8話
普通の一学生が、貴重な休日に朝から幼馴染の家の大掃除やら部屋の模様替えに精を出すのは、我ながらどうかと思ってはいる。
「日に日に上手になっていくな……」
芹沢なずなの活動をサポートしていく日々の中、培われていく技術の向上を実感するのも、それはそれで悪くはない。
自分でも才能があったのではないか、と思うぐらい。挑戦する料理がおいしく作れている。しかも今日挑戦した親子丼は、匙や計量カップといった具体的な数値を示す道具は使わず、完全な目分量で味を調えてしまった。偶然だろうしもう一度同じようにやって成功する気は全然ないけど、今だけは妙な全能感を覚えている。
普段から料理をやってる人からしたら、僕がこうして調子に乗ってる様は相当滑稽に見えるだろう。だとしても、楽しいという感覚を知れるぐらいには、僕は料理に対して前向きなイメージを抱けるようになっていた。
その全能感を携えたまま、溶いた卵をフライパンの中に垂らしていく。具の谷に流れ込んできた卵を熱された出汁が形を変えていく。
「ほぉ~、うまいもんだね」
「……菜美さん。急に背後から声を出さないでくださいよ」
集中していたから気づけなかったのか、そもそも菜美さんのステルス能力の高さ故か。調子に乗って料理をしていた僕の背後に、いつのまにか菜美さんが立っていた。内心では動揺しつつ、卵を流し続ける手つきにブレが見られなかった辺り、本当に才能があるのかもしれない。
「良い匂いに釣られて無言で来てしまっただけだよ。あー、腹減った」
僕に咲沢の手伝いを押し付けてから、菜美さんは抱えていた仕事を片づけるべくほとんど引きこもりのような状態で自室で作業をしていたらしい。日によっては一度も顔を合わさず、食事を部屋の前に置いておくようなこともあった。
「仕事、終わったんですか?」
「一応目処は立ったっていう感じかな。いやぁ、助かったよ。おかげででかい仕事をいくつか片づけられた。見ないうちにそっちもそっちでうまいことやってるみたいじゃないか、Uちゃん」
ニヤニヤと笑っている姿が見なくてもわかる。せめて情報源が久志の投稿した動画じゃないことを祈ろう。
「思っていたよりも色々なことでお世話になっちゃってるね。ほんと、助かるよ」
その言葉にはからかいが混じっていないようだ。丼にご飯を盛り、その上にできたばかりの親子丼の餡をかけ、三つ葉を添える。我ながら見た目も完璧な親子丼を菜美さんの前に置くと、すぐさま両手を叩いていただきますと返された。見た目の割に礼儀正しいな、などと偏見に満ちた感想を抱いてしまって、勝手に申し訳ない気持ちになる。
「お酒はいいんですか? せっかく仕事が終わったのに」
「あー……いい。一応、まだ返答待ちなんだ。酒飲んでからリテイクでも食らったらキレて台無しにしかねない」
前に玄関蹴り開けた時はお酒飲んでなかったんですか? と聞きたくなったけど、どっちの答えでも乾いた笑いが出そうになったのでやめておいた。
「あれ? そういや那奈は?」
半分ほど無言で食べた後、思い出したように菜美さんが言う。
「寝てるんじゃないですかね。今日の配信が長くなりそうだからって、先に寝貯めしておくっていってましたし」
配信を開始する時間まで、時計を見るとまだだいぶ余裕があった。明日が休日であることを踏まえ、今日はこれまで長々と時間をかけてプレイしてきた難易度の高いアクションゲームをクリアするまで続けるそうだ。
リアクションが大きくて何をしでかすかわからないホラーゲームの配信でもないし、そもそも不慮の事態は中々起こらないことはわかっている。だから、今日は夕飯を用意するだけで終わるかなと思っていたんだけど。
「自分で起きるって言ってた? それとも起こしてあげるの?」
「……そりゃ、自分でアラームセットしてるんじゃないですかね。さすがに寝ている部屋に入ろうとは僕も思わないですし、向こうも入って欲しくはないかと」
「どうだろうね。そもそも、そこまで深く考えてないようにも思うけど」
余程空腹だったのか、菜美さんはすぐに丼を空にしていた。
「色々してもらって悪いね。給料は足りてる? なんなら、もうちょい増やしてあげるけど」
「まぁ……十分もらってるから大丈夫です。意外と料理も楽しいですし」
家業の手伝いよりは拘束時間は長いけど、その分もらえるものはもらっているし、配達作業よりはずっと身になることをやらせてもらっている。
「配信も……見てる分には楽しいですよ。僕のしていることに反応されると気恥ずかしいですけど、それも、現状落ち着いてきてますし」
そう、素直に思っている。昔みたいな咲沢の姿を見るのは郷愁にも似た感覚を覚えていたし、僕も元々暇な時にはVtuberの配信を流し見していたような生活だった。料理の練習をしながらお金ももらえる、と簡単に考えれば破格の好待遇だ。
「……まぁ、お互いが楽しんでいるようなら何よりだね」
僕も食べてしまおうと、自分の分の丼を食器棚から取り出し、ご飯をよそう。
当たり前……と言っていいのかわからないけれど。この家の食器は、基本的に四人分ずつあった。けれど、僕が食事を用意し始めた時は、おそらく頻繁に使われていたであろうその内の二人分だけ、取り出しやすいように別のところに分けて置かれていた。
咲沢と菜美さんの分。残り二つは、きっとご両親の物だろう。
「咲沢の……えっと、お父さんは、帰ってこないんですか?」
幼馴染の父親がどんな仕事をしているのか、そういえばあまり気にしたことがないことに気づく。仕事であらゆる地方をうろちょろしてる、という雑な情報だけが頭にあって、具体的な仕事については何も知らなかった。
「基本的にはね。あたしよりもずっと忙しい仕事してるから全然帰って来られないらしいよ。とはいえ、毎日うざいぐらいメールは来るし、音信不通ってわけでもない。あたしの仕事も、那奈の配信のことも知ってるし応援してくれてるよ」
「それは……よかったですね」
咲沢の父親について、印象をパっと思い浮かべる程の情報もない。顔を合わしたことはあるんだろうけど、記憶にも残っていないということはかなり昔のことなんだろう。
「そんなわけで、うちには働いてる親だっているし、あたしだってまだまだだけどそれなりに稼げてるんだ。あんたも、遠慮なんてしないでいいから。那奈が稼げてるのだってどうせ今のうちなんだから、搾れるうちに搾っちゃえば?」
「ひどい言い様だな……」
まぁ配信者なんて水商売極まりないものではあるから、この先もうまくやっていける保証もない。本当に仕事にするかどうか。できるのかどうか。今の段階で判断できるものでもないだろう。
菜美さんなりに気遣って、僕が何か要求しやすいように言葉を選んでくれているのかもしれない。でも、今の僕にとって、今の環境は本当に十分過ぎるほどだ。家業の手伝いで重い荷物を運んでいくよりも、ずっとやりがいを感じてすらいる。
「お、おはよう」
自分の家だというのに、恐る恐るといった様子で咲沢が顔を出す。
「おはよう……って時間でもないけど、おはよう」
丼に残ったご飯を口に運び、自分の分の器を片づけがてら咲沢の分の夕食を用意する。自分がテーブルに着く前に食事を用意されるのがむず痒かったのか、咲沢は僕とテーブルの間に視線を何度もやっては、またしても自分の家だというのに恐る恐るテーブルに着いた。
「……給料出てるんだから、そんな気にしなくてもいいって」
「う……うん。あ、ありがと」
顔を合わせる機会が圧倒的に増えた二週間が経っても、僕たちは円満とは程遠い、手探りのような会話しかできていない。視線が合うこともほとんどないし、仮にあってもすぐさま逸らされる。こうして僕が作ったご飯を食べてくれているし、配信中は普段の調子はどこ行ったんだよってぐらい平然としてるし、嫌われているわけではないと思うけど。やっぱり、その分虚しさはあった。
配信中の明るさをそのまま向けてくれたら……なんて、どうしても思ってしまう。数年分の断絶は、そう簡単にはなかったことにはできないだろう。僕自身も、どうしたって咲沢に向ける言葉は他の友達に向ける内容よりもずっと気を使ったものになっていた。
「……え、仲悪くなってるのあんたら」
だからまぁ、そんな風にあからさまにぶっこまれると、慌てるよりも先に深々とため息が出た。
「別に、仲が悪いわけじゃないですって……というか、おかわりならおかわりって言ってくださいよ」
差し出される丼を受け取りながら、ため息交じりにそう言う。僕の言葉に同意するように咲沢は頷いてはいた。
「昔は何をするにしても二人で手を繋いでへらへらしてたのにね~。ああ母さん。あなたの下の娘は、今じゃすっかり思春期です」
「仏壇に親子丼供えるのやめてくださいよ……」
母親の写真が置かれた仏壇に供えるものとして、悪趣味極まりないから。
実の姉妹だというのに、咲沢と菜美さんの食事のスピードは全然違った。流し込むように食べていく菜美さんに比べ、咲沢の箸の速度はずっと遅い。おいしくなくて箸が進まないってわけではないんだろうけど、伸びた前髪のせいで表情が全部見れているわけじゃないから不安にはなる。
昔と違うってのは、まぁ、本当にそのとおりだと思う。菜美さんのからかいにも、咲沢は俯いて首を振るだけだ。もしこの場に僕がいなかったらもっとそれらしい反応をして、感情を出して否定するのだろうけど。
菜美さんが二杯目の丼を空にする頃に、ちょうど咲沢も食べ終わっていた。空になった丼を両手に持ち、流し台に持っていく途中。
「あ、ありがと……ゆうくん」
もうすっかり耳に慣れてしまった呼び名で礼を言われる。この呼び方を許していなければ、危うく二木という名字の方がネット上に撒かれていたかもしれないと思うと、不幸中の幸いと言って良いのか悪いのか。
何気なく、何も考えず自分が食べた分と、咲沢姉妹の分の三つの丼と箸を洗う。すっかり手馴れてきた一連の流れだ。まさか、手伝いを始めた当初の僕も、こうなっているとは思ってなかっただろう。
「残りはまだフライパンにあるんで……まぁ、明日の朝ごはんにでもしてください。あと自作ですけど、冷蔵庫の中に漬物があるので、食べてみてもらえますか。たぶん朝には食べ頃だと思うんで」
菜美さんがぼそりと「主婦かよ」と呟くのを、とりあえず無視しておく。
「……帰るの?」
咲沢が僕に問いかける。前髪でほとんど見えないけど、視線はちゃんと僕に向いているようだった。
「帰る……つもりだったけど。え、だってこれから夜通し配信するんでしょ?」
「え、あ……そ、そうだよね。ごめん。なんか勝手に、ずっといてくれるつもりだと思ってた」
「さすがに泊まるわけには」
いかないでしょ、と思いながら現在の保護者代わりの人物を見る。
「え、別にいいんじゃない? 親御さんにはあたしから連絡しておこうか?」
「おい保護者代わり」
呆れを隠す気がサラサラない表情を向けても、菜美さんは何がおかしいのか全然わからないとでも言いたげな顔をしていた。
「泊まりだろうがなんだろうが、やることはいつもの変わらないでしょ。それとも配信中になんか悪戯でもする? 手伝うよ」
「そんなの手伝うぐらいなら僕の代わりに配信の方を手伝ってくださいよ……」
たしかに普段と内容は変わらないかもしれないけど、泊まり込みで同じ部屋にいるのは何か違うと思う。その認識は僕だけなのか、咲沢もこれといって僕が泊まり込みで彼女の配信の手伝いをすることに反対はしてなさそうだった。
「ただの耐久配信だけど、一応傍に控えておいてもらえる? 寝てたら起こしたり、あまりにもクリアが絶望的だったらその判断をしてもらったりさ」
「まぁ、いいですよ。帰ってもどのみち、配信は見るつもりでしたし」
「……見てくれるつもりだったんだ」
思わず漏れたような、そんな声を上げて咲沢が僕を見ている。自分が口にした言葉の意味を遅れて理解したけど、否定するのもおかしい気がして。
「僕だってこれまで横で見てたし、ゲームの結末も気になるしね」
「……うん、ありがとう」
表情は相変わらず俯いていてよく見えない。けど、笑っているような声色だから、まぁ、喜んでもらえてるものだと勝手に判断しよう。
「さーってと、それじゃああたしももうひと踏ん張りしますかね」
「仕事……まだ終わってなかったの?」
そう咲沢が聞く。妹の質問に、菜美さんは僕に向ける獰猛な笑顔よりもずっと優しげに微笑んだ。
「受注分はね。他は、売り込むための何やらだよ。あ、悠里。ついでだから二時間置きぐらいにあたしの部屋のドアを叩いてよ。寝落ちしてるかもしれないからさ」
「いいですけど。キレてドアを蹴り開けたりしないでくださいね」
「確約はできないね」
しろよ。と目で訴えても、菜美さんは何食わぬ顔で自分の部屋へと戻っていく。本当に蹴り開けそうだから、ノックしたらすぐ距離を空けよう。
「……しかし、菜美さんもがんばるな」
イラストレーターの仕事がどれだけ大変なのか知らないけど、久しぶりに見た菜美さんの顔には隠しきれないほどの疲労が見えていた。言動がいつも通りだからわかり辛いけど。
「結構……大きい仕事をいくつかもらえてるみたいで、その分忙しいのかも。今まではなずなの配信に時間を取られちゃってたから……これでもっと活躍できるって、いつもゆうくんに感謝してるよ」
「……まぁ、役に立ってるなら何よりだよ」
下心ありきで手伝いを買って出た分、素直にお礼を言われると心苦しくもあるけど。
「その、菜美さんっていつから絵を描いてたんだ?」
会話がないまま時間が過ぎるのも落ち着かなくて、とりあえず気になっていたことを聞いてみる。
「いつから……かな。お姉ちゃん、最初は家族にも内緒にしてたから。絵を描いて、それを仕事にするんだって言ったのは……たぶん、お母さんが亡くなってからだと思う」
母親が亡くなったことを語る咲沢の表情は、思っていたよりも淡々としていた。当時は、どうだっただろう。あの頃から俯きがちで前髪も今と変わらず長かったせいで顔はよく見えなかったし、肉親を亡くした同年代の人間にどういう顔をすればいいかわからなかったから、あまり近づかないようにしていた。
……たぶん、そういった積み重ねがあったから、どんどん疎遠になっていったのだろう。
何も積み重ねてこなかったという、不干渉の積み重ねがあったから。
「……そっか。なら、少なくとも二年ぐらいは続けてるんだな」
「うん。いっぱい練習して、色々な人のリクエストに応えたりして活動を続けて……もう一年ぐらい前になるかな。なずなの絵を描いて、一儲けしようとしたみたい」
「身も蓋もない言い方するなぁ……」
現に多少なりとも利益が出て成功してるんだから、すごいと思うけど。
「お姉ちゃん、本当にがんばってたから。だから、私がなずなとして活動してることが、お姉ちゃんの仕事に繋がっていればいいな、って……」
「……おまえは、菜美さんのためにVtuberを始めたのか?」
そう聞くと、咲沢は少しだけ顔を上げて、僕を見た。分厚いレンズの向こうにある瞳と少しだけ視線が重なり、すぐに逸らされる。
「……どう、だろう。そういう気持ちもあったのかもしれないけど……今は、楽しいから、かな」
楽しい、と。
肩を丸め、視線を下に俯かせたまま。それでも、咲沢はしっかりとそう口にした。
「普段はこんな私だけど、なずなとしてみんなの前で遊んで、楽しんで、それを見てもらっているのが楽しいっていうか……なずなとしてならみんなと楽しくできるのが、嬉しいの。ゆうくんに知られちゃったのは……恥ずかしいけど、でも、最近それも慣れてきて」
「……こんな、とかじゃないだろ」
思わず、否定するための言葉が零れる。
「おまえは元々そういう奴だったじゃないか。昔は、何しててもはしゃいで、楽しそうにしてて。まぁ、今となっちゃみんな誤解してるかもしれないけどさ」
僕が憶えている咲沢の姿は、紛れもなく芹沢なずなそのものだ。
「芹沢なずなの方がずっと人気になってるから、今更おまえの素を見せたらむしろ騒ぎになりそうだけど、進学とかして新しい環境になったら昔みたいに振る舞うのも、きっと」
「……やっぱり、誤解してたんだね」
言葉を、遮られる。
「前からそうなんじゃないかなって思ってたけど……ゆうくん、勘違いしてるよ。私は昔からこんな性格だし、いつも引っ込み思案で、話も、こんな感じでうまくなくて」
「……そんなこと、ないだろ」
鼻で笑ってみながら、僕は咲沢の言葉を否定する。苦笑いを浮かべながら卑下するような咲沢の言葉が信じられない。
だって、僕は彼女に憧れて――
「小さい頃だから私の記憶もあやふやなんだけど、たぶん、私は全然変わってないと思うんだ。いつもゆうくんに手を引いてもらって、やっと一緒に遊ぶことができたような弱虫だった。だから、私もそんな、ゆうくんみたいな人になれたらって思ってたけど、なかなかうまくいかなくて」
卑下している。そう思った。でもそう口にする咲沢の顔に、そんな後ろめたさは見えなくて。
「もうこのまま生きていくしかないのかな、って諦めてたんだけど……お姉ちゃんがVtuberをやってみないかって言ってくれたの。あんなにかわいいキャラクターがあって、自分で色々設定を考えてみたら、ああなったんだ。ああやって、自分が望んだ性格になれたの」
むしろ笑って。今、自分が口にしていることがまるで誇らしいかのように。
「どうしてゆうくんが私のことをそうやって誤解していたのかわからないけど……でも、私の理想をもしゆうくんが気に入ってくれてるんだとしたら……うん、Vtuberになってよかったなって思うの。いっぱいいる有名な人たちに比べたら私なんてまだまだだけど、楽しいって言ってくれてる人もいて、隣にはゆうくんがお手伝いでいてくれて……えへへ、今、本当に楽しいんだ」
「……そう」
もっと気の利いた返事もできないのか。そんな冷静な考えも、さっきから頭の中で渦巻いている疑問に巻き込まれて、消える。
勘違い……誤解、している? 僕が、ずっと? 何度も懐かしんだあの思い出が、全部、勘違いだって言うのか?
そんなわけがない。勘違いしているのはそっちだ。
そう、言いたくなるのをぐっと堪える。お互いに証拠があるわけでもない。あの頃の僕たちを映したビデオなんて残っていない。思い出の中にしかない、お互いに憶えていると自供する記憶しかない。
「ね、ねぇゆうくん。なずなって……かわいいよね」
傍から聞いていたら、なんて突拍子がなくて、自信に満ち足りた質問だと思うだろう。
でも、違う。この質問には自信なんて少しも混じっていない。自分のことを聞いているだなんて微塵も思っていないだろう。そんな質問を、咲沢那奈ができるわけがない。
近所の猫、かわいいよね。最近テレビに出ているあのアイドル、かわいいよね。
そんな調子で、聞いてきてるだけだ。
彼女にとって芹沢なずなは、創り上げた渾身のキャラクターなのだから。
「……かわいい、だろうね。だから、人気が出てきてるんだし、僕もそう思う」
「だ、だよね……! ゆうくんにもそう言ってもらえるの、嬉しいな」
珍しく、嬉しそうに笑う咲沢から僕は目を逸らす。
「コーヒーでも淹れようか。昨日初めて豆から挽いてみたんだ。さっき飲んだけど初めてにしては良い出来だったと思う」
「あ、うん。ありがとう……全然いいんだけど、ゆうくん、結構楽しんでるね」
席を立って、顔どころか姿勢すらも逸らして背中を向ける僕を咲沢は訝しむこともない。
「……まぁ、時間はいっぱいあるからね」
この二週間。咲沢の傍に控え、楽しそうに配信している光景を何度も見て。咲沢のために食事や家事を率先して担当してきて、薄っすらと、わかってはいた。
傍で手伝っていれば、また、あの頃のような咲沢が戻ってくるかもしれない。そう思っていたけれど。どうやら、それすらも勘違いだった。
仮に、彼女に抱いていたイメージが僕の勘違いだとしても。仮に、彼女の勘違いだとしても。
僕が好きだと思っていた、いつだって楽しそうに笑って僕の手を引いてくれていた彼女は。
もう、僕の前には現れない。
僕の前では、常に一歩引いた、気弱な咲沢那奈として。芹沢なずなの笑顔は、いつだって画面の向こうの不特定多数の誰かに向けられているんだってことを。
咲沢にそんなつもりはないのだろうけど。
ようやく、本人から告げられたような気がした。
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