家に襲われる日――2話

 キビキは自分の足で走り出してしまった家にムギと名前を付け、取り返そうと試みているのだがムギは強く、しかも隠れるのが得意なのだ。

 というわけで逃げられてからの三十年、一度も勝った事がない。


 ムギの魔物石は三つ。二つまでなら壊した事はあるが、逃げられてしまうと数日もすればまた三つに戻っている。

 あんな目立つ木がどこに身を隠しているのか分からないが、根の先から葡萄酒の香りをさせている事が稀にある。それからよく囲い川を周回しているのを見かけるが、時々こうしてキビキと遊ぶように襲いかかってくるのだ。


 流れに乗って勢いよくやって来たムギは、じゃれる犬のようにキビキ目がけて飛びつく。しかし避けなければ根に雁字搦めにされると分かっているキビキは、ひらりと川岸に飛び退く。


 本来ならば家にしていた洞の部分が、戦う時には厄介だった。

 ゲンの亀の甲羅の家までとはいかないまでも、二メーターに少し足りないくらいの高さの洞は左右にも広い。

 キビキは当時、そこに布を被せたり簾をかけたりして住んでいた。そこには布団も敷けたし、机だって棚だって置けたのだ。

 その壁である根の部分が動くのだから、そこは牢にもなってしまう。閉じ込められればムギが飽きるまで解放してもらえないのだから、生き残れる自信はキビキには無かった。


 川岸のキビキを追い、ムギはドンと立ち上がる。

 枝の一本に魔物石を見つけて飛びかかるも、太い幹や伸びる枝にキビキは叩き返されてしまう。

 何とかして木のてっぺんに取り付いたキビキだったが、そこで見つけた魔物石の大きさに驚いているうちに振り落とされてしまった。

 それが三つの内で最も重要な石だったのか、ムギはミシミシと体をしならせながら川の流れに乗って逃げて行ってしまう。


 清酒川の水を浴びてびしょ濡れのキビキは、そんな事よりもムギの事を心配していた。その魔物石は自分の顔ほどもあったのだ。

「急がないとな……」


 暴れて誰かれ構わず襲うような魔物になってしまえば、人間たちが大勢で討伐にやって来てしまう。

「持て余してるだけなんだけどな」

 キビキはそう思う。

 魔物も自分も人間も、この酔いどれ森の奴らはみんな大きな体や身の丈に合わない力を持て余し、それに振り回されているだけなのだと。

 そんな理由は、人間たちの恐怖の前では聞いても貰えないけれど。

 それから息を整え、キビキは隠しておいた籠を担ぐとゲンの待つ家に歩き出した。


「また住処に逃げられたか」

 家に入るなりゲンは、びしょ濡れのキビキを見てそう笑った。

「あぁ。薬草酒はなかったぞ」

「まぁ、そうだろうな。あんなもんは運が良けりゃできるかもしれない程度のもんだ」

「へぇ」

 キビキは女剣士が未だに布団で眠っているのを見て、ほっと息を吐く。

「ちょっと水浴びてくる」

「おぅ。しばらく雨降ってねぇんだから、真水は大事に使えよ」

「分かってるよ」


 キビキは勝手口、つまり亀の尾のあった所から外に出てそこの水瓶から水を掬う。

 これは雨水。この森で得られる唯一の真水だ。これが無ければ風呂に入るのだって、沸騰させて酒の気を飛ばしてからじゃないといけなくなる。

 どのみち、ここで真水を必要とするのは酔いどれ森に住んでいる変わり者くらいだけれど、とキビキは思う。


 冷たい雨水で体を洗っていると、中から女の悲鳴が聞こえて聞きた。

 起きたな、とキビキは溜め息を吐く。

「ゲン爺、大丈夫か?」

 キビキが聞くと、中から「おぅ」と返事が返ってくる。仕方ないから訳あり女剣士の訳に付き合ってやるかと思った時、いつものアレが無い事に気が付いてキビキは青ざめる。

 フードがないのだ。あれは破れてしまって、今はゲンが修理中なのだ。女の悲鳴を聞くまで、キビキはそんな事すっかり忘れていた。

 途端にキビキは恐怖に襲われる。


 ムギの前に自分が討伐されるのではないか? 家の場所を知られた上に鬼がいると分かれば、もうここには住めないのではないか? 自分とゲンはどんな仕打ちを受けるのだろうか? 生きていただけなのに、だから死んでしまいたいんだ。


 キビキはそんな事をぐるぐると考える。

「なぁ、ゲン爺。ちょっと出かけるわ」

「あ? なんだよ急に。ん? あぁ、そうか。フードか」

 ゲンは少し考え込んでから、そのまま入ってこいと言った。

 部屋の中からは、不思議と物音一つしない。もう悲鳴も聞こえてこなかった。

 扉に手をかけると、心臓が冷たく脈打つ。

「信じるぞ?」

「おぅ」


 キビキが意を決して開けた扉の向こうで、女は胸を抱え込んで震えていた。けれどキビキの顔を見ると、どういう訳だかホッと息を吐いたのだ。

 その様子に首を傾げながら、キビキは勝手口のそばに立つ。人間には恐れられ武器を向けられるものと思っているので、それ以上は近づけなかった。


「あなた、人間? ではないのよね?」

 震えるままで女は聞いた。

「今は違う。人間たちには鬼って呼ばれてるよ」

「今は? ってどういう事?」

「昔は人間だった」

 女が自分と会話をしている事に驚きつつも、余計なことは言わないようにと気を付けてキビキは答える。

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