第104話 アンナの慟哭

 お兄ちゃんが帰って来ない……。


 無人島に向かい、もう十日が経っている。六日に一度の休息日も過ぎている。なのに、連絡の一つも届かない。


 こんな事は、これまでに一度も無かった。私の心は、不安で押し潰されそうになっていた。


 ――もし、お兄ちゃんまで居なくなったら。


 そう思うと、夜も眠る事が出来なかった。私はリビングのソファーに座り、ただお兄ちゃんの帰りを待ち続けている。


「アンナ様、スープを用意致しました。これなら、お口になれますよね?」


 気が付くと、ギルが目の前にいた。スープの皿を手に、私を心配そうに見つめている。


「いらない……」


 私はギルの用意したスープを断る。今の私は食欲が湧かない。何も口にする気になれなかった。


 そんな私に、ギルは膝をついて目線を合わせる。そして、優しい口調で声を掛ける。


「アンナ様の体力が持ちません。アンナ様が倒れては、私がアレク様に怒られてしまいます。……どうか、私の為に、スープを口にして頂けないでしょうか?」


 ギルはそっとスープを差し出して来る。私はそのスープをじっと見つめた。


 ……先程、ギルはお兄ちゃんに怒られるって言った。でも、それは嘘だと思う。お兄ちゃんは、私が倒れてもギルを責めない。それは、ギルだってわかってるはずだ。


「わかった……」


「ありがとう御座います」


 私はギルからスープを受けとる。ギルはホッとた様子で、私にスプーンを握らせた。


 ……ギルの優しい嘘を無視してはいけない。そんな事をすれば、きっと私の方が、お兄ちゃんに怒られてしまうから。


 そして、私がスープを口にすると、すぐ近くで息を吐く気配を感じる。そちらに目をやると、私のすぐ後ろにロレーヌが立っていた。


 ロレーヌは私の視線に気付き、笑顔を作ってくれた。そして、安心させる様に、優しい声で囁く。


「ボスなら大丈夫だよ。いつだって、何とかする人だもん。それに、サブリーダーも付いてるしね」


「うん、そうだね……」


 ロレーヌの言葉も嘘だとわかる。ロレーヌの目には、くっきりと隈が出来ていたからだ。


 ロレーヌも私と一緒で、眠れていないのだろう。内心では、お兄ちゃん達の事を心配しているのだ。


 だけど、その事を指摘するつもりは無い。泣き虫のロレーヌが我慢しているのだ。私ももう少し、しっかりしないと……。


 そんな風に、私が気持ちを持ち直していると、急に玄関が騒がしくなるのを感じる。


 お兄ちゃんが帰って来た……?


 そう思うと、私はじっとしてられず、玄関へと駆け出していた。しかし、玄関で目にしたのは、私の期待する相手では無かった。


「ハティか……」


 私に気付いたハティが、こちらに向かって来る。その少し先では、ルージュとメアリーが、何かを話し合っていた。


 私は内心でガッカリするが、ハティはそんな私に苦笑を浮かべる。そして、明るい声で話し掛けて来た。


「そんな残念そうにしなくて良いよ。リーダーなら、すぐそこまで来てるから」


「本当に……!?」


 ハティの言葉につい声を上げてしまう。お兄ちゃんが、もうすぐ帰って来る。そう思うと、重かった私の体が、嘘の様に軽く感じられた。


 しかし、何故かハティは表情を曇らせる。そして、言い難そうに口を開く。


「ただ、リーダーはちょっと、疲れてるみたいなんだ……。いつもと少し様子が違うけど、余り気にしないでね……」


 ハティが何を言いたいか、良くわからない。でも、お兄ちゃんが無事ならそれだけで良い。


 私はじっと、玄関を見つめる。お兄ちゃんが帰って来たら、一番に出迎えられる様に。


 少しすると、メアリーとルージュが、屋敷の奥へと移動する。恐らくは、出迎える準備をするのだろう。私はそれを無視して、ただ玄関を見つめ続けた。


 すると、しばらくして玄関の扉が開く。そこには、私の待ち望んだ、お兄ちゃん達の姿があった。


「……え?」


 ハティの言う通りだ。お兄ちゃんの様子が、いつもと違っていた。


 綺麗好きのお兄ちゃんが、泥だらけの格好となっていたのだ。それは、後から続くギリー達も同じみたいだ。


 そして、いつもは笑顔のお兄ちゃんが、見た事の無い無表情となっていた。優しかった瞳は、ギラギラとした怖い物になっていた。


「お、お帰りなさい……」


「ん、ああ……ただいま……」


 お兄ちゃんは、無表情のまま軽く返事をする。そして、私の隣を通り過ぎようとした。


 私は慌てて、お兄ちゃんの袖を掴む。いつもと違うお兄ちゃんに、私の中で不安が膨らむ。


「ど、どうしたの……? 怖い顔をしてるよ……?」


「何でもないよ……。食料の補給が終わったらすぐ出るから……。離してくれないかな……?」


 お兄ちゃんの瞳が私を見下ろす。そして、私はその瞳に恐怖を感じた。


 その目は、私の事を見ていなかった。まるで、私に対して興味を持っていない。私の事なんて、どうでも良いみたいに……。


「アンナ、汚れるよ……」


 私は無意識に、お兄ちゃんに抱き付いていた。お兄ちゃんに置いていかれるのが怖くて、強く抱き締めていた。


 そうしないと、お兄ちゃんが居なくなってしまいそうで……。


「お兄ちゃん……いつものお兄ちゃんに戻って……。いつもの優しいお兄ちゃんに……。それで、いつもみたいに笑ってよ……」


 私はお兄ちゃんにお願いする。恐怖で震える体で、必死にお兄ちゃんを抱きしめながら。


 そして、お兄ちゃんの手が、私の肩に優しく置かれる。私はハッとなり、お兄ちゃんへと顔を向けた。


 ……でも、お兄ちゃんの言葉は、私の望む物では無かった。


「我儘を言わないで……。今は余裕が無いんだ……。アンナならわかるよね……?」


 その口調は、とても優しい物だった。だけど、その目は笑っていない。イライラした感情が溢れていた。


「…………」


 私はお兄ちゃんから、そっと手を離す。すると、お兄ちゃんは、ホッとした表情を浮かべる。


「アンナは賢いね……。いつも、そうして……」


「うっ……う……あぁ……」


 私は悲しくなった。お兄ちゃんに拒絶された事が。そして、ケトル村を出てから、始めて受け入れられなかった事が。


「うわあぁぁぁ……」


 お兄ちゃんはいつだって、私の事を助けてくれた。私が失敗しても、いつだって笑って許してくれた。だから、私はいつだって、頑張る事が出来た。


「わぁぁぁん……」


 お兄ちゃんが認めてくれるから、私は間違って無いって思えた。どんな時でも、自信を持つ事が出来た。


「うぁぁぁん……」


 でも、そんなお兄ちゃんに、受け止めて貰えなかった。私の頭の中はぐちゃぐちゃになる。


 どうにも出来なくて、どうして良いかもわからなかった。私はただ俯いて、泣く事しか出来なかった。


 ――パァン!


 突然、乾いた音が鳴り響く。その音にビックリして、私は顔を上げた。私の前には、何故かロレーヌの背中があった。


「……何やってんの、ボス!!」


 ロレーヌが怒鳴り付ける。彼女の怒った姿は久しぶりだ。むしろ、始めて会った日以来かな……?


 お兄ちゃんは、驚きで目を丸くしていた。そして、赤く腫れた頬を押さえている。


 ……まさか、ロレーヌがお兄ちゃんを叩いたの?


「アンナちゃんは、ずっと待ってたんだよ! 殆ど寝ないで、ご飯も食べないで! ボスの事を心配して、ずっと待ってたんだよ!」


「え、えっと……?」


 ロレーヌの勢いに、お兄ちゃんがたじろぐ。しかし、ロレーヌは構わずに、お兄ちゃんに怒りをぶつける。


「これまでボスは、何の為に頑張って来たの!? 家族を、アンナちゃんを守る為じゃないの!?」


 ロレーヌは一歩詰め寄る。逆にお兄ちゃんは、一歩引いてしまう。


「なのに……なのに何で、アンナちゃんを泣かせてるのよ!?」


 その光景に、皆が驚いていた。ロレーヌにお兄ちゃんが追い詰められている。そんな状況を、誰も想像出来なかったはずだ。


 いつも落ち着いている、ギリーやギルですら、口をポカンと開いている。その有り得ない光景を見て、私の涙はいつの間にか止まっていた。


「家族を蔑ろにするなんて、そんなのボスらしく無いよ……」


 ポタポタと、ロレーヌの足元に滴が落ちる。背中しか見えないけど、きっと彼女は泣いているのだろう。だって、彼女はとても泣き虫なのだから……。


「そんなの……私の知ってる……ボスじゃないよ……」


 ロレーヌはその場に崩れ落ちる。そして、その場に座り込み、手で顔を覆う。静まり返った玄関には、彼女の啜り泣きだけが響いていた。


「アンナ……」


 お兄ちゃんに呼ばれ、私は顔を向ける。お兄ちゃんは私を見つめていた。そして、何故か苦しそうな表情をしていた。


「ごめん……心配掛けたんだね……」


「お兄ちゃん……?」


 お兄ちゃんは、私に向けて手を伸ばす。そして、一瞬躊躇った後に、私の事を抱きしめた。


「ごめん……。また、間違える所だった……。本当に、ごめん……」


 その声は、とても優しかった。いつものお兄ちゃんと、同じ優しさだ。


 私はお兄ちゃんを抱きしめ返す。久々のお兄ちゃんは、とても温かく感じた。


「いつものお兄ちゃんだ……。おかえり……おかえりなさい……!」


「ただいま、アンナ……。心配掛けて、ごめんね……」


 お兄ちゃんの腕に力が入る。少し痛いけど、それだけ私の事を、思ってくれていると伝わる。


 私の瞳からは、また涙が溢れ出した。ただ、これは悲しい涙じゃない。嬉しくて溢れる涙だ。


 私も気持ちを伝える為に、強くお兄ちゃんを抱きしめた。


「お兄ちゃん……。おかえりなさい、お兄ちゃん……!」


 そうして私とお兄ちゃんは、しばらく抱きしめ合った。一緒にいれる幸せを、しっかりと確かめる様に。

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