011
北条柾木が、久々の自分の肉体で午後の就業時間に突入していたその頃。
酒井は、蒲田の運転する車、警視庁生活安全部からのお下がりのスズキ・キザシの助手席で、東京都品川区、東品川一丁目の旧東海道に面した雑居ビルに入る、東華貿易の事務所に向かっていた。
いつもは何かと明るく話す、割と口数の多い蒲田も、先ほどから妙に口数が少ない。それもそうだろう、そう酒井も思う。なにしろ、これから向かう先は、かつて大騒ぎをやらかしてくれた、あの東華貿易だ。
酒井としても、分調班に転属になって最初の事件であり、今まで知らなかった世界に足を踏み入れた最初の一歩であり、そして、自分の失っている記憶の一部を取り戻すきっかけでもあった、その事件。
その事件において、悪い意味でカナメの存在だったのが、東華貿易の取締役である、
「ようこそ、お待ちしておりました。さ、こちらへ」
雑居ビルの三階の扉の前に酒井と蒲田が立ち、呼び鈴を押すより早く、東大が扉を開けて二人を呼び込んだ。綺麗になでつけられた髪の下の顔、細い銀縁フレームの眼鏡の奥の細い目をさらに細めて、満面の笑みを浮かべながら。
「……失礼します」
用心しながら、酒井は扉をくぐり、蒲田が続く。案内されたのは、十メートル四方ほどの部屋の中央付近に事務机が四つ、窓際に窓を背に大きめの机が一つ。あとは左右の壁一面と、そこから人一人分だけ離して設置されたファイル棚、及び床に積み上げられた大量の段ボール。独特の匂いと、漢字のみならずアジアのあちこちの文字が踊るファイルや段ボールで埋め尽くされた、いかにも個人営業の輸出入業者でございと言わんばかりの事務所のそれだった。
「どうぞ、おかけ下さい」
そう東大に勧められ、部屋の一角にある応接セットに酒井と蒲田は並んで座る。
「インスタントコーヒーでよろしいですか?すみません、生憎と今、お茶を入れてくれる事務員が出払っていまして」
そう言いながら、東大はアジアンテイストたっぷりのジェンガラ・ケラミックのマグカップに注がれたコーヒーを、ミルクとコーヒーシュガーの壺と一緒に酒井と蒲田の前に置いた。
はたして、これを飲んだものかどうか。過去の経緯から、どうしても酒井は慎重になり、逡巡してしまう。
「大丈夫よ、変な物入ってないのはあたしが保証してあげる」
出し抜けに聞こえてきた聞き覚えのある声に驚き、酒井は慌てて声のした方を振り向く。
そこには、恐らく先ほどまではファイル棚の死角になる位置に居たのだろう、何かしらのファイルを手にした
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