ている。"どうしたの饗庭ちゃん?"とオーナーの黒井は様子を尋ねる。素人のオーナーにとっては、"この試合に何かある"事を饗庭の様子から悟ったのだ。
「これは、"遊ばれてます"よ。あのデブがKOされるのも時間の問題でしょう。」
「それじゃあ黒沢さんは、カウンター狙いって事?」
「いや、攻めようと思えばいつでも攻めれますよアレは。デブが"何処にパンチを当ててくるか"よく見切った上で、"触られはするけど全く効かない"ように避けてます。」
パンチは当たっているが、"ダメージの無いように"避けている。そして反撃をしようと思えばいくらでもできる、という事だけオーナーは理解した。
タイマーが2:48を指した所で、状況は一転する。
しだまの一方的な攻撃を既に見切っていた辰実は、右のフックが放たれた瞬間にやや右へ体を捻ると同時に、やや腰を落とし、手の甲を下向きに腹部への鋭い一撃を喰らわせた。
ヒットした瞬間に、すぐさま拳を引き構えの状態に戻っている。誰もが"お手本のようだ"と思う一撃であり、モロに喰らったしだまはその場に膝をつくものの、ゆっくり起き上がり続行の意思を示す。
辰実をなめ切っていたその態度ごと、その表情は"もう負けそうなヤツ"に変わっていた。
…起き上がってからは逆に相手が"攻める"事を辰実は許さない。
威力の低い牽制のジャブ、ローキック、ミドルキック、それを左右両方使い分け、攻め手を悉く封じてしまう。攻めのチャンスが僅かにできたと思えば、しだまは"柔道技"を使い出した。
腰を低く落とし、辰実の大腿部目掛けたタックル。"諸手刈り"と呼ばれる、柔道技でも禁じ手とされる部類の技である。これを現代柔道の試合でやれば即刻"反則負け"な事はしだまも理解しているが、それほどまでに"無意識に"追い込まれている事が良く分かる。
辰実も若干膝を曲げている分、しだまの上半身も低くしなければならない。それを利用し、近づく瞬間に合わせ坂を駆け上がるかのように1歩目でマット、2歩目で相手の右肩を踏んで背後へとジャンプした。
すぐさま振り向き、大振りの右フックを繰り出してきたしだまの上半身が前のめりになった瞬間、辰実はその場に背中をつくように倒れ込む。柔道技で言う"巴投げ"の要領であるが、その技が相手の襟と袖を掴むのに対し、辰実はどこも掴まない。
倒れ込む瞬間、"巴投げ"であれば相手の内ももに足を当ててひっくり返すのだが、辰実は相手が前のめりになった瞬間に合わせ倒れ込んだ勢いを利用し、鳩尾に蹴りをヒットさせた。
その威力に、脂汗をかき尻もちをついた様子を見て、審判をしていた若い男は"TKO"を判断した。タイマーは2:33でストップ、余裕の試合運びであったが本気でやればもっと早い時間に辰実は勝負を決めていただろう。
起き上がり、辰実は仰向けになって大きく呼吸をしているしだまの方に歩み寄る。"いい試合だった…"と汗をかきながら右手を前に出し、握手を求める。何も躊躇う事なく、辰実は右手を出し握手に応じる。
…しかし、これは"試合"も"スポーツ"も、ひいては"辰実"も冒涜する行為であった。
握手した右手を自分の方に引き寄せ、その勢いを利用して、しだまは左手で辰実の顔を殴ろうとする。…のだが、これにいち早く反応"してしまった"辰実。そして察知してしまった"冒涜"に対しとった行動は"反撃"であった。そもそもパンチを喰らう前に攻撃をしかけて"反撃"と言えるのかはグレーな話であるが。
踏みぬくように右足で腹を蹴る。多分、手加減はしているから気絶とまではいかないだろう。それでも痛みで悶絶はしている様子であった。悶えてうつ伏せにひっくり返り、息をしているだけのしだまの顔の辺りに蹲踞の姿勢で辰実は座り込む。
「有名になりたいからって、人の家に無理矢理上がり込もうとして家族にまで迷惑かけてとか、そういう事に怒って弱い相手を一方的に殴るような……、そんなつまらん事を俺はする気はない。ただ俺も武道を学んできた男だ、対戦の場で礼節を欠くような輩には容赦できん。」
…同じ姿勢のまま、更に少し間を置いて辰実は続ける。
「"常識破り"以外に、世の中には色んなエンターテイメントの形がある。例えば"勧善懲悪"だ、誰かに迷惑をかけるような悪党を、誰かがやっつける。…といった具合にだな。」
このような状況でも、カメラマンはしだまの様子を撮影し続けていた。起き上がったその男に歩み寄り、カメラの真正面で彼に話しかけた。
「どうだ、上手く撮れてるか?」
若干のにやけ顔を崩さない眼鏡の男に、"しだまよう"に対する怒りとはまた別の嫌悪感を辰実は感じていた。そんな事を思っているとは表情に出さず、いつものぶっきらぼうな表情に戻りカメラを取り上げた。
「もう少し大人気のある試合をすべきだったか」
と言って、撮影していた映像を消してしまう。これに後で気づいたカメラマンはどう思うのか分からないが、しだまは怒るだろう、"見せ場を消しやがって"と。自分がボコボコにされるのもエンターテイメントか知らないが、辰実にとってはどうでもいい。
「…しだまの所に行ってやらないのか?ビジネスパートナーとは言え、ただぼうっと突っ立ってカメラ構えてるなんて、冷たい奴だな。それともサイコパスなのか君は?そういう顔はしているけど。」
まるでお面をかぶっているかのように、重なる罵倒と挑発の言葉にもにやけ顔を崩したままカメラマンの男は何も言わない。
…反応があるか無いかは特にどうでも良かった。明日の"布石"になる事はこなす事ができた辰実の視線は、倒れた肥満体の男では無く饗庭に向けられていたのだから。
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