獣の還り水

獣の還り水――1話

 風のない暖かな日、今日はサツマの客人から薬を買う日だ。

 キビキは、定期的にサツマを連れ戻そうと酔いどれ森にやって来る若い魔剣士から傷薬を買っている。

 ゲンと朝食を済ませると、キビキはすぐに酔いどれ森を縦横無尽に流れる川沿いを走り芋焼酎の岩場へ向かう。


 途中で内山の中へ踏み入り、葉に溜まった朝露で顔を洗う。

 この森では酒ではない水は貴重だ。それは朝露や雨でのみ得られる。他は葡萄酒に清酒、芋焼酎に米焼酎、ウイスキー、にごり酒なのだから大変だ。

 囲い川の水は水割りのように薄くて他のよりは水に近いが、やはり酒は酒。

 人間たちにとってはどれも貴重な魔酒らしいが、キビキにとってはこの体を作り変えてしまった迷惑な水でしかない。


 その中でも特に地下の川の光酒を飲んだのが悪かったと、ゲンもコドラも口を揃えて言うのだった。あれには感情が溶け込んでいるから、と。

 けれど光酒は熟した果実に似た香りがするのに飲み口は辛く軽く、キビキは好きだった。

 酒臭くないのも光酒の好きなところだ。


 キビキは内山の端まで来ると、注意深く身なりを直した。角が生えていないか、体から宝石は出ていないか、爪は刃物のようでないか。

 そうしながら人間たちの話し声を聞く。


「サツマさん! お願いですから城に戻って来て下さいよぉ」

「嫌だよ。俺はここで暮らすんだ。酒が流れて来てツマミが歩いてくるんだぜ? こんな楽園、他にないだろうが」


「そんなこと言ってないでお願いしますよ。知ってるでしょ? この酔いどれ森に接する五国の内の二国が戦の準備を始めてるんですよ。あれ、絶対に五国戦を仕掛けるつもりですって」


 だらしなく胸元のよれた甚平姿のサツマとは対照的な、綺麗に折り目の付いた袴に刀を差す若い男が嘆くように言った。

 どうやらサツマの部下らしいと、キビキは気付く。


 この酔いどれ森は、森とは名ばかりで山も湿地帯も湖も有するほど広く丸い。その周囲は五つの国に接している。

 サツマのいた刀と職人の国、アズマ国。氷に閉ざされた秘境、ホーク国。様々な民族が集まって一つの国になった、ミバナ国。砂と遺跡の国、ニシン国。水と大地の国、サン国だ。

 キビキは、自分はどこの国から来たのだろうと考えながら木の陰に隠れ、二人の話に聞き耳を立てる。


「いいや。準備してんのは三国だ。ミバナ国とホーク国、それからうちのアズマ国」

 サツマは興味のない顔で、汲んだばかりの芋焼酎を飲みながら言った。

「え⁉ うちもですか⁉ 参ったなぁ、もう……」

「で? 今日は何を持って来たんだ?」

「壊れたって言っていたので新しい桶と砥石、それから手紙です」

「手紙はいらねぇよ」

「城主様からの大事な話ですから、絶対にその場で読ませるようにと言われています」

「はぁ……」


 サツマはわざとらしく溜め息を吐くと、仕方なさそうに手紙を広げる。

 少し距離があり文字までは読めなかったので、キビキは木々の間からポンと出て二人に話しかけた。

「なに読んでんだ?」

「クマゴロウか。今年か来年くらいが百年目の大災害の時期だから戻って来いとさ」

 隠す事もなく答えるサツマに、若い男の方が慌てる。


「なんで喋っちゃうんですか⁉」

「別に知られて困る事でもねぇだろ」

 サツマがそう言うと、若い男はキビキに向き直り一つ咳払いをする。

「まぁ、碌に記録も残ってないし、長命のエルフやドワーフですらはっきりと覚えがないと言うのだから眉唾ものだけどな」

 あるいは、とサツマが顎を撫でながら考え込む。

「なんだよ?」

 キビキが聞く。


「百年前じゃないかもしれねぇな。誰も覚えがねぇんだから。だいたい百年くらいってだけなら、百五十年前に長く続いた戦があったらしいが……」

 サツマがそこで言葉を止めると、若い男は身を乗り出して続きを待つ。

「大方、大災害のような五国戦とかじゃねぇか?」

 サツマはそう言ってニシシッと笑った。


「そう思うんだったら城に戻って来て下さいよ……」

 それは酔いどれ森から始まる、百年に一度の大災害。しかし人間たちに伝わっている話はそれだけで、ただの噂だろうと二人は言った。

 キビキも、その頃にそんな事があったなどと言う覚えはない。ゲンからも聞いた事がないし、ただの噂なのだろうとキビキは思う。


「大変なんだなぁ」

 キビキが他人事のように呟くと若い男は溜め息を吐き、サツマはそれを見て笑った。

「大災害がどういう物であれ、この森から始まるという事はお前も他人事じゃいられないんだぞ。サツマさんもですよ!」

「そんな事より傷薬くれよ! ほら、これで足りるか?」

 キビキは言いながら、持って来た大きな水晶を男に渡す。男はそれを満足そうに見てから頷いた。


「十分だ。これが報酬だ」

 男は得意気に、持っていた包みを開き中の壺をキビキに渡す。

「うわぁ! こんなにもらっていいのか⁉ いつもより多いだろう」

「いいんだ。本来ならこれでも足りないくらいなのだからな」

 男が言うと、サツマが「とんだ悪徳商売だぜ」と言って寝転がる。

「あ! 寝ないでくださいよ! 連れて帰らないと今日も僕が怒られちゃうんですよ!」

 二人のそんなやり取りを見ながら、キビキは薬壺を抱えて葡萄酒の湖に向かう。

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