人間

人間――1話

 キビキは石畳に叩きつけられた。空は暗く、雷鳴轟く。ポツポツと雨が降り始めた。

「ずいぶん飛んだなぁ。急いで戻らねぇと」

 痛みに耐えながら体を起こす。


 ここはどうやらアズマ国のようで、辺りには荷物を抱えて逃げ惑う着物姿の者たち。とはいえ水壁はしっかりと防壁の役割を果たしており、それを越える青い炎は酔いどれ森の中の半分にも満たない。

 けれど魔物たちは水壁や青い炎を越えて暴れている。自分が聞いたような、人の心の無常を訴える声を聞き、負けてしまったのだろうかとキビキは俯く。


「キャー!」

 急に隣の路地から女の悲鳴が聞こえ、キビキは痛む体を引きずって駆け付ける。

 そこには青く燃え上がる、家ほど体の大きな狐の魔物がいた。その額にはしっかりと魔物石が見える。

 牙を剥いて威嚇し、攻撃を仕掛けてくる魔物。けれどキビキには、その吼え声が悲鳴に聞こえたのだ。赤く吊り上げた目からは今にも涙が零れそうな気がしてしまうのだ。


「落ち着け。石の声に負けるな」

 キビキは狐の魔物に言うが、声は届かず鋭利な爪が襲い掛かる。

 しかしまずいのは狐の纏う青い炎だ。狐が暴れる度にそこら中に飛び散り被害が拡大していく。降りしきる雷雨も青い炎を消す事はない。


「わりぃな。お前を助けてやれそうにない」

 キビキはそう呟き、覚悟を決めて狐の額に向けて飛び上がる。そして魔物石を砕く。すると狐は声もなく倒れ、あとには青い炎だけが残った。

「おい、大丈夫か?」

 キビキは振り返り、女に手を伸ばす。すると女は先ほどにも負けない大声で悲鳴をあげた。そこにやって来たアズマ国の兵たち。


「離れろ!」

 兵はそう叫びながらキビキに刀で斬りかかってくる。

 キビキは、そうだったな、と思う。

 自分は鬼なのだ。それどころか、今は魔物だ。敵が誰かも分からないのだろうなと、キビキは溜め息を吐く。


「俺は敵じゃない。この女が襲われていたから来ただけだ」

「黙れ! 暴動を起こした魔物どもの話など聞く気もないわ!」

「俺を疑ってる間にやられるぞ。いいからその女を連れて逃げてくれ」

「敵を目前にして逃げろというのか! 愚弄しやがって!」

「違うだろう! あぁ、その青い炎に触るな! 危ないぞ!」


 青炎龍、巫女が暴れている今はこの青い炎が何を引き起こすか分からないのだ。何らかの記憶を持って行くかもしれないし、あるいはキビキがそうだったように心の傷を抉ろうとするかもしれない。

 そんなキビキの言葉などまるで聞かず、刀を構える兵は襲い掛かってくる。

 仕方なく、そいつの握る刀を叩き落す。キビキの力と何の変哲もない人間では力が違うので、たったそれだけの事でもその兵は腕を押さえて蹲った。


「この鬼め……」

 兵は忌々しそうに声を漏らすと、懐から小さな笛を取り出して吹いた。その笛には何らかの魔法が刻まれているらしく、バタバタと人が集まってくる気配がした。

「敵じゃないって言ってるだろう!」

 訴えながらも、キビキは人と戦う訳にも行かず急いで逃げ出した。

 雷雨に濡れる石畳を走りながら、それでもキビキは人間の正しさを思っていた。「そうだ、正しいんだ」とキビキは呟く。


 酔いどれ森から得体の知れない炎や、凶暴な魔物が溢れて来た。そこへ落ちて来た鬼ならば怯えて当然だ。

 もしかすると自分は酷く凶悪な顔をしているのかもしれない。あるいは首や胸元で赤黒い魔物石が鈍く輝いているのかもしれない。

 だとしたら俺を敵だとも思うだろうな、とキビキは自分を納得させる。


 しかし不運は続くもので、キビキの目の前で青い炎に雷が落ちた。すると辺りで散り散りに燃えていた青い炎は一箇所に集まり、あの青炎龍によく似た姿になったのだ。

 体は向こう側が透けており、ビリビリと絶えず雷を放っている。


「触れない敵とどうやって戦えって言うんだよ……」

 キビキは溜め息を吐いて足を止める。

「うわぁ! な、なんだ、なんだ!」

 そこに集まってくる、キビキを追う兵たち。分からなくても戦うしかない。そう考えて龍に突っ込んでいくキビキ。


「絶対にあるはずだよな」

 キビキは願いを込めて呟く。

 きっとどこかに魔物石がある。モロコとアワタといた時に襲ってきたあの水龍だって魔物石で姿を保っていたんだ。

 それに、地下で蠢いていたあの大量の魔物石……。


 雷の龍に飛び込んだキビキは、重苦しいその体の中を泳いだ。

 頭がクラクラして何もかも投げ出してしまいたくなる。誰かを罵る声がやけに大きく響く。いつか育ててくれた体術師の顔が思い出せない。

 そこまで来て、ようやく手が硬く冷たい物に触れた。

 キビキはそれを握りつぶす。


『私が悪いの……?』


 必死に心の傷を抉っていた声が急に問いかける。

「そうだよな。お前が悪い訳じゃないのにな」

 そう答えると雷の龍は跡形もなく消え、キビキはまた雷雨の降りしきる石畳に落とされた。

 依然として魔物たちは怯えたように暴れ、青い炎はどんどんと人間の土地を燃やし進んでいく。

 けれど今、キビキの周りだけはシンと静まり返っていた。


「魔物を……倒してくれた、のか?」

 若い兵が呟いた。

 すると、隊長らしい風格の男がその若い兵を睨み付ける。


「お前は何を見ていたのだ? 雷の龍を倒したのは我々だ。あの鬼はその龍を操っていたじゃないか。そうだな? あの鬼は此度の首謀者だ」

「え? どうして……」

 若い兵が驚いた声を上げると、隊長は「もしや、お前は共犯者か?」と問う。

「いいえ! そのような事は断じてありません!」

「では、あの鬼を何と見る?」


 そう聞かれ、若い兵は拳を握って俯き、絞り出すような声で答える。

「龍を操りこの国を攻撃した、首謀者です……」

「あぁ。私もそう思うぞ」

 集まっている二十人近い兵たちが、一斉にキビキの方を向く。ある者は決意を込めて、ある者は申し訳なさそうに、ある者は怯えたように。


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