獣の還り水――2話
湖は、岩場とは清酒の川で隔てられた隣にある。コドラの本体だって泳げそうな大きな湖は、生温い風の吹く深い林に囲まれている。
キビキは川を横切って越え、林に入った。
ここはいつ来ても不思議な気分になる場所だな、とキビキは思う。
他の場所とは違うこの生温い風のせいなのか、背の高い木々の大きな葉に遮られて暗い林だからなのかは分からないが、キビキはこの林に入るといつも昔を思ってしまう。
初めてこの森に入った時、キビキは六歳だった。今から百五十年も前だ。正確には分からないが、おそらくそのくらいだろうと思う。
手を引いてくれていた男たちが葡萄酒の湖のほとりまで来るとキビキをどこかに押し込め、そして森を出て行った。
キビキは、男たちは泣いていたような気がしている。あるいはそう思いたいだけなのかもしれないが。
それにしても、とキビキは思う。
こんな湖しかない場所で、自分はどこに押し込められたのだろうか? あれから何度も探しているが、それらしい場所は見つからない。
それからキビキは森にやって来る飲んだくれたちにご飯をもらい、飲める水をもらいながら迎えが来るのを待った。
一年ほど経った頃だったか、誰かが「迎えは来ない」と言った。
「そうだろうな」とキビキは返事をする。
薄々は分かっていたのだ。子供を一人で酔いどれ森に置いて行くなど、処刑と同じではないか。
ドワーフのゲンに会ったのは十年ほど経ってからだった。
酔いどれ森には腕のいい飲んだくれたちが住み着くので、初めの十年は川辺に簡素な小屋を作って住み付いた体術師と暮らしていた。
体術師は随分と年配の男で、キビキを最後の弟子だと言って体術を教えてくれた。
男の使う体術は魔法を組み込むもので、そのために水晶の腕輪もくれた。人間は水晶を介してしか魔法を使えないから。
魔法や体術を習いながら徐々に行動範囲を広げていき、十年目にゲンに会った。
「子供がうろついていい場所じゃない。帰れ」
ゲンはそう言ったが、キビキがこの森に住んでいると言うと驚いて黙る。
その次の日、ゲンが体術師と住んでいる簡素な小屋にキビキの真新しい服と食べ物を持って来た。
ゲンが囲い川の近くまで来たのは、その日の他には数えるほどしかない。
それから十数年後に体術師は息を引き取り、キビキはゲンの家の近くで一人暮らしを始めたのだ。
一人暮らしと言ってもほとんどの時間をゲンと過ごすのだから怪しいものだが。
それでもキビキは、もう葉の一枚さえ生えなくなった大きな古木の洞を家にして一人で眠った。
その古木が魔物となり動き出す三十年前まで、その暮らしは続いた。
キビキはそんな事を思い出しながら林を歩く。
「キビキさん。ちょっと、キビキさん」
そんな風に呼ばれ、キビキは慌てて顔を上げる。
考え事をしているうちに立ち止まってしまっていたようで、湖のほとりでキビキを待っていた天馬は不思議そうに首を傾げている。
「わりぃ。ちょっと考え事してて」
「いいんですよ。この林はどうしてか物悲しい気分になりますからね」
「あぁ。そういえば、シラハナは何か知ってるか? 大災害のこと」
「それ、百年前の事ですか? さぁ、僕はまだ生まれていませんでしたし、特に伝え聞いているという事はありませんよ。何かあったんですか?」
「ただの人間たちの噂だよ」
そうですか、と答えるその天馬は赤く芳醇な葡萄酒の湖のほとりに佇んでいる。
天馬とは天翔ける馬。魔物石なんか埋まっていない、そういう種族だ。渡りをして世界中を飛び暮らす彼らは、毎年三ヶ月ほどこの酔いどれ森に立ち寄る。
そして一般的な天馬より少し体の小さなこのシラハナの左翼は、歪に歪んでいる。
「あぁ。それより、薬もらってきたぞ。塗ってやるから左の羽を広げてくれ」
「いつもありがとうございます」
「気にすんな。ほとんど治ってきてるな」
「おかげさまで」
一年前、火を纏った熊の魔物が現れた。火熊は魔物石に取りつかれるやメキメキと体が大きくなり、苦し気に呻いては溶岩を吐いた。
丁度、天馬の群れが渡りで森に来ていた。空へ逃げる天馬たちだったが、火を纏った熊の拳を受けて翼に怪我を負った天馬が一頭。
その怪我が原因で群れと一緒に渡りをする事ができなくなった。
それがこのシラハナだ。
「じきに群れが着きます」
「一緒に行くのか?」
キビキは火傷に薬を塗りながら聞いた。
「はい」
シラハナは俯きながら答える。
何となくしんみりしてしまった空気をキビキは笑い飛ばし、それから「飛んでみろよ」と言った。
シラハナは怖々と、でも期待を込めた表情でバッと翼を広げる。
それから助走をして空へ。巻き起こる強い風にフードが飛ばされてしまったが、キビキは空を見上げる。
左翼は歪ながらもしっかりと風を捉え、清廉な天馬らしく彼はツンと上を向いて空を翔けている。
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