5話
放課後。僕は昨日と同じように、日本酒の瓶が詰まったダンボール箱を抱え、咲沢家のインターホンを鳴らしていた。
どうやら本当に菜美さんの方から僕の親へと話をしていたらしい。不気味なほどスムーズに、僕が家業の手伝いをせずに、咲沢の家に行くことを了承してもらえた。元から毎日仕事があるほど切羽詰まったスケジュールだったわけでもないけど、こうまでトントン拍子に話が進むと怖くは思う。
僕が抱えている荷物は菜美さんが注文した物ではなく、僕の父親が渡してきた挨拶代わりの贈り物らしい。昨日のように突然蹴り開かれる玄関を警戒して距離を開けていた僕の目の前で、予想に反してゆっくりと開かれた。
「おう、いらっしゃい」
今回はちゃんと手を使って玄関を開けてくれた菜美さんは、僕の姿を見て鋭い目つきを和らげて微笑んだ。僕が手に持っている物を見て更に口元を綻ばせる辺り、わかりやすくてむしろ好感が持てる。
「お邪魔します。これ、親父から菜美さんに……『これで何卒』とか言ってたんですけど、なんか弱みでも握ってるんですか?」
「それ話したらこれを受け取れないだろ」
当然のように言い放ち、菜美さんはホクホク顔で親父からの口封じの品を受け取った。肉親と近隣住民との訳の分からないパワーバランスに想いを馳せそうになるけれど、首を振って咲沢の家へと上がる。
「那奈は部屋にいるから、後はよろしく。何か困ったことがあったら携帯に連絡くれ。作業中だから私の部屋には絶対来るなよ」
「え、菜美さんは一緒にいてくれないんですか?」
配信の手伝い、などと言っても、正直何をどうすればいいのかさっぱりわからないし説明もしてもらってない。てっきり、最初は菜美さんも隣にいて、手順を教えてくれるものと思っていたのに。
「悪い。今ちょっと立て込んでてさ。まぁ今日は昨日の謝罪兼雑談配信だけだし、そんな難しいことはしないから平気だろ。それとも何か? いきなり那奈とお部屋で二人きりは緊張しちゃうか? ん?」
「しませんよ。そういうことならさっさと仕事しててください」
明らかな煽りに動揺するのも癪だ。そう言って僕は菜美さんの横を通り、階段を上がる。
「……あの、本当にいいんですか?」
そのまま咲沢の部屋に行く前に、どうしても聞いておきたかったことがあって僕は足を止めて口を開く。
「何がよ」
「僕みたいな男が、芹沢なずなが配信してる間に近くにいて。もし僕が突然声を上げたりすれば、もうそれだけで十分放送事故ですよね」
手伝いをするにあたって、僕だってVtuber、芹沢なずなのことをちゃんと調べてきている。現実に合わせて無理がないようにしているのか、設定としても芹沢なずなに交友関係は薄く、話に上がることはないらしい。
もし紛れもなく男である僕が配信中に少しでも声を出せばどうなるか。考えるまでもなく荒れるだろう。これまで積み上げてきた決して少なくはない実績を簡単に崩してしまう。
そんな不安要素でしかない僕を、幼い頃に交流があったとはいえ、今はどういう人間に育ったかちゃんとわかってもいない僕を、妹と同じ部屋に放り込んで心配ではないのだろうか。
「もちろん僕だって何か問題を起こすつもりなんて更々ないですけど……だからって、さすがに軽率じゃないですか?」
「別に、問題が起きたら起きたらでいいんじゃないの」
「……え?」
あまりにも軽々しく言うから、一瞬何かの聞き間違いだと思った。
振り向いて、見下ろした先にあった菜美さんの表情を見る。
「起こしたければ起こしてもいいよ。たぶん、あの子にはそれぐらいでちょうどいい」
「いや、だから起こさないって……え?」
反射で否定して、それでも菜美さんが口にした言葉の意味を理解するよりも前に。菜美さんはまた笑って、自分の部屋へと戻っていく。
「……なんなんだ、今の」
まるで僕が問題を起こして、自分の妹のこれまでの努力を台無しにして欲しいかのように。いや、さすがに、考え過ぎだとは思うんだけど。
昨日、お酒を飲みながら僕たちに話していたような笑顔で、そんな心ないことを言えるだろうか。
……まぁ、僕だって菜美さんとこうして話をするのも、何年もなかったことだ。そんな人間分析のような真似をするのも無粋だし、正しいとも思えない。
昨日は言われるがまま、咲沢の部屋だと知らずに入ったからその時とはまた緊張の種類が違う。咲沢の部屋の前で一度大きく深呼吸をした後、ドアをノックした。
……部屋の中からわぁだのきゃあだの、ガラガラだの何かが落ちるような音が響いているけど、これ僕のノックのせいなのだろうか。
「……入って大丈夫か?」
「だ、大丈夫……です」
扉を開けると、部屋の主は尻もちをついていて、その傍には……おそらくスタンドマイクのような配信用の機具らしき物が床に落ちていた。咲沢の足にそれらと繋がったコード類が引っかかっていて、説明されずとも状況がなんとなくわかった。
「それだけ驚かれると、ノックの意味がないんだけど」
「えっと……普段、お姉ちゃんノックなんてしないから、逆にびっくりしちゃって」
「……それはそれでどうなんだろうな。怪我はない?」
コードに足を取られ姿勢を崩して転んだだけで、幸いモニター等の大きな機材は落としていないようだ。
「う、うん。平気だと思う。あー……よかった、マイクも壊れてないみたい」
スタンドマイクを拾い上げ、コードを整えて収音部分を指先で突き、問題なく音が拾えることを確認して咲沢は深くため息を吐いた。その一連の動作が妙に手馴れているように見えたのは、たぶん何度も落としてしまっているからなのか。などと勝手に思うけれど、あながち間違ってはなさそうだ。
昨日と違い、咲沢は制服ではなくて、厚手のトレーナーとスウェットという過ごしやすそうな恰好をしていた。同年代の女の子の部屋着なんて見たことないせいか、なんだか気恥ずかしくなって思わず目を逸らす。
「その、なんだ。家だと眼鏡じゃないんだな」
「あ、うん。そうなの。配信の時だけコンタクト。眼鏡の度が強いから、かけたままだとうまく認識してくれないことが多くて」
「……外でもコンタクトつけれてばいいんじゃないの?」
分厚いレンズの眼鏡では、傍から見れば咲沢の目がより小さく見えてしまう。普段から長い前髪のせいであまり見える機会は少ないが、見た目の印象は変わるだろう。
「その……眼鏡より視界が広がるから疲れちゃうのか、外でコンタクトって、落ち着かなくて。配信中は基本的にモニターしか見てないから、あんまり気にならないの。それに、今更私がコンタクトをつけて学校行ったら、みんな変に思うんじゃないかな……あ、いや、たぶん、むしろ誰も気づかないかもしれないけど……」
最後に自虐的に笑って、咲沢は椅子に深く座り直し、指先で前髪に触れる。
元より人数の少ないクラスなのだから、その内の一人が眼鏡からコンタクトに切り替えたことに気づかないわけがない。でも、だからといって、たぶんその事実に触れようとする人は……いないようにも思えた。無視をしようとか、そういう嫌な感情じゃなくて。きっと、誰もそれを望んでいないと思っているから。
クラスのみんなは、咲沢自身が誰かに関わってくることを望んでいないように思っている。それは、たぶん全部錯覚ではないのだろう。そういう認識が、幼い頃から変わりなく続いてきた子ども社会の中で、気づかない内に形成されていった。
僕だって、つい昨日までそう思っていたように。
「それで、僕は何をすればいいんだ?」
うまく言葉が見つからなくて、僕は話を切り替えてしまう。
「えっと……ゆうくんは、この椅子に座ってもらえるかな。今日は雑談しかしないつもりだから、特にこれといってやってもらいたいことはなくて……とりあえず、どんな感じで配信しているのか見てもらいたい、っていう、か……」
話しながら、次第に尻すぼみになっていく言葉。
「どうしたの?」
「そ、そうだよね。見られるんだよね……うぅ、なんか、今更恥ずかしくなってきた」
「……いや、ほんと今更だな」
今日の昼間。僕になら見られてもかまわないと言ってのけたのはどこのどいつだ。
「そ、その。変に思わないでね? 配信中のあの感じは、芹沢なずなだからああしてるだけで、その、そういうキャラっていうか。今更変えられないし、お姉ちゃんが描いてくれた絵に合ってるから、そうしたってだけで」
「……わかってるよ」
口では理解を示しても、心の中で、僕は否定していた。
だって、芹沢なずなとして振る舞っている彼女は、昔見た懐かしいあの頃の咲沢那奈のままなのだから。
「……う、うん。うん。私が恥ずかしがってちゃダメだよね。お願いしたのはこっちなんだから。よしっ」
威勢よく声を上げ、咲沢は部屋の壁にかかっている時計に目をやる。釣られ、僕もその時計に目を移す。
「もう時間もないし。始めるね。だいたい一時間ぐらいで終わる予定だし、普段通りの設定で問題ないはずだし、うん。きっと、大丈夫」
言い聞かせるような口調で、咲沢は大丈夫と何度か繰り返し、自身の携帯を操作する。僕も自分の携帯を取り出して、一般的なSNSのアプリを起動する。
芹沢なずなのアカウントは、昨日の内にフォローしてあった。タイムラインの一番上。そこに、昨日から何度も目にしたキャラクターがアイコンに据えられたアカウントがある。
昨日の件のごめんなさいと、雑談配信をやります。お暇な人、ぜひきてね。
「……ふぅ」
目を閉じ、咲沢は短く息を吐いた。机に置いていた真っ白でシンプルなカチューシャを手に取り、それで自身の前髪を掻き上げる。
前髪に隠され続けていた咲沢那奈の顔は、思わず息を飲むほどに、普段とは違う気迫に満ちていて。
その黒い瞳は、まっすぐに目の前のモニターに向けて開かれている。
「始めるね」
淀みも、躊躇もない声。この声が咲沢那奈の声だと、縮こまるように生きている女の子の声だと、いったいどれだけの人が気づけるだろう。
僕だって、彼女の中にそういった一面があることを知っている僕だって、最初は信じられなかったのに。
咲沢の右手がマウスを動かし、人差し指がトンと軽やかな音を立てて跳ねる。
「――どうもー、芹沢なずなです! 初手謝罪から入ってしまうけど、昨日は本当にごめんね!」
明るく、快活に。咲沢の声が響き、マイクに乗る。彼女の目が、口元が作り上げる笑顔が、楽し気に揺れる肩が、カメラを通じてパソコンの中に取り込まれ、キャラクターを彩っていく。
「ほんっとに驚いたよー。冬なのにゴキ、えっと、Gさん? 飲食店とかだと太郎さん入りましたー、とか言うらしいけど、まぁそれが突然出てきて驚いちゃって、思わずモニターとかその辺りの物をバーンって倒しちゃってさー。ゴミを片づけないからだろって? いや、ちゃんと、部屋は綺麗にしてるからね。なずなめっちゃ綺麗好きだから、プロフィールにも書いてあるでしょ。今コメントした人、そんなことばっか言ってると次に太郎さんが出てくるのはあなたの部屋かもしれないよ~」
取り込まれた情報は、僕では理解できない程の綿密なプログラムによって、変換されていく。ありもしない、架空の存在を映し出し、形にし、動きを与える。
画面の中では白い髪の愛らしい女の子が映っている。笑い、眉を曲げ困ったように、口を窄め不満を露わに。様々な表情を言葉に合わせて、語る。
咲沢那奈が笑えば、画面の中で芹沢なずなが笑う。怒れば怒り、困れば、困る。連動して感情と言葉を、ネット上に投げつけていく。
そこにあったのは紛れもなく、芹沢なずなというVtuberの姿だった。決して少なくはない数の注目を集め、今も、表示されている視聴者数はじわじわと増えていく。
「壊しちゃった機材は替えがあったから平気だよ。心配してくれてありがとうね。慌てて配信を止めてたからよかったけど、もしかしたら私が太郎さんにワーキャー言ってるのが全国配信されてたかもと思うとゾッとするね。ん? いつもの配信と変わらない?……それもそうか? いや、そうかなぁ……さすがにゲームに驚いてる時はもうちょっと自分でも言うのもなんだけどかわいげが……んぅ、そうでもないかも……ちょっと自分でも自信なくなってきた」
咲沢が発した言葉は、芹沢なずなが発した言葉として伝わっていく。別の画面では下から上へと、その反応が流れていく。
「草」「変わらないね」「いつもかわいい」「太郎さんに驚いた時の方がマシ」「配信続けてたら面白かったのに」
そんな文面が次々と流れていき、その一つ一つを咲沢の瞳は捉え、芹沢なずなとして返答していく。煽りを流し、拾うべきコメントは取捨選択し、適した言葉を適した形で打ち返し、笑う。咲沢が発した感情は、芹沢なずなが画面の中で表現している。
その連動は紛れもなく、咲沢那奈が芹沢なずなであることを、これ以上なく決定的に表していて。
隣に僕がいることを恥ずかしがっていた女の子は、どこにも見当たらない。次々と言葉を、感情を発してエンターテイメントを提供する、Vtuberがいるだけだ。
「まぁ謝罪についてはこんな感じで……って、最初にちょろっと言っただけだったね。もう一度、昨日は本当にごめんなさい。驚かしてしまった人は、これに懲りずに今後も配信を見てくれると嬉しいな……うん、今『いつもの変わらないだろ』っていった人、そのとおり過ぎて何も言えないや。私、事あるごとに叫んでるもんね。うん……まぁ、いいや。謝罪についてはここまで!」
パン、と。咲沢は頭上に上げた手を叩いた。胸の前で叩くとマイクに響き過ぎるからだろうか。そういった細かい動作が、咲沢にとってこの配信活動が慣れ親しんだものであることを表している。
「ここからは雑談っていうか、ちょっと近況報告をさせてもらうね。というのも、今日からお手伝いというか、簡単なアシスタントをしてくれる人が隣にいることになったの」
咲沢は画面ではなく、初めて隣に座る僕へと目を向けた。ちょうどお互いの目が合う。これまで堂々と声を上げていた咲沢の目が見開かれても、その驚きが声に乗ることはない。
「今までもお手伝いしてくれる人はいたんだけど……えぇえぇそうですお姉ちゃんです。どうせ私は機械音痴で色々一人でできないからお姉ちゃんに手伝ってもらってました。んで、お姉ちゃんも本業というか……まぁあっちが忙しくなってきてて、それで今回から無理を言って、私の学校の友達にお手伝いをお願いすることになりました」
芹沢なずなの友人という情報に、コメントが流れていく速度が急激に跳ね上がる。誰だ、だの。男か、だの。友達いたんだ、だの。普通に失礼だな……と思わなくもないコメントが流れても、咲沢の表情は一切曇らない。
「男の子なわけないでしょ~。私が異性を部屋に呼んで平然としていられる女だとでも思ってるわけ?……うん、思ってなかったのはいいけど、その理解力の高さはちょっと悲しくなってくるなぁ。なずな、一応サキュバスなんだけど……」
ついさっきまで僕が隣にいたことを考えて頬を赤らめていた女の子が、その上で僕の存在を偽りながら更に嘘を重ねている。演技力、という言葉で片づけられるのかわからないけど、よっぽど猜疑心の強い人間でなければ咲沢の言葉を額面通りに受け取れるだろう。それぐらい、芹沢なずなの言葉には淀みがない。
「まぁいいや。そういうわけで! 今日からお手伝いさんが来てくれることになったので、せっかくだから今後はこれまでできなかった難しいこともできたらなって思います。とは言っても、お互いおっかなびっくり、手探りでやっていくから色々と不手際があるかもしれないけど、温かい目で見てくれれば嬉しいな。まぁ、私の配信を見てくれるみんなに言うのも、今更な気がするけどさ」
淀みも、戸惑いも、何も見当たらない。滑らかに、それでいて朗らかに。咲沢は言葉を紡ぐ。
教室で話しかけられた時。授業中に指名されて応える時。僕と、話す時。俯いて、いつだって斜め下に発せられる声は今はまっすぐに響きマイクが拾い上げている。
教室では誰も気にしていない声が、今は、こんなにもたくさんの人に届いている。
いつもの姿とかけ離れた、笑顔交じりの、咲沢那奈の声。
もう失われたと思っていた咲沢那奈の姿が、芹沢なずなとして、ちゃんと存在している。
「さて、それじゃあ何話そうかな。久々だから、ここで話題を募集していいし、届いてるメールや質問に答えていってもいいかもね。今日は……叫んだりすることもないから、最後までのんびりお話しできたら嬉しいな」
彼女の配信を見ている人の中で。僕だけが。
それが限りなく「本物」なのだと、実感していた。
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