6話

 いつだって、僕は手を引かれる側だったことを憶えている。

 僕自身が特別引っ込み思案だったわけではなく、手を引く側、咲沢の思い切りが良すぎただけの話だったと思う。何か楽しそうなことを見つけては、いつだって僕の手を迷いなくグイっと引いて、その渦中へと飛び込むような日々だった。

 何かを思い出そうとする度に、僕の手を引く咲沢の笑顔が最初に浮かび上がる。

 カブトムシを取りに行こう。近所の野良猫に赤ちゃんが産まれたから見に行こう。神社で焼き芋を焼いてるからもらいに行こう。

 そんな風に、楽しそうなことに目掛けて飛び出していた。僕の手を引いて、僕の了承を得る前から駆け出して。楽しいものに向けて、僕を連れて行った。

 そういう、楽しかった思い出だけを何度も思い出しているせいだろうか。思い出せるのはそういった綺麗な思い出だけで。他の付随していたはずの感情が、希薄にしか思い出せない。

 どうして、手を引かれなくなったのか。手を、引いてくれなくなったのか。

 咲沢那奈という人間が変わっていったその経緯を、僕はまるで思い出せないのか。それとも、最初から知り得なかったのか。それすらもわからないけれど。

 手を引かれないから、自分なりに歩き出したその先に。いつのまにか、咲沢那奈の姿は見当たらなくなっていて。

 僕が置いて行ったのか。僕が置いて行かれたのか。その判断すら、いつのまにかしなくなって。昔はよく遊んだけれど、今は交流が断たれた幼馴染……なんて。ありきたりな関係性に落ち着いた。

 そのことを、当時は……悲しんだと思う。でもその悲しみはいつしか摩耗して、心のどこを探しても見当たらなくなって。

 ただ、教室で少しでも目立たないように肩を丸めて生きていく咲沢の姿を見るたびに、どうしても、昔の彼女の姿を思い出すことがあって。

 あの頃彼女が浮かべていた笑顔だけを何度も思い出していたから。脳裏にこびりついて離れなくなっていた。

 ……だから、きっと。率直に言ってしまえば。

 ぼくはずっと、あの頃の咲沢那奈を。あの頃の、いつだって眩しい笑顔を浮かべていた彼女のことを。

 ずっと、初恋の思い出として、持ち続けていたのだと思う。





「おい見たか昨日の配信! ようやくあのクソ難しいステージをクリアできてなずなちゃん大泣きしてたよな! いやぁ俺も思わずもらい泣きしてさぁ! ありとあらゆるゲームがへったくそななずなちゃんががんばったんだと思うと感動もすごかったよな!」


 ここで、「うん、隣で見てたよ」などと言ったらどうなるかな。

 という、チキンレース染みた発想をこの半月ほどで何度しただろうか。そんな馬鹿げた想像をやめ、僕は久志に向けて頷いた。

 雨の日の教室は陽光が差し込まない分、どこか薄暗い。寒さは我慢できても、びしょ濡れになりながら昼食を取る理由はまるでなく、僕たちは久志を含め別の友人たちと教室にいた。


「なぁ、久志。教室でその手の話を大声で話すのやめない?」

「は? なんで?」

「なんでって……ほら、興味ない人だっているだろうし」


 僕の気遣い兼話したくない話題からの逃げのつもりの発言は、どうやら周囲にも同意が得られなかったのか。え、そんなことないけど? みたいな顔をしている友人が大半だった。


「俺のここ最近の宣伝っぷりに、すでにクラスの数人には芹沢なずなの布教済みだ」


 「布教はされたけど別にそこまでハマってはねぇぞ」「アーカイブ長過ぎて追い切れないし」「動画送ってくる久志くんが普通に気持ち悪くて押し切られた」

 など、男女問わず若干の気疲れの表情が見え隠れしているが、芹沢なずなを否定するような人はいない。

 ……何をいらんことしてるんだ。と思いつつ、顔には出さないようにしたら変な苦笑になってしまった。

 僕が咲沢の隣で配信を手伝うようになり、だいたい二週間ぐらいが経った。その間に咲沢は何度も配信を行い、その全ての配信で隣でスタンバイしてる僕の血の気を引かせていた。

 ホラーゲームを実況配信しては、驚くたびに飛び上がって着けているヘッドホンをぶち抜いたり。そもそも驚かなくてもいちいちリアクションが派手だから何かしらに手や足をぶつけたり。細かいトラブルを上げるとキリがない。

 仕事が修羅場極まっている菜美さんにどうにか時間を作ってもらい、僕はVtuberとして配信するためのソフトや機材の説明を受けていた。そうやってどうにか不自由なく咲沢の手伝いするための技量を手に入れはしたけど……結局、何よりも必要だったのは別の技術だった。


「そういや悠里。今日は弁当なんだな。珍しい」

「え、ああ、うん。そうなんだ」


 僕の持つ弁当箱を見て、久志が目ざとく聞いてくる。


「おまえの家、朝は親が忙しいから弁当作ってもらえないみたいな話してなかったっけ」

「あー……これ自分で作ったんだよ。最近、ちょっと練習してて」


 自分で言うのもなんだが、パっと見る分には人並みの、普通のお弁当らしくできていると思う。もちろん全部が全部お手製ではなく、冷凍食品の恩恵に預かっているけど、きっと世の中のお弁当もそういうものだろう。夕食の残りと冷凍食品、それに焼いただけのウインナーを詰めただけとはいえ、これを平日の朝にし続ける労力というのは、結構馬鹿にならない。

 久志が僕の弁当箱を覗き込み、感心したように口を開けている。それを横目に、僕は教室の隅で……隠れるように食事を進めている咲沢の姿を見る。

 ……中身を見られたら気づかれると思ったけど、この調子なら、誰も咲沢の弁当の中身を確認はしないだろう。一応、中身は同じでも配置などの詰め方は変えてみたりもしたけれど。

 内心で安堵のため息を吐きながら、昨日の残り物であるから揚げを箸で摘んで口に運ぶ。時間が経っているせいなのか、僕の手際が悪かったのか、昨日よりは味が随分と悪くなっているように思えた。とはいえ、上出来な部類ではあるだろう。

 この二週間近くの手伝いの中、いざ僕がしてきたことを振り返ってみると……当初聞かされていた配信の手伝い、というよりは、日常生活の補助、と言った方が正しい。

 咲沢も菜美さんも根っからの仕事人間(咲沢の配信を仕事と言っていいのかわからないけど)のようで、二人とも日常生活の大半をその作業に費やしていた。菜美さんの本業であるイラストレーターとしての仕事も順調に修羅場らしく、部屋にずっと籠っては時折普通に怖いぐらいの雄叫びを上げたりしていた。

 そういう菜美さんは仕方ないとはいえ、咲沢の方も配信が長時間に渡る時は、そのまま体力を使い果たしたかのように何もしなくなる。学校もない休日なんかは下手すると一日中難易度の高いゲームに挑戦していたりする。

 そんな二人が一つ同じ屋根の下にいても、お互いがお互いに自分ことで手一杯だ。僕が来るまでは二人ともそういう忙しい時期はまともな食事すら取らず、いつもカップ麺や出前で済ませていたらしい。

 僕も料理が得意ってわけでもないけど、試しに作ってみたところ意外と好評だった。金は出すから可能な限り作ってくれと言われ、こうして咲沢が学校にいる間の昼食すら用意するようになった。

 洗濯はさすがに自分たちでやってもらっているが、その他の家事については僕の方でほとんど済ませている。家での小間使いのようなことばっかしてるかと思えば、芹沢なずな宛に届くメッセージやメールなどを事前に問題がないか確認する作業といったマネージャーの真似事をさせられたりと、当初の予定よりも多岐に渡る使い回され方をしている。菜美さんの仕事関係の連絡も任されそうになった時は、さすがに荷が重くて断った。一介の素人学生に背負わせるには、守秘義務という言葉は重過ぎる。

 家でまったく家事をしないってわけでもなかったけど、今ではメキメキと自分の中で家事スキルが熟練されていくのを感じ、ちょっと達成感みたいなものを覚えていたりする。

 相変わらず長く伸ばされた前髪のせいで表情までは読み取れないけど、箸の進むスピードから見るに、どうやら今日の弁当もお気に召してもらっているようだ。


「最近は普段の配信にも安定感が出てきたしさ、これなら別のVtuberとのコラボとかもこの先あるんじゃないかな。これも、Uちゃんがなずなちゃんの手伝いをしてくれるようになったおかげかもな」


 一安心していた気持ちが、久志の言葉で簡単に吹き飛ばされる。


「頑として一言も発しないけど、慌てまくるなずなちゃんの傍にそういうしっかり者がいるってだけで見てるこっちも安心するんだよな。なずなちゃんの声にもそういう安心感が滲み出てるっていうかさ。残念ながら音声解析してもUちゃんっぽい声は探知できないんだよな」


 そんなことしてるのかよ怖いな、という悪態を済んでのところでから揚げごと飲み込む。冗談のように軽く言える気がしなかった。

 咲沢がやってきたミスの中で、僕の血の気を引かせた最たるもの。それが、配信中に僕の名前を呼びかけるというものだった。

 ホラーゲームの演出に飛び上がり、傍に置いていた水が入ったペットボトルを倒してしまった時のことだ。蓋をちゃんと閉めておけばよかったと後悔しつつ、慌ててキーボードや機材に水がかからないよう処理をしている僕に対して。


「あっ、ごめん、ゆう――」


 と言いかけた。その後に続く呼称は、いつもならば「くん」ではあるのだが、隣で配信を手伝いをしている人間は女の子だと言っている手前そのまま呼ぶわけにはいかず、咄嗟に、


「――ちゃん!」


 と、方向を修正した。

 その結果、芹沢なずなの配信の手伝いをしている女の子の名前は「ゆうちゃん」という、無駄に真実に近い情報が交錯することになり、そのミステリアス性を増すためか「Uちゃん」とアルファベット一文字のみの呼称が定着した。

 おかげで、今では芹沢なずなが何かミスをして僕がフォローするたびに、「ナイスUちゃん」だの「Uちゃん出た」だの「今日のUちゃん」といったコメントが流れるようになってしまっている。視聴者に問題なく受け入れられてしまっている以上、無理に存在をひた隠しにしても違和感があるし、このままこっちも受け入れるしかない。

 今では「今日のUちゃんの所業」みたいなまとめ方をされて、その配信中に僕がフォローしたことを箇条書きにしたり、その箇所を切り抜きした編集をして動画サイトにアップロードする人もいるぐらいだ。その内の一人が目の前にいる友人だと知った時は、頭を抱えそうになったけど。

 僕が現状にため息を吐くのを我慢している内に、久志はいつもの調子で僕以外にも芹沢なずなのどこがかわいいかを熱弁している。その熱意に周囲は若干引きつつも、内容を好意的に受け取り、頷いたりしていた。

 ……いつのまにか、クラスの中でも少なからず芹沢なずなは認知され、話題に上がるようになっていた。意外なことに男女問うこともない。

 声がかわいい。難しいゲームにがんばって挑戦するのが好感が持てる。慌てる様が見ていて楽しいだの。ただでさえクラスの人数が少ない教室の中で、いつも話題の中心にいる久志が積極的に布教を続けた結果なのかもしれないが。どちらにせよ、僕にとって段々と教室は居心地が悪い空間になりつつある。

 もちろん、少なからず給金をもらっている以上、雇い主が人気になるのは喜ばしいことだとは思うし、咲沢の努力を知っている身としては素直に良いことだと思う……が、その渦中に身を投じてる側からすれば、ただただ気恥ずかしい。後ろめたさ、とまではいかないにせよ、隠し事をし続けるのはどうしたって心労になる。

 僕ですらそう思うのだ。その当人である咲沢は、僕の比ではないほどの居心地の悪さを感じているだろう。

 前髪でその表情を隠したまま咲沢は早々に食事を進め、席を立った。誰とも目を合わさないまま、教室を出て行く。

 その姿を、僕以外に誰一人として目を向けることはない。咲沢の……芹沢なずなの話を、たった今しているというのに。

 誰だって、咲沢那奈と芹沢なずなを結びつける人はいないだろう。声を聞く機会が少ないとはいえ、咲沢の声は紛れもなく芹沢なずなの明るい声と同一のものだ。でも、その発せられる声の勢いや明るさが伴っていなければ、どうしたって結びつくことはない。

 咲沢の声を聞いたことがあり、芹沢なずなの声を毎日聞いているはずの久志だって、その二人の人物を繋げることはない。もしかして、なんて疑問を持つこともないだろう。

 それぐらい、咲沢那奈と芹沢なずなは、たとて次元を分けた存在であることすら関係なく、根本からまるで違う人間のようで。

 その事実を、咲沢はどう思っているのか。

 一緒にいる時間が多くなって二週間が経った今でも、僕はそのことを聞けずにいた。





 同じ学校、同じクラスであり、なおかつ家の位置も近い僕と咲沢は、こうして交流を再開するようになる前からも何かと、放課後の帰り道で顔を合わすことは多かった。

 とはいえ、だからといって二人で肩を並べて帰ることもなかったし、今となっても互いに意識はせよ、会釈すらしないことの方が多い。

 嫌、というより、僕にとってはただ気恥ずかしいだけだ。咲沢側からの理由は知らないけど、たぶん気持ちの底にそう違いはないだろう。

 実家の手伝いと嘘をつき、僕は久志や別の友人たちとの遊びを断って下校している。久志の家で各々携帯ゲーム機を持ち込んで遊ぶ……みたいな話だったが、芹沢なずなの配信を手伝うようになってから、久志の家に行くのは控えた方がいいと思うようになっていた。最近になって、部屋に芹沢なずなのポスターを壁に貼ったという話を喜々としてされたし、その空間ではどうあがいても心中穏やかに楽しくゲームに興じれると思えない。

 そうして帰る僕の視界に、とぼとぼと前を歩いている咲沢の背中が見える。家も近いから帰り道も同じだし、咲沢とそこまで身長差のない僕が彼女を追い抜こうと歩幅を広げると、どうしたって目立ってしまう。距離を詰めることもせず、僕は黙って咲沢の後ろを歩き続けた。

 極度に背中を曲げてるわけでもないのに、どうしてもその背中は小さく見える。小さい頃よりもずっと大きく、成長しているはずなのに。

 後ろから見続けたあの頃の背中は、もっと大きかったと思ってしまう。


「……え、あれ、ゆうくん!?」


 結局、咲沢の家に着くまで後ろを付いて行ってしまった。意図的ではないにせよ、視界に入った僕を見る咲沢の顔は驚きに満ちていて、ちょっと申し訳なくなる。


「いや、帰り道、一緒だから」

「え、あ、うん。そうだね……でも、声をかけてくれたらいいのに」


 それもそうだ。と、すぐに納得してしまう言葉を向けられ、僕は二の句が継げずに黙った。周囲に学校の人も減ってきて、人のいないタイミングもあったのだから素直に声をかけても何も問題なかったのに。そうなると、声をかけられなかったのは僕にしか問題がない。


「二人とも、家の前で何してるのさ」


 適当な言い訳を口にしようとする前に、玄関の扉が開かれた。いつものだらしのない部屋着ではなく、外出用のヤンキーみたいなしっかりした格好(果たしてそれはしっかりした格好なのか)をした菜美さんがブーツを履いて立っていた。


「お姉ちゃん、どこか行くの?」

「急な打ち合わせがあってね。こっちの方でやってもらうから、そんな遅くならないよ」


 何かと修羅場を駆け抜けていることが多いせいか、だいたいいつも機嫌の悪い菜美さんにしては珍しく、歯を見せて笑っている。


「遅くはならないけど、あたしの分の晩飯は用意しなくていいよ。あ、那奈宛の荷物、そこに置いてあるから。そんじゃ、行ってくる」


 珍しい笑顔のまま、足取り軽く菜美さんは出かけて行った。


「……たぶん、夕飯を打ち合わせ先に奢らせたりするんじゃないかな。先方に非がある時のお姉ちゃん、いつもあんな感じだから」

「……なるほどね」


 非常にわかりやすいご機嫌の理由に、二人して乾いた笑いが漏れた。


「えっ、と……今日の配信だけど……ゆうくんは、どうする?」

「どうする、って」

「ほら、お姉ちゃんは今日いないし、夕飯ぐらい、私一人でも用意できるし……」

「配信もあるし、夕飯も準備していくつもりだったけど……」

「あ、うん……それなら、全然、いいです。あ、嬉しい、です」


 露骨に言葉に詰まりだした咲沢を見て、遅れて、一つ納得できる理由を見つける。

 明らかに僕の視線を気にしながら、咲沢はそそくさと菜美さんが言っていた……彼女宛の荷物、片手で抱えられるぐらいの段ボールを手に取って、二階に上がろうとする。

 ……別に、わざわざ届いた個人宛の荷物を検める権限なんてないし、見ようともしてなかったけど。そこまで露骨に気にした様子を見せられると、何か僕に関係する荷物なんじゃないかと疑ってしまう。いやでも、疑ったところでなぁ……幼馴染の領分を超えてるし、そこまで踏み込むのは普通に気味悪がられそうだ。


「咲沢、今日の夕飯だけど――」

「えっ、あっ」


 希望のメニュー聞きたかっただけの質問は、最後まで言い切ることができなかった。

 声をかけられると思ってなかったのか、階段を踏み外して体勢を崩した咲沢の手から零れた荷物が落ちてきて、僕の足元に転がる。


「……その、大丈夫か?」


 その荷物を拾い、階段を昇って咲沢に差し出す。本当にただ踏み外しただけで怪我をした様子もない咲沢は、それを目を合わせないまま受け取った。


「別に、中身を確認なんてしないし、そんな心配しなくてもいいから」

「その、見られて困るものでもないんだけど……」


 言葉尻を濁したまま部屋に戻っていく咲沢の後に続いて、僕も部屋に入る。もうすっかり、咲沢の部屋に入るのに抵抗がなくなっているけど、これはこれでどうなんだろうな。

 断りなく部屋に入ってきた僕を全然咎める素振りもなく、咲沢は僕に見えるように荷物を開封する。


「……マイク?」


 僕の問いかけに、咲沢は頷いて肯定する。段ボールに入っていたのは卓上に置くタイプの小さめのマイクだった。


「新しいマイクなんて……ああ、予備のか」


 何かと機材を乱暴に(わざとじゃないにせよ)扱うことの多い咲沢のことだ。常用しているマイクの他、予備のものを買っておいてもおかしくはないし、わざわざこそこそ隠すように部屋に運ぶようなものでもない。


「その、予備のマイクは別にあって……その」


 段ボールからそのマイクを取り出し、手に持ったまま咲沢は言葉に詰まっている。


「もしかして、僕用の?」


 まさかと思って聞いてみた質問は、またさっきと同じように頷いて肯定された。そうして俯いたまま、僕へとそのマイクを差し出す。


「も、もしかしたら必要になることも、あるかなって。最近だとUちゃんって形で認知されてきたし、まだ詳しく調べられてないんだけど、もしかしたらボイスチェンジャーとか、そういう機能を使えばゆうくんと一緒に配信できるかも、なんて……思って……」


 段々と尻すぼみになっていく言葉は、きっと僕がその差し出されたマイクを手に取らないからだろう。

 ……当たり前だ。こんなもの、受け取れるわけがない。


「最初に言ったと思うけど。僕は、おまえの配信を手伝うつもりはあっても、一緒に何かをするつもりはないよ」


 Uちゃんとして、存在していないキャラクターが生まれた今となっても、そんなことをする気はサラサラない。


「僕にはおまえみたいにあんなハキハキと、不特定多数の誰かに向かって話したりなんてできないし、言葉だってうまくない。せっかく人気も出てきている芹沢なずなの活動に、水を差すだけだ」


 気恥ずかしいとか、そういう後ろ向きな理由はもちろんあるけれど。そんなものよりもずっと大きい理由がある。

 昔の、僕が知っている頃の咲沢の姿が、芹沢なずなというVtuberとしてこの世の中に確立している。それを陰ながら支えて、あまつさえ給金までもらって、これ以上何も望むことはない破格の待遇だ。


「でも、そんなの……だって、私ですらできてるのに」

「無理だって。そのマイクは予備として残しておきなよ。理由が理由だから、代金は僕の給料から引いてもらって構わないから」


 それ以上何か言われる前に、僕は背を向けて部屋を出ようとする。


「ああそうだ。夕飯、何が食べたい?」

「え、あ……な、なんでも、いいよ」

「じゃあ……余ってる材料でなんとかしてみるか」


 俯いて、厚い眼鏡と前髪に隠れてても、僕を見ているかもしれない視線を気にしないフリをしたまま、僕は部屋を出た。

 階段を下りて台所まで向かって、そこでようやく、深々とため息を吐く。


「急に何を言ってくるんだか……」


 ボイスチェンジャーを使おうが何しようが、僕があの咲沢の隣で一緒に配信なんてできるわけがないだろう。あいつ、自分が傍から見てどれだけすごいことをやってるのか、自覚はないのか。

 仮初の姿であろうとも、たくさんの人の前でその姿を晒し、コメントという意見を受け、捌いて、その上で何かをしていく。0からのスタートならまだしも、芹沢なずなというちょっとしたコンテンツの中に急に入り込めと言われて、うんと頷けるわけがないじゃないか。


「そもそも僕は……そこに邪魔だろ」


 幼い頃とは違う。何もない場所に楽しい場所を見つけて引っ張ってくれていたあの頃とは違って。もう咲沢が楽しんでいるあの瑞所は、咲沢だけのものだ。

 僕が入り込むスペースなんて、どこにもない。


「……夕飯、作るか」


 気持ちを切り替えるように、すっかり開き慣れた冷蔵庫の中を確認し始める。

 今になってもなお、僕と一緒に何かを、一緒に、遊んでくれようとしてくれた咲沢の気持ちを、嬉しく思っても。

 やっぱり今更、同じ場所に立てるとはどうしても思えなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る