ラッカ――5話

 キビキは慌ててフードをきゅっと握る。万が一にも、脱げてしまって鋭い爪や角が卵を傷付ける事のないように。

 しかしヌルヌルとした卵に手足が取られ、上手く上がれない。

 ようやく片手を水の外に出したけれど、それ以上どうする事もできなくてキビキは焦り始める。


 こういう時、強さは何の役にも立たないとキビキは知っているのだ。もう卵を切り裂いて上がるしかないのかと考え始めた時、不意に手を掴まれた。

 そのままグイっと助け上げられる。

 上がってから見ると、キビキを助けたのはサツマだった。この酔いどれ森に住み付いて一年になる、大剣を担いだ中年の魔剣士だ。


「おう。クマゴロウじゃねぇか。大丈夫か?」

「ありがとうな。てかクマゴロウじゃないって言っただろう。フードは……ちょっと事情があって脱げないんだよ」

「そんな事より、お前なんでここにいるんだ? 岩山に登ったはずだろう?」


 しまった、とキビキは思う。

 あの岩山は普通の人間なら昼ぐらいにようやく戻って来れるくらいで、あの岩石地帯を通る以外に登り降りできる場所はない。


「ん? ……あぁ、そうだな」

「まぁ、俺なんて年中酔っぱらってんだからな。記憶力なんて当てになるわけねぇわな」

 サツマはそう言って頭を掻く。

 ほっと一安心したところで、キビキはサツマの腰に魚籠を見つけた。

「魚でも釣ってたのか?」

 キビキは聞く。


「あぁ。俺に会いに来た若いのがな、囲い川で泳いでたって黒い魚を獲って来たんだが、アワタの奴が、それは昨日あたりから急に森全体に増えた魚だって言うからよ」


 酒の肴に釣りに来たのだと、サツマは言った。

 それはラッカの子だろうと分かった。けれどあまりに大きくて、オタマジャクシだと気付いていないのだろうとキビキは思う。


「あぁ……そうか」

 その話を聞いて、キビキはラッカの暴れた理由に思い至る。

 産卵と子育て、それから子供を食べられた怒り。それが重なって我慢が利かなくなったのだろう。


 今ならまだ間に合うかもしれない。まだ完全に魔物石に負けてしまった訳ではないかもしれない。キビキは少しの希望を抱いた。

「巨大なカエルを見なかったか?」

 キビキが聞くと、サツマが頷く。

「それなら、清酒川を水魔法を纏いながら泳いでるのを見たぞ。まぁ、いちいち応戦なんかしてたら切りがねぇからな。この森は」

「どっちに向かった⁉」

「は? あぁ……いつもの、芋焼酎の岩場の方だ」


 キビキは足がチグハグになるほど急いだ。途中でサツマを巻き、フードを脱ぎ捨て鬼の姿で走る。

 もし人間たちに牙を剥いてしまったら、人間たちも牙を剥く。それが自分の子供を食われた事が理由だったとしてもだ。

 それが分かっているからキビキはラッカの元に急ぐ。


 こんな時、キビキはいつも世界の特別でありたいと願う。

 世界にとって特別な奴は物語の中でいつも全ての命を愛し、全ての命に愛されている。何もかもを守れる強さを与えられ、いつだってギリギリで間に合う。

 そんな者になりたいと願いながらも、そんな事はあり得ないとキビキは知っている。

 だから、人間たちだって間違ってはいないのだと分かっていながらも怒りを抱き、ただ友を守るために走る。殺す覚悟なんかできていない。


 しかし芋焼酎の香りの立ち込める岩場にキビキが着いた時、ラッカは吠えた。初めての咆哮。もう間に合わないという印だ。


 座り込んでいたヨネジがふらりと立ち上がり、杖を構える。杖術という戦法だと聞いた事がある。ヨネジはそこに魔法を乗せ、確実に相手を仕留めるのだ。

「やめろ!」

 キビキが叫ぶと、ヨネジとアワタがそれを見た。


「酔いどれ森の、鬼……」

 アワタが青い顔で呟く。


「ゲゴオォォ! グオゥォォ!」

 お構いなしにラッカが叫ぶのを聞いてもう本当にダメなのだと知り、キビキの頬を涙が伝う。

 空気にチリチリとした熱が混じり、魔術が練られているのを感じる。

「手を出すな!」

 キビキはヨネジにそう怒鳴ると、ラッカに殴りかかる。

 腹に一つ。右足に一つ。喉元に一つ。三つの魔物石があった。

「ごめんな、ラッカ」


 こんな時に、子供たちだけは守るとさえ約束できない事にキビキは喉元が締め付けられる想いがした。

 あの数の子供たちを守る事はできないし、腹を空かした魔物たちもいる。

「そうだな……一匹は必ず守るよ。それで許してくれ」

 キビキはそう言ってラッカの魔物石を壊した。


 三つ目を壊しラッカが倒れると、地面からゆらりと青い炎が立ち上る。それはラッカの体を優しく包み込んだ。


 酔いどれ森では命が終わる時、あるいは酒に想いを流し去ろうとする時、ふらりと立ち上る青い炎がある。

 全ての命の最期に炎が上がるわけではないし、あれが何なのかはよく分からない。けれどコドラは、残ってしまいそうな想いを焼いてくれているのだと言っていた。

 キビキが炎に触れると『ありがとう。元気で』と声が聞こえた。それがラッカの想いなのだとキビキは思う。いや、そう思いたいのだ。


 しばらく立ち尽くしていると、青い炎は目の前のラッカを残して消え去った。


 いつの間にかサツマもそこにいた。

 キビキはバッと振り返り「お前たちが……!」と怒りのままに掴みかかろうとするが、そこに空から落ちて来る者がいた。

 大きな荷物を背負ってドン! と落ちてきたのはゲンだ。

 ゲンはキビキに目配せをして、フードを着て来いと暗に言う。それから人間たちに向き直り言った。


「このカエルはお前らに子供を食われて腹を立てていただけだ。子を食らったお前らが魔物に変えた」


 それを聞きながら、キビキはそっとその場を離れる。人間たちがラッカに手を合わせるのを見た。その姿に除けに腹が立った。

 向かう時は夢中で走っていたのでフードをどこに脱ぎ捨てたか分からず歩き回っていると、二メーターくらいのコドラがフードを咥えて飛んで来た。


「ゲン爺を乗せて来たの、コドラだったのか。ありがとうな」

「様子が見えたのでな。それから、ゲンがあそこで昼飯にするから戻ってこいと言っていたぞ。食ってやることが礼儀だと」

「分かったよ……」

 コドラは慰めるように、キビキの頭に手を置いた。そして言う。

「長く生きていれば別れも多くあるさ。それでも私たちは生きるより仕方がないのだ」


 お互いにただ生きていたいだけだと知っている。相手を思いやる事や、親切が大切な事も知っている。八つ当たりをしてはいけない事も知っている。

 知っているのに、そうあれない。

 だから自分もこの森にいるのだと、キビキは思い出していた。


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