7話

「今日は、歌配信か」


 芹沢なずなのSNSのアカウントでは、今日の配信内容が今となっても見慣れないぐらいの元気の良さで通知されていた。

 ある程度のリクエストは募るけど、音源や権利の問題で流せない音楽もあるため、多少はこっちで選曲はさせてもらっている。これといって、一般的なVtuberの配信として特に問題はない。

 僕個人として、咲沢の歌、というものに若干思うところはあるけれど。そんなもの、僕だけの問題なのだから今は関係ない。

 まぁ、本当に関係のある問題があるとしたら。


「……というか、今までは平気に歌ってたんじゃないの?」

「へ、平気じゃなかったよ……」


 配信開始十分前となり、僕が今回の配信で歌う予定となっている曲の音源データを整理している横で、咲沢は目に見えて慌てていた。


「あわ、あわわ……」


 というか、口に出しても慌てていた。配信前だから眼鏡を外してコンタクトをつけ、普段は下ろしている長い前髪を白いシンプルなカチューシャで上げている。だから普段よりも一層、慌てている表情が目に見えてわかりやすい。


「いや、あの、冷静になって考えたら、ゆうくんが隣にいる状況で歌うのって恥ずかしいな、って」

「普段からどれだけ冷静になれてないのさ」


 いざ配信するって段階で思い至る不安要素が多過ぎる。僕というイレギュラーな存在がいるこその問題とはいえ、本当によくこれまで無事に単身でVtuberとして活動してこれたものだ。

 呆れ半分、感嘆半分のため息を吐いて、僕は配信の準備を続けるためにパソコンへと向き直る。


「どうするのさ。今ならまだ配信内容を変更しても大丈夫だと思うよ」


 多少の不満はでるかもしれないが、「芹沢なずなの歌が聞けないならもう二度と配信は見ません!」とまで強く憤る人はいないだろう。たぶん。この界隈の視聴者は何を起点に盛り上がるかわからないところがあるから、慎重になるに越したことはないだろうけど。

 芹沢なずなは企業に属していない個人配信者だからこそ、何か問題が起こったときの対処はどうしたって不安が募る。僕は素人もいいところだし、咲沢も言わずもがなだ。唯一の大人である菜美さんは今日も絶賛修羅場真っ最中だし、「本気でヤバくて集中してるから、少しでも歌声が聞こえてきたらキレて部屋に殴り込むから」と告知されているから助けも期待できない。というか、その宣言は心の底からどうかと思う。

 頭を抱えたままどうしようと慌てている咲沢をとりあえず放置して、僕は僕で準備を終わらせる。


「……そもそも。僕に聞かれるのが嫌なら配信中は部屋から出てるよ。曲の順番は並べてあるとおりに再生すればいいし、配信が始まってから音量のバランスの調整は……まぁ、ご愛敬ってことで許してもらえば大丈夫でしょ」


 イヤホンジャックをぶち抜くなり飲み物が入ったコップを倒すなり、だいたい何かしらのハプニングが起こるのが芹沢なずなの持ち味のようなものだ。そんなものを持ち味にするなよ、とは思うが、そういうキャラクターを受け入れてもらってこれまで活動してこれているのだから、今更僕のような新参者がどうこう言うことでもない。

 小さな唸り声が止み、いつもよりよく見え、よく開かれた咲沢の瞳が僕を不安げに見つめる。


「そ、そんなの悪いよ。せっかく手伝ってもらってるのに、そんな追い出すような真似」


 そう言って咲沢は自分の両頬軽く手でたたき、指先で引っ張る。それが彼女なりの気合の入れ方なのか、小さく呟いた「よし」という声には、一切の震えも滲んでいなかった。


「耳栓しててもらえる?」

「気合入れて言うことがそれ?」


 さほど意味のある案にも思えないし、それなら素直に部屋を出ていた方がずっとこっちだって気が楽だ。


「……別に。今更恥ずかしがることのようなことじゃないだろ。実際、おまえは歌がうまい方なんだし」


 当然、芹沢なずなの歌配信は今日が初めてじゃない。これまでは何度か行われているはずの配信では特にこれといって……まぁ普段以上のトラブルに見舞われることなく無事に終えている。今思えば、あの配信でも横で手伝っていたであろう菜美さんの相応の苦労があったのだろうか。


「配信、見たことあるの?」

「そりゃ……まぁ、うん」


 歌配信のことだよな。そう思って、僕は頬を指で掻きながら頷く。


「普段はおまえの歌を聴く機会が全然なかったけど、その、なんだ。上手だったよ。なんていうか……綺麗だった」


 歌の感想としては我ながらずれているようにも思えたけど、聴いた瞬間には思った、素直な感想だ。

 幼稚園の頃のお遊戯会での歌とはまるで違う。ただ声を張り上げていれば上手だと褒められていたあの頃とは比べ物にならないぐらい、普段の咲沢からは想像もできないほど澄んだ声で歌っていた。

 一時間ほどの動画の最初の一曲目で、もう聞いていられなくなるほどに。その歌は、上手だった。


「こう言うとなんか変な感じに聞こえるかもしれないけど……その、違う人の歌を聴いているような気分になった」

「えっ、と……そんなに褒められると恥ずかしいっていうか……って、あ、時間!」


 慌ててヘッドセットを付ける咲沢につられて時計を見ると、すでに配信開始の時間へと差し掛かっていた。


「ゆうくんはそこにいて。退屈かもしれないけど、出て行ってくれなくたっていいから」


淀みも迷いもなくスラリと放たれる、咲沢の言葉。配信が始まる前から、その声は芹沢なずなそのものの言葉となっている。


「行くね」


 その変わり様に未だに慣れない僕は、咲沢の確認の言葉に連れて頷き、パソコンを操作して配信を開始するための作業を進める。

 あとクリックーつすれば配信を始められる段階まで進め、咲沢を見る。普段はほぼ合うことのない彼女の茶色い瞳が、向ける前から向けられている。

 懐かしいような、初めて見るものへの不信感のような、そんな相反する感情が胸の内から湧き出てくるのを、意地でも表情に出さずに。僕は人差し指で軽くマウスを叩く。


「――聞こえてる? 音量のバランスとか大丈夫かな。ちゃんとエコーかかってる? 歌配信も久しぶりだから、何かおかしなところがあったらコメントよろしくね」


 まだ配信を始めたばかりだというのに、予定していた時間に合わせて待機していた視聴者のコメントが流れていく。


「……うんうん、大丈夫みたいだね。ありがとう!」


 挨拶や配信上の不具合の情報が流れていくのを一頻り眺めて、咲沢は明るい声でお礼の言葉を口にする。

 こうして傍に控え、配信を手伝うようになってから気づいたことだけど。当たり前と言えば当たり前だが、配信開始の段階でコメントを残していく視聴者たちばわざわざ自分の都合を合わせて、芹沢なずなの配信を見に来ているのだろう。

 どのコメントも芹沢なずなに対して好意的で、明るく賑やかなコメントが多い。コメントにはユーザーアカウントの名前も表示されていて、僕にも見覚えのある名前も段々と増えてきた。

 ……この中で、確実に久志のアカウントもあるんだろうな。いや、考えないでおこう。「HISASHI@コメント用」なんてあからさま過ぎる名前が見えた気がするけど、見なかったことにしておこう。


「それじゃ、早速だけど歌っていくね。今日歌う曲は全部決まってるけど、もし私なんかに歌って欲しいって曲があったらコメントしてくれると嬉しいな。また次の機会に歌うかもしれないし」


 私なんか、と。自分を卑下するような物言い。芹沢なずなとして明るい声で紡がれる言葉の中に、僕は普段通りの咲沢の姿を連想しても、コメントとして流れていく言葉の中には、それを肯定するような反応は見当たらない。

 上手だよ。もっと歌って。そういう、期待の言葉がちらほらと見える。その流れていく言葉は僕にとっても紛れもなく事実のはずなのに。どうしてか、少しだけ、心がざわつく。


「えへへ、ありがとね。それじゃあ早速一曲目、聞いてください――」


 少しだけ厳かに、咲沢の口が曲のタイトルを言い放つ。その昔が耳に届くのと同時に、僕は用意していた音源を再生し、配信へと載せる。ここ数か月の間、ランキング上位に上がる人気曲のイントロが流れ、そのドラムの音に合わせて咲沢の方が揺れ、


「――――」


 僕が知らなかった歌声で、芹沢なずなが歌いだす。

 誰もが称賛するほどではないだろう。歌を歌う。その技法に少しでも覚えがある人が聞けば、まだまだ粗削りで聞くに堪えないとばかりに耳を塞ぐ人もいるかもしれない。でも、そんな高尚な人間は、この場にも、この歌が電波に乗って届けられているであろう場所にも、いない。

 誰もが、彼女の歌を聞こうと意識して、自身の持つ端末を操作してアクセスしてきているのだから。

 楽しそうに、嬉しそうに。芹沢なずなは歌い続ける。表示していた歌詞を読み違え、失敗に驚いて目を見開いた彼女と視線がぶつかる。それでも咲沢は委縮することなく、少しだけ照れたようにはにかんで、またパソコンのディスプレイを見据え声を張り上げる。

 咄嵯に目を逸らしたのはむしろ、僕の方だった。

 知らない、咲沢那奈の姿だ。幼稚園の頃のお遊戯会とは違う。音程を気にして抑揚をつけ、適度な声量で歌っている。配信上の画面に映る芹沢なずなに反映されずとも、彼女は右手をそっと胸に当て、指先でリズムを取っている。

 よく笑う女の子だとは知っていた。よく喋る、明るい女の子だと知っていた。だから、芹沢なずなの存在を知って、その正体を知ったときでも、僕の中に驚きという感情は少なかった。

 でも、僕が目を逸らしたその先で、楽しそうに歌い続ける彼女の姿を、僕は初めて知った。咲沢那奈にそんな一面があるだなんてことを、少しも考えたことがなかった。

 昔。中学生の頃。文化祭の打ち上げでクラスの人間が総出でカラオケに行った時のことを思い出す。その時は咲沢も、場の空気に飲まれて断ることもできず、そのお店で二番目に広い部屋の隅で隠れるように背を丸めて座っていた。すでにあの頃から幼い頃の活発な姿は見られなくなっていた。

 マイクを向けられ、一曲でいいから歌ってみようと誘われ、数人の女子に囲まれながらおどおどとマイクを握っても。別のマイクで歌い上げる女子の声量に掻き消され、咲沢の歌声は全然僕の耳に届いてもいなかった。あまりにもか細くて、マイクを通しているはずなのに、どんなに耳を澄ませても。

 たぶん、あの場の誰にも届いていなかった。

 でも、今は。あの時、あの大部屋にいた人数よりもずっと多くの人に、咲沢那奈の歌声は届いている。

 芹沢なずなの歌として、こんなにも楽しそうに、こんなにもたくさんの人に。

 漏れそうになる大きめのため息をぐっと堪える。少しでも声を出せば、それは耳障りなノイズとなって彼女の歌を邪魔するだろう。そんなことは、意地でもしたくなかった。

 もし。あの時のカラオケで、マイクを手にした彼女が今のように楽しく歌い上げていたら、どうなっていただろう。

 こんな風に、Vtuberとしてデビューすることもなく、教室の中で楽しそうに笑っていたのだろうか。

 そんなもしもを想像しようとして……どうしても想像できなくて、僕は思わず笑ってしまう。

 一曲目を歌い終え、息を整えていた咲沢が突然笑い出した僕を見て不安げな表情を浮かべている。自分の歌を笑われた、とでも勘違いさせてしまったのなら、本当に申し訳ない。

 僕はすぐに自分の携帯で短く、「上手だった」とだけ文面を打ち込んで咲沢に見せる。


「っ、はーっ! 緊張した! 久々に歌ったからすごい緊張しちゃったよ。大丈夫だったかな?」


 いくつも流れていく拍手の意味である「8」という数字。あの時のカラオケボックスにいた人数よりも遥かに多くの人たちが、咲沢の歌に向けて賛辞の気持ちを文字として投げつける。


「ありがと-! 私、ずっと歌には自信がなかったんだけど、こうしてみんながうまいよって言ってくれるから、これまで歌配信をやってこられたみたいなところがあるからね。何度も言っちゃってるけど、いつも応援ありがとうね!」


 喜色ばんだ声を放ち、笑顔のままの咲沢と目が合う。次の曲お願いと、逸らされることないまっすぐな瞳が僕に語り掛ける。

 ……自分でも、相当に気持ち悪いなって自覚があるけれど。


「それじゃ次の曲いくね! もしかしたらみんな知らない曲かもしれないけど、この曲は本当に私の好きな曲で、特に歌詞が良いんだよ~。原曲には遠く及ばないだろうけど、少しでもみんなに知ってもらえたら嬉しいな」


 僕が知る前からずっと、咲沢のこの歌声を聞いていた人たちに向けて抱いてしまう、誰にも謂れのない嫉妬心を抑え込む。


「それじゃあ、聞いてください――」


 次の曲もなんとか咲沢のタイトルコールに合わせて、完璧なタイミングで再生できた。その安堵感と、心のある嫉妬心を全部吐き出すように、僕はマイクに乗らないようか細くため息を吐く。

 羨ましいなんて思う資格は、僕にないことはわかっている。咲沢が持っていたはずの明るさが、すでに失われたものだと勝手に諦めていたのだから。

 しっとりとしたバラードを歌い上げる咲沢に視線を向けず、僕は流れていくコメントに眺める。

 たとえ虚構で、作られた存在であろうとも。それでも、彼女の本気の笑顔で、本気の嬉しさをぶつけられている彼らを。

 初めて、素直に羨ましいなと思った。

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